第五章 爽町雛子③

 日誌の問題を見つけてから爽町さわまち達は男子達に声を上げ始めた。

 どんな反発があるか分からない、と爽町は用心していた。しかし、呆気ないほどに二年四組の男子生徒達は爽町達の注意や主張をすんなりと受け入れていった。

 大半の男子が爽町の声掛けに「あ、そうなんだ。ごめん。知らなくて」と素直に謝りさえする。その反応を窺っているとなまけているというよりは、日誌の存在に気づいていなかったり、日直などの当番がいつ自分に回ってくるのか把握していないようだった。

 認識していないものは気のつけようがない。だが一度、気がつくと男子達はむしろ真面目に取り組むようになった。その成果に爽町は鼻を高くした。クラスのためにとまでは考えていなかったが、困っていた藤吉ふじよしの力になれたという実感が爽町に活力を与えていた。

 いつしか爽町は日誌以外のことでも男子に対して叱咤を飛ばすようになった。その内に多くの男子は以前にも増して大人しくなっていったが、例外もいた。昼川ひるかわとその取り巻きがそうだった。昼川達には他の男子と違って、騒いでいるとか人の迷惑になっているという自覚がそもそもないように爽町には感じられた。

 最初の内は昼川も他の男子と同様に「わるい」と謝ることもあったが、回数を重ねていくと「あのさぁ、爽町の方がうるさいじゃん」と文句を言ったり「なんで俺ばっかり」と苛立いらだった様子を隠さないようになっていった。

 それまで順調に爽町達の言い分を聞き入れる生徒ばかりだったせいもあり、言い返してくる昼川達に爽町は怖さを感じた。運動部の生徒の中でも昼川は頭一つ抜けて体格が優れている。女子生徒とは比較にならない筋力の持ち主であることは考えるまでもなかった。もしかしたら暴力を振るわれるかもしれない、と嫌な汗をかいたことも一度や二度ではない。

 それでも爽町は昼川への忠告や注意喚起をやめようとは思わなかった。四月の経験が中途半端に投げ出すことを許さなかった。嫌な思いをする人をこのクラスからなくしたい、と爽町は考えていた。その考えが浮かぶ時、頭には藤吉のぎこちない笑顔があった。あんな風に笑う顔をもう誰のものであれ見たくない。笑うときは思い切り笑って欲しい。爽町はそう願っていた。

 けれど、その願いも空しく昼川とは平行線のまま、夏期休暇前には二人のやり取りはほとんど喧嘩の様相を呈するようになっていた。そんな状況に対する手立てを求めて爽町は杉江すぎえ神崎かんざきに相談を持ち掛けた。

「昼川くん、どうしたらいいと思う?」

 そんな爽町の真面目な質問に杉江は気の抜けた返事をする。

「どうだろね?」

 日誌の件では手伝ってくれていた杉江と神崎も、一年の頃から見慣れているせいか昼川の態度を爽町ほどは問題視していないようだった。

「ちゃんと考えてよ、スギちゃん」

「あんだけ言って変わんないなら、もう無理だよ」 

「そんなこと言わないでさ。あたし、結構本気なんだよ」

「ヒナが頑張ってんのは分かるよ? でも、うちらにはどうしようもないかな」

「いっそヒナが告ってみたら?」と神崎は軽口を叩く始末。

「ゆっこ~?」

「あはは、それいいじゃん。ビッグカップル誕生」

「やめてよ、スギちゃんまで」

 頼りの二人にまで悩みを聞き流された爽町はお手上げというように机に突っ伏した。そんな爽町に杉江が声を掛ける。

「て言うか、今、ヒナさ。あたし、って言ったよね? 藤吉さんのまね?」

「あれ、出てた? 中学の頃はあたし、って言ってたからさ。……それよりまねって何?」

「ほら、藤吉さんも自分のこと、あたしって言うじゃん。だから」

「そうだっけ? でも、まねじゃないよ」

 神崎がふーん、と意外そうな顔をしてみせる。

「ヒナ、藤吉さん大好きだし、まねしてるのかと思った」

「ゆっこもこう言ってますけど?」

 からかうように同調する杉江を爽町は遮る。

「ちょちょちょ、大好きって、どこからそんな話に」

「ほら、日誌の時も藤吉さんきっかけっしょ。ヒナいっつも藤吉さん可哀想、藤吉さん大変、何とかしなきゃって言ってたし」

 杉江の指摘に爽町は顔から火が出るかと思った。昼川への対応に気を取られて周囲からの視線への意識が散漫さんまんになっていた。教室に馴染なじんだ結果でもあるが恥ずかしいことに変わりはない。そうして顔を赤くした爽町に杉江が人差し指を向けた。

「照れてる照れてる。やっぱ大好きじゃん。ヒナと藤吉さん、メイクも似てるしね」

「えっ、藤吉さんってメイクしてるんだっけ?」と照れ隠しに爽町は話を逸らす。

 それを受けて神崎が得意そうな表情を作った。

「あれに気づかないとはヒナもまだまだだね」 

「薄めだけど絶対してるよ。ヒナも藤吉さんも素材が良いんだからもっとがっつりやってみたいけどね」

「スギちゃん、それいいね。綺麗になってアタックしたら昼川もイチコロだよ」 

「ゆっこ、そういうじゃないんだって」

 打開策は見つからなくてもこうして二人と過ごす時間は爽町にとって楽しいものだった。だからこそ、と爽町は考える。昼川くんも含めて二年四組を良いクラスにしたい、と。

 しかし、いくら悩んでも爽町一人ではどうすることも出来なかった。妙案も思いつかないままに律調りっちょう高校は夏期休暇を迎えた。

 そして、一ヶ月近くの期間があった夏期休暇が明けても二年四組の教室での昼川の態度に変化は見られなかった。そんな反省の色の見えない昼川に爽町はめげずに何度も注意を繰り返した。けれど、杉江や神崎をはじめとしてクラスメイト達も教員も、爽町に加勢することも昼川を制止することもせずその様子を傍観ぼうかんするばかりだった。

 そうして有効な解決策を見出せずに爽町が途方に暮れていた頃、放課後の教室で藤吉と二人になる機会があった。文化祭で着る衣装の採寸。その待ち時間。杉江と神崎に指摘されたこともあって爽町は二人きりの状況で藤吉を必要以上に意識してしまう。そわそわと落ち着かない気分を覚えたが、そんな態度は失礼だと思い直し雑談の体で話し掛けた。

「昼川くんってなんであんなにガサツなんだろうね?」

 その問いかけに藤吉は板書を消す手を止めて爽町の方に視線を向けた。

「でも、すごいよ爽町さんは。あたしだったら昼川くんに何か一言注意してやろうなんて、絶対できない。やっぱり、ちょっと怖いし」

 不意に他でもない藤吉に褒められて爽町は舞い上がった。

「思ってたほどじゃないよ。確かに背は高いけどね」 

 藤吉の賞賛を落胆に変えたくないと思わず見栄を張ってしまう。こういうところかも、と爽町は杉江と神崎の言葉を思い出した。自分でも怖いと思ってるのに藤吉さんにはみっともない姿を見せたくない。

「……でも、ほら」 

 藤吉の言いよどむ様子に爽町は意識を会話に引き戻す。

「ん?」

 訊き返した爽町に藤吉が答えたのは予想外の言葉だった。

「……いじめとかさ、怖くない?」

 太陽が雲に隠れたのか教室にさっと影が差す。居心地の良い場所に変わったはずだった教室が一瞬にして四月の頃に戻ったように爽町は感じた。

「いじめ?」

 息だけが漏れ出たような声が出た。小さくあごを引くようにしてその言葉に藤吉は頷いた。

「うん。ほら、……美ノ瀬みのせくん」

 尻すぼみな藤吉の声が頭に染み渡っていく。それに従って爽町は鳥肌が立つような感覚を覚えた。

 美ノ瀬くん。成績優秀な美ノ瀬くん。確かに昼川くんと時々、一緒にいる。

 美ノ瀬と昼川。その二人の組み合わせを爽町は意外だと感じていたけれど、その関係性を深く考えてみたことは今までなかった。しかし、改めて二人について思い返すと思い当たる節が次々と頭に浮かぶ。

 美ノ瀬の背中を昼川が叩いていたこと。下校中に肩を組んでいるところを見掛けたこともあった。男子同士のスキンシップの一環、その程度に爽町は二人のやり取りを見ていた。けれど、それだけでは説明のつかないこともあった。美ノ瀬の持参した昼食を昼川が受け取っていたこと。授業中に昼川が指名された問題をなぜか美ノ瀬が答えていたこと。そういうこともあるか、と見過ごしていた光景が爽町の中で別の意味に塗り変わっていく。

 いじめ。あれはいじめだったんだ。

 私は何を見てたんだろう、と爽町は唇を噛む。藤吉さんのため、クラスのためと男子達に目を光らせていた。けど、目の前で起こっていたことに、その本質に気づくことが出来なかった。なんて私は馬鹿なんだ。

 昼川くんが美ノ瀬くんをいじめている。そう考えてみると爽町の足下から首筋に寒気が走った。

 怖い。もし、その矛先が私に向いたら?

 必死に固めていた決意がもろく崩れていく。すがれるものを探すように顔を上げると気遣きづかわしげに覗き込む藤吉の視線とぶつかった。その目に引き込まれるように爽町は尋ねた。

「藤吉さんが私なら昼川くんにどうやって注意する?」

 質問を受けて藤吉は考え込むように視線を泳がせた。消し残した板書を清掃しつつ考えをまとめるように藤吉はゆっくりと手を動かす。そして、手を止めると爽町に背を向けたまま自信なさげな声で答えた。

「あたしは、……やっぱり爽町さんみたいに自分一人じゃ行けないかな。だから、先生とか大人を呼ぶと思う。昼川くんだって大人は苦手だろうし――怖いものだってあるんじゃないかな」

 大人は、先生は駄目だと爽町は思う。なぜなら四月に爽町が抱えていた窮状きゅうじょうに気づく大人はいなかった。男子達に声を上げた際にも教員の助勢は得られなかった。そういった経験から爽町は大人には頼れない、と判断した。私がやるしかない、と。

 けれど、藤吉の言葉に爽町はある閃きを得ていた。事態を収集させるヒントを。

 怖いもの。そうだ。昼川くんだってただの高校生。私と同じように怖いものがあるはず。爽町はそう考えた。

 昼川くんを怖がらせればいい。クラスの中に怖いものがあると昼川くんに少しでも思わせられればいい。怖がらせられる何か。それさえあれば、いじめだってやめるかもしれない。

 それから爽町は普段通りを装いながら、どうにか昼川を怖がらせることは出来ないかと画策かくさくするようになった。

「――怖がらせれば、やめると思ったんです」

 それが間違いだった。その過ちが昼川の死に繋がっていたと爽町は悔やむ。

「先生や大人に相談しようとは思わなかったの?」

 建岸たてぎしの言葉にあの日の藤吉の助言が重なって聞こえた。藤吉も大人に頼ることを勧めていた。その意見に耳を貸さなかったのは、それまでの二年四組での経験があったからだった。けれど、その選択が昼川を死に追いやった。それなら、と爽町は思う。

 私のやってきたことは全部、間違いだった。独りよがりの自己満足だった。

「全部、全部、私が間違ってたんです」

 後悔と罪悪感、そして自己否定が押し寄せ、爽町は涙を流すことしか出来なかった。

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