第五章 爽町雛子②

 杉江すぎえ神崎かんざきという友人を得て爽町さわまちは二年四組にようやく溶け込むことが出来た。箸が転んでもおかしいという具合に他愛のないことで爽町は二人とよく笑い合った。そこが四月の気詰まりだったクラスと同じ場所だとはもう思えないほどだった。

 この頃には二年四組は爽町にとって自分の居場所と呼べるものへと変わっていた。

 そんな教室で爽町達以上にクラスを自分のものとして振る舞っているように見える生徒が一人だけいた。それが昼川ひるかわだった。

 爽町と違って昼川は周囲との成績の差を気にしているようには見えず、教師から注意を受けても萎縮いしゅくしているようには見えなかった。昼川はいつも自身の欲求にまっすぐで、その行動には自信がみなぎっているようだった。昼川のそんな態度に爽町は少しの羨望せんぼうを覚えた。

 私もあんな風だったらもっと早くスギちゃんとゆっこと仲良くなれてたかもしれない。

 そう考えることはあっても爽町は強いて昼川と接触を持つことはなかった。それはクラスメイト達を注意深く観察していた結果でもある。

 トラブルメーカーというほどでもないが昼川は時に度を超すこともあった。けれど、そんな昼川に対してクラスメイト達の反応は静かなものだった。

 四組の生徒は昼川の言動を気にも留めていないように爽町の目に映る。どうやらそれは一年生の頃から慣れきっているためらしい。そんなクラスメイト達に爽町はならうことにした。杉江と神崎という友人に恵まれても、四月に芽生えたクラスの異分子となってしまうかもしれないという懸念が爽町の内にはまだくすぶっていた。そのため爽町は昼川には積極的には干渉しないと決めた。そういった対応を取ったこともあり、爽町にとって昼川は単に目立つクラスメイトでしかなかった。

 そんな昼川との関係性が変わったのは梅雨前線が日本列島に停滞し始めた頃だった。きっかけはある日の学級日誌。朝のホームルームで担任のつつみが珍しく口を尖らせていたのを爽町は覚えている。

 二年四組の学級日誌は出席順に毎日交代で生徒が記入する形をとっていた。しかし、その原則を多くの男子生徒がおこたっていると教卓から堤が注意を飛ばす。清彦きよひこ先生と下の名前で呼ばれても大目に見る堤が僅かながらとはいえ怒りを見せていることに爽町は驚いた。

 清彦先生って呼ぶのも気をつけた方がいいかもしれない。そう思って爽町は神崎に視線を向けた。その呼び方を始めた張本人である神崎は堤の話には目もくれず手鏡で前髪を直している最中だった。そんな神崎の様子に爽町は笑いを噛み殺すのに苦労した。

「先生の話は聞きなよ、ゆっこ」

 一限目までの合間に集まってきた神崎に爽町はそう笑いを漏らした。

「お説教されてたのは男子だからさ。関係ないかなって」

 崩れない神崎のマイペースな様子に爽町の隣で笑いが弾ける。遅れてきた杉江だった。

「流石はゆっこだね」

 笑う杉江の手に堤が話題にしていた日誌があることに爽町は気がついた。

「どうしたのそれ?」

 爽町が尋ねるとすぐに杉江が答える。

「日直なんだよね」

「今日はサボれないね」

 意味ありげな視線を爽町が向けると杉江がやれやれと面倒そうに日誌を机の上に置いた。

「何、書いたらいいんだっけ?」

 そう言いながら杉江が日誌をパラパラとめくっていく。その紙面に爽町も目を落とした。すると四十三人いるはずのクラスの日誌に同じ筆跡が何度も出てくる。見やすく丁寧で少し丸みを帯びた文字。その文字で埋められたページの記入者欄には全て同じ名前が記されていた。藤吉ふじよし真尋まひろ、と。その違和感に気づいたのは爽町と杉江が同時だった。

「……藤吉さんばっかり書いてない?」

 清彦先生が怒ってたのはこれか、と爽町は思い当たる。男子がサボった分を学級委員の藤吉さんが代わりに書いてるんだ、とホームルームでの堤の叱責の理由にも合点がいく。

 杉江と神崎は感心したように藤吉の書いた日誌を眺めている。

「ほんとだ。真面目だなぁ」

「ね。流石、学級委員」

 二人の会話はそのまま藤吉の勤勉さや優等生ぶりにシフトしていく。そのことに爽町はなぜか不満を覚えた。

 なんで? これ、おかしくない?

 爽町の中でふくれ上がる感情があった。

 一月ほど前まで感じていた教室での居心地の悪さ。その一端が日誌に表れているように爽町には思えた。クラス全員に等しく与えられた役割がたった一人に押しつけられている。そして、それを他のクラスメイト達が見て見ぬ振りをしている。その無関心が腹の底に溜まっていた鬱憤うっぷんを波立たせていく。

 そこで、ふと藤吉もクラスに疎外感を覚えているのではないかと爽町は思った。四月の私みたいに、と。話したこともない藤吉相手に自然とシンパシーが湧いてくる。鬱憤と同情が一緒くたになった感情が怒りに変わるのに時間は掛からなかった。

 どう考えても、それって不公平じゃん。

 その考えはいつの間にか口から出ていたらしい。思わず口走った言葉に爽町は焦る。事なかれ主義の二年四組でその言葉がどう受け止められるか。それを想像するだけで全身に緊張が走った。傍にいる二人も二年四組の生徒には違いない。四月の息苦しさを爽町は思い出す。身の置き場のない針のむしろのような教室。辛い経験が脳裏に過って杉江と神崎の顔をまともに見ることが出来なくなった。

 けれど、返ってきた反応は予期していたものとは違っていた。

「ヒナもえらいねぇ」と神崎。

「そうだね。一緒に男子に文句言ってやろ」

 杉江はそう言って力強く頷いていた。緊張により強張こわばった身体から力が抜けていく。

 そっか。スギちゃんとゆっこは違うんだ。二人は味方なんだ。

 予鈴が鳴って杉江と神崎はそれぞれの席に戻っていった。一限目の授業を受けながら爽町は自身の言葉を反芻はんすうする。不公平。それはクラスメイト達の何事にも無頓着むとんちゃくな態度から生まれた感情だった。でも私だって、と爽町は思う。

 私も昼川くんを避けてる。

 時として行き過ぎる昼川に目をつむり野放しにしている。それは他のクラスメイト達とどれほど違うのか。クラスから孤立しないための処世術といえば聞こえはいいかもしれない。けれど、それが我が身可愛さからであることは爽町自身が一番よく分かっていた。

 不公平なのは私も同じ。でも、それじゃいけない。誰か一人を、藤吉さんを、苦しませたままでいいはずない。なら、男子にだって、昼川くんにだって遠慮してたら駄目だ。

 縮こまって逃げ出しそうな心を爽町は少しずつ決意で固めていった。

 その日の放課後、爽町は手始めに杉江と神崎とともに藤吉を呼び出すことにした。日誌の書き方を教えてほしいと言うと藤吉はあっさりと三人の呼び出しに応じた。日誌について一通りの書き方を藤吉は三人に説明していく。梅雨の晴れ間の教室に他の生徒は残っていなかった。杉江と神崎以外のクラスメイトに聞かれる心配のないことが爽町の背中を押す。何気ない風を装って爽町は切り出した。

「ねえ、藤吉さん。何か困ってない?」

「えっ? 急にどうしたの、爽町さん?」

 藤吉は唐突な爽町の質問に驚いたように目を丸くしている。構わず爽町は続けた。

「日誌さ。藤吉さんばっかり書いてるでしょ?」

 その言葉に藤吉が決まり悪そうに苦い笑いをこぼす。

「ああ、うん。そう、だね」

 藤吉のそのぎこちない笑顔に爽町は胸がきゅっと締めつけられるように感じた。

 やっぱり我慢してる。架空の同情に実態が伴っていく。爽町は藤吉の抱える辛さを自分のものとして受け取ったような気がした。

「それって不公平だよ」

 我慢しなくてもいい。一人で背負い込まなくていい。そんな意味を言葉に込める。けれど、藤吉には上手く伝わらなかったらしい。爽町から視線を外して藤吉は言う。

「……でもほら、あたし、学級委員だから」

 藤吉の口振りは学級委員だから自分が皺寄せを引き受けるのは当然なんだ、と現状を諦めているようだった。そう言われては返す言葉がない。何と言えばいいだろうかと爽町が考えていると先に神崎が口を挟んだ。

「それとこれとは別だよ、藤吉さん」

 杉江もすかさず援護射撃とばかりに言い立てる。

「そうそう。学級委員だからってなんでもかんでもやらなきゃいけないわけじゃないよ」

「でも」

 責任感の強さからか藤吉は自身の役割を投げ出せないでいるようだった。それを見かねたように杉江が言い放つ。 

「私、男子達に言ってこようか?」

 杉江の申し出に対して藤吉は大袈裟に手を横に振る。

「いやいや、今日も堤先生が注意してくれたから大丈夫。大丈夫」

 大事おおごとにはしたくない様子だった。けれど、それではいつまで経っても問題は解決しない。もう先送りには出来ないのだと爽町は釘を刺す。

「でも、このままじゃ良くないよ」

「……うん。でも。あたし、男子って近寄りづらくって。注意するより自分でやっちゃう方が楽だし」

「それじゃあ藤吉さんばっかり大変じゃん」

「爽町さん達が気にしてくれただけでうれしいよ。ありがとう」

 話を終わらせようとする気配を爽町は感じたが、そうはさせないと言い募る。これ以上、誰かに負担を強いたままにしておくのは嫌だった。

「駄目だよ。こういうのはハッキリさせなきゃ。私、藤吉さんの代わりに男子達に怒ったげるよ」

 真っ直ぐ藤吉の目を見て爽町は言った。

「もちろん私達もね」と杉江と神崎が賛同する。

 真摯しんしに伝えた言葉に藤吉もようやく折れたようだった。

「……うん。三人ともありがとう。やっぱり、あたしは運が良いな。こんな優しい同級生に恵まれてるんだもん。みんなと同じクラスになれて良かったよ」

 感謝を述べた藤吉にえっへんと神崎が胸を張っておどけて見せた。その妙なポーズに藤吉がして腹を抱えるようにして笑う。笑いの沸点が低いのか顔を上げられないほど笑う藤吉に空気が和んで三人も一緒になって笑った。

 自分達と同じように笑う藤吉に爽町は同情とは違う親近感を覚えた。これまで優等生だと思っていた藤吉もなんてことはない同い年の女の子なのだと爽町は再認識した。もしかしたら実は話が合うかもしれない、と新たな友人候補に胸をおどらせてさえいた。だからこそ、藤吉にかたよってしまっている負担を一刻も早く解消しなくてはならないと決意を新たにもした。

 一冊の学級日誌が爽町を変えていた。

「――きっかけは日誌でした。当番をサボりがちな男子達に注意するようになったんです」

 頷く建岸たてぎしを見て爽町は一つ息を吐く。

 きっかけ。そう日誌はまだきっかけに過ぎなかった。昼川くんのいじめに気づいたのはもっとずっと後のこと。

 建岸は辛抱強く爽町の言葉を待っている。

 息を整えて爽町はそれからの記憶に思いをせる。辿った記憶のどこで自分が間違えたのか、その致命的な分岐点を爽町はまだ見つけられずにいた。

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