第五章 爽町雛子④

 取調室に反響する自身の嗚咽がさらに爽町さわまちを追い込んでいく。

 間違っていたのは私なのに、私には傷つく資格も、泣く権利もないのに。

 そんな爽町の心の自傷を止めたのは建岸たてぎしの声だった。

「あなたが昼川ひるかわくんを刺してしまったこと。その選択は、行動は確かに間違いだと思う。でもね、私はあなたがしてきたこと、その全てが間違いだったとは思わない。相手が何であれ立ち向かうっていうのは難しい、言葉にする何倍もね」

「でも、私の、私のせいで、昼川くんは」

「間違いというならね、爽町さん。あなたが一人で抱え込んだこと。そして、私達、大人が気づいてあげられなかったこと。それが間違いだと私は思う」

 かばうような建岸の口振りに爽町は申し訳なさを覚える。大人を、先生を遠ざけたのは私なのに、と。すすり泣く爽町に建岸はなおも語りかける。

「あなたが自分を責めるのは仕方ない。自分のしたことに向き合って後悔して、反省して、これからつぐなっていかなきゃならない。でも、あなたはまだ未成年でしょう。だったら、あなたがしたことに責任を持たなきゃいけないのは私達、大人なんだよ」

 起こした行動の結果にさえ責任を持てないことが爽町を一層苦しめる。責任を取れないからこそ未成年なのだと爽町は痛感した。

 それなら、誰が、誰が私の身勝手な間違いの責任を取るの?

 その疑問の答えはすぐにも建岸の口から発せられた。

「あなたの印象で構わないから答えてほしい。担任のつつみ先生はいじめに気づいていたと思う?」

 学校で起きた事件。二年四組の生徒同士の問題。そして、責任を取るのは子どもではなくあくまで大人という建岸の論調。その文脈で槍玉に挙げられるのは担任教師に他ならない。予期できたことではあったが、爽町は告げられた名前に言葉を失った。どれだけ迷惑を掛けたら気が済むんだ私は、と胸が塞がる。そこへ建岸は問いを重ねてきた。

「堤先生はどんな先生?」

 実際に堤がいじめに気づいていたかどうか。いじめを察した上で見て見ぬ振りをしていたのか、それとも認識すらしていなかったのか、爽町には判断がつかない。けれど、どんな教師かという質問には答えることが出来た。

「先生は、清彦きよひこ先生は、優しい先生です」

 堤が声を荒げたところを爽町は見たことがない。少なくとも爽町という生徒の前では常に朗らかな態度を堤は崩さなかった。その優しさのためにいじめという発想に至らなかったのかもしれない、と爽町は思う。しかし、それ以上に堤という教師を表す一番の特徴に爽町は心当たりがあった。

「それと、……楽しそうに授業をする先生です」

 あの日の授業もそうだった、と爽町は思い出す。

 三日前の金曜日。九月二十三日の七時間目。古典の授業。いつも通りに小気味良いリズムで堤は板書を進めていた。生徒へと語りかける口調は自身の知識を伝えられることが嬉しくてたまらないというように爽町には聞こえる。けれど、楽しそうだからといって易しいわけではない。爽町にとって堤の授業は難しく感じられる。

 他の科目の授業でも爽町はノートを取るのに必死で内容の理解は二の次になりがちだった。それでも堤や他の教師達に授業進度を緩める様子はない。私のせいだ、と爽町は思う。

 二年四組は授業の中断が多い。それは昼川をはじめとする男子達へ爽町が注意をする度にやむを得ず授業が途切れてしまうからだった。何度も寸断された授業の遅れを取り戻そうと教科担当の教員達は躍起やっきになって授業進度を早めようとしている。

 そもそも男子、特に昼川くんが授業中に無駄口を叩かなかったら、と爽町は思うがクラスの現状に少し負い目も感じていた。他のクラスに比べて四組の授業が遅れてるのは私のせいでもある、と。そして、爽町には焦りもあった。

 授業の遅れの一因は私なのに、その私が授業についていけてないなんてカッコ悪すぎる。

 注意している暇があるなら勉強しろと言われてしまえば爽町は黙るほかない。けれど、昼川を見過ごして放置することも出来ない。そんな板挟みの心情の中で爽町は手を動かして懸命に板書をノートへと書き込んでいく。

 振り子のように黒板とノートとを往復するように頭を揺らしていると、いつしか堤の板書の手が止まっていた。黒板を端まで使い切ったらしい。黒板の左端、堤の背に隠されていたのは五七五七七に分けられた文字だった。

『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる』

 多分、和歌だよね、と爽町は予想を立てる。そこへ教卓に戻った堤から声が上がった。

「よし、復習だ。品詞分解やってもらうからな――」

 堤の言葉に爽町は冷や汗をかいた。爽町は古文の品詞をどこで分けるのが正しいのか未だに掴めていない。お願いだから当てないで、と爽町は内心で祈る。その祈りが通じたのか指名を受けたのは昼川だった。すぐさま、昼川の声が教室に響く。

「分かりませーん」

 その昼川の答えに爽町はホッとしている自分を見つけた。分かってないのは私だけじゃなかった、と安心する。そんな爽町をよそに堤は呆れたように昼川をたしなめる。

「お前なぁ、少しは考えろよ」

美ノ瀬みのせくんなら分かると思いまーす」

 確かに、と爽町は思う。美ノ瀬くんなら簡単に答えられるだろう、と。そんな考えが過ったせいで昼川が美ノ瀬に問題を押しつけたことをとがめる機会を逃してしまった。それを反省する間もなく美ノ瀬が黒板に書かれた三十一文字をすらすらとそれぞれの品詞ごとに分けていく。その声の通りに爽町はノートに写した和歌の文字の隙間に急いで横線を引いて目印にする。

 これが連用形で、こっちは終止形。それから格助詞だっけ、と爽町が四苦八苦している間に今度は藤吉ふじよしが現代語訳を読み上げていく。ノートに向かいながらも聞き逃さないように爽町は藤吉の声に耳を傾けた。

「秋が来たことが目にははっきりと見えないけれど、耳にした風の音から秋の訪れにハッと気づかされることです」

 思いがけず爽町はその訳に心を揺さぶられた。目に見えないものを気づかせる音。それはいつかの放課後に聞いた藤吉の言葉だと爽町は感じ入る。いじめ。目の前で起きていたけれど、爽町の目にそうと映っていなかった景色に藤吉は気づかせてくれた。現代語訳から受けた印象が和歌本来の意味と違うことは百も承知だったが、藤吉の声は爽町に奮起ふんきうながす響きを持っていた。

 見えているのに、気づいているのに放っておくことなんて出来ない。私に出来ることはなんでもやる。やらなくちゃいけない。さっきは間に合わなかったけど、もう見逃さない。そう意気込む爽町に冷や水をかけるように声が上がった。

「何が面白いのか分かりませーん」

 授業に水を差したのは、やはり昼川だった。美ノ瀬の時に注意出来なかった分を取り戻すように爽町は非難の声を向ける。

「清彦先生と私達の邪魔しないで授業中なんだから!」

「邪魔してるわけじゃねーよ」と間髪入れずに昼川は言い返してくる。

「じゃあ、なんなの」

 そんな爽町の疑問を遮ったのは昼川ではなく堤だった。

「はいはい。昼川も爽町もそこまで」

 堤がそう言って二人を仲裁し、授業は再開された。

 再開された授業に爽町は身が入らなかった。邪魔してるわけじゃないという昼川の言葉が引っかかる。今までは昼川に迷惑行為の自覚などないと爽町は考えていた。しかし、言葉を額面がくめん通りに受け取れば昼川にも何か考えがあるようだった。でも、と爽町は思う。理由があっても授業を妨害していいことにはならない。いじめなんて尚更なおさら、と。

 チャイムの音で堤は授業を終えてショートホームルームを始めた。堤は普段通りに連絡事項をクラスに伝えていく。その間も爽町の頭は昼川で一杯になっていた。そして、堤は最後に「くれぐれも怪我のないようにな」と念を押すように言ってから教室を後にした。その忠告を聞いて爽町にある考えが浮かんだ。

 昼川くんも怪我をするのは怖いだろうか。

 急かすような杉江すぎえの声がして、爽町が顔を上げると込波こみなみが背を丸めながらも黒板に向かっていく姿が見えた。そうやって込波のように素直に言葉に従う男子もいる。しかし、言葉だけでは足りないと爽町は考えていた。

 昼川くんは言葉だけじゃ駄目。もっと何か。大人でも、言葉でもない何か。怖がらせられる何かが要る。

 考えがまとまらずに爽町の意識が迷走する。その意識を断ち切るように突然、ガシャンと教室の奥で大きな物音がした。

 驚きに肩をすくませてから何事かと音のした方へと爽町が顔を向ける。教室後方の窓際。そこには案の定、昼川の姿があった。

 派手な音はどうやら昼川の足がロッカーに当たった音らしい。いつものように注意しようとして、爽町は昼川のすぐそばに美ノ瀬がいるのに気づいた。まただ、と爽町は思う。

 昼川くんがまた美ノ瀬くんをおどかして楽しんでる。いじめてる。

 止めなきゃ、と爽町は足に力を込めた。けれど、一歩が出ない。いじめを止める手立てが、昼川に怖さを感じさせる何かが爽町には足りていなかった。その何かの欠如が一歩を躊躇ためらわせる。その逡巡しゅんじゅんの内にも美ノ瀬は傷ついているのだという焦りからすがる思いで爽町は周囲を見回した。けれど、クラスメイトの誰も昼川を止めようとはしていなかった。みんな怖いんだ、と爽町は思う。

 私だって怖い。でも、そんなこと言ってられない。助けられるのは私だけ。

 何か、何かないか、と彷徨さまよう爽町の視線があるものをとらえた。

 窓際にいる昼川達とは反対側。爽町の立つ廊下側にある入り口近くのロッカーに、それはあった。

 工具箱。なんで、ここに。大道具班は中庭で作業するはず。間違って持ってきたのかもしれない。そんな疑問や推測を爽町は今は美ノ瀬くんが先、と打ち切る。

 そして、爽町はその工具箱へと手を伸ばした。

 爽町が求めていたものがそこにはあった。にぶい光。それは昼川に恐怖を与えられる光だと爽町には思えた。爽町は一本の千枚通しを手に取って、昼川に向けて叫んだ。

「やめなよ!」

 声に振り向いた昼川は爽町の手にあるものを認めると驚いたように眉根を寄せた。しかし、その表情にはおびえも、恐怖も宿っているようには見えなかった。爽町の目には普段通りの昼川が映っていた。

 足りなかった。これでもまだ。爽町の胸中が落胆に沈む。

「――とりあえずあぶねぇから、それ置けって」

 腰掛けていたロッカーから下りて昼川は爽町に近づいてくる。

 でも、もう、これしか、昼川くんを怖がらせるには、美ノ瀬くんを助けるには、これしかない。だから――爽町は手に持った千枚通しの刃先を昼川へと向けた。

 そして――

 針山に針を刺すような感触が爽町の手に絡みつく。その手触りに嫌悪感を覚えて爽町が目を落とすと昼川の返り血に指の先が濡れていた。悲鳴が耳を通り抜ける。その叫びが神崎かんざきのものだと爽町には分かった。いつも鷹揚おうようとしている神崎の悲痛な声を爽町はその時、初めて耳にした。その痛ましい響きが指先の赤を強く意識させる。

 あれ? どうして? こんなつもりじゃ……

 足の芯が抜けたように爽町はその場に尻餅をついた。

「――先生は、怪我しないようにって言ってたのに。私は」

 こらえきれない嗚咽おえつが込み上げて爽町は言葉を続けられなくなる。

「それじゃあ、やっぱり堤先生はその場にいなかったのね?」

 確認を取るような建岸に爽町は小さな頷きを返す。

 殺すつもりなんてなかった。私はただ昼川くんを止めたかった。美ノ瀬くんを守りたかった。ただそれだけだった。それなのに。

「私は、どうすればよかったんですか?」

「……それは、あなたがこれから一生をかけて考えなければいけない問題。残念ながら、その答えを私は知らないし、教えることも出来ない。きっと、あなた自身が見つけないと意味がない」

 建岸はそう言って、爽町の手にそっと手を重ねた。その温もりは爽町にとって覚えのあるものだった。見ず知らずのカメラマンが褒めてくれた時、杉江と神崎が初めて話しかけてきた時、藤吉にありがとうと言われた時、爽町はいつもそんな誰かの温もりに力をもらっていた。そのことに爽町はようやく気がついた。

 どうして私は怒ってばかりで、昼川くんに優しくしてあげられなかったんだろう。謝りたい。昼川くんに謝りたい。でも、昼川くんは死んでしまった。

 謝りたい時に謝りたい人がいない。その運命の不幸を呪うように爽町は自分を責め続けた。

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