間章 芝亀望⑥

 芝亀しばがめは土曜日にも関わらず、『月刊壱蜂いっぽう』編集部へと足を運んでいた。その手には何部かの日刊紙を抱えている。その日刊紙は全て律調りっちょう高校の事件についての記事が載っているものばかりだった。芝亀の持つ新聞の束に律調高校の記事があることに気づいたのか編集長が驚いたような声を出す。

「休日出勤なんて珍しいな、芝亀。昨日はやる気なさそうだったのに、どういう風の吹き回しだ?」

「まだ、やると決めたわけじゃないっす。でも、ちょっと気になることが出来て……」

「いいねぇ。それでこそ、うちの記者だ」

 そう言って応接用のソファに沈み込んだ編集長に芝亀は短く舌を出す。そのソファが正しく来客に使われているところを芝亀は見たことがない。そういえば、と芝亀は思う。編集長が編集長席に座っているのもほとんど見たことないな、と。その主のいない編集長席の上に掲げられた額縁は昨日までと何も変わらず埃をかぶって傾いたままだった。

 芝亀は自分の席に座って、買ってきた新聞を検める。

〈九月二十三日金曜日。D県U市の律調高校に通う昼川ひるかわ蓮司れんじくん(一七)が同高校に通う同級生に腹部を刺され死亡する事件が発生。学校の発表によると同校は事件当日、近日に予定されていた文化祭準備を進めており担当の教員は現場には居合わせなかった模様。被害者と加害者との間にいじめやトラブルがあったかどうかについては引き続き警察も含めて捜査にあたるとのこと。〉

 昼川蓮司。芝亀はその名前を穴が空くほど見つめる。他の誌面では単に被害者、被害を受けた生徒とだけ記されているものもあったが、それが救急車で運ばれ亡くなった生徒の名前のようだった。反対にその昼川を刺した生徒の名前はどこにも書かれてはいない。

 少年法六十一条の規定だ、と芝亀は以前に編集長がTVで流れる未成年の犯罪事件について独り言を漏らしていたことを思い出す。少年の更生を目的として原則として実名報道がなされることはないという規定内容。加害者の生徒は昼川と同級生の十七才。その原則が適用されるのは当然とも言えた。

「これでようやく静かに授業が受けられる」

 夜道で聞いたあの言葉は誰に、何に向けられたものだったのだろうかと芝亀は考える。

 昼川蓮司という被害に遭った生徒、それとも昼川を刺した同級生への言葉だろうか、と。いずれにせよ、あの夜に見掛けた生徒はこの刺傷事件の結果、「静かに授業が受けられる」と考えているようだった。

 芝亀の頭にいじめという言葉が浮かぶ。

 昼川という生徒のいたクラスではいじめがあり、まともに授業が受けられない状態だったのかもしれない。そうじゃないとあんな言葉は出てこない。

 そんな考えが昨日見た後部座席に乗る顔色の悪い担任らしき男性と結びつく。いじめを知っていたからこそあの若い男性はあれほど青白い表情をしていたのだと芝亀は考えた。しかし、その考えに何かちない感じもする。

 青ざめた担任らしき男性と保護者達の怒り。そこに噛み合っていないちぐはぐな印象を芝亀は受けていた。もし、この昼川という生徒達のクラスが正常に学級運営が出来ていない状態だったとしたら、それはいじめというよりも学級崩壊と呼ぶべき状態なのではないかと芝亀には思えた。また、その場合、保護者の誰も知らないなんてことがあるだろうか。そんな疑念が芝亀の中に生まれていた。

 芝亀が見た保護者達は起こった事件に対して素直な反応を示していた。学校に抱いていた信頼が崩れたというシンプルな怒りや心配。それは学級運営の現状を知りつつ放置していた者には出来ない態度だと芝亀は思う。知っていたのなら後ろめたさが香るものだ、と。

 このクラスで起きていた問題は全員が認識していたわけじゃない?

 芝亀にはそんな風に思えた。保護者はおろか、同じクラスの生徒達すら知らない可能性がある。その考えが正しいとすれば、それは即ち、あの夜道で出会った生徒は問題の核心に近い生徒だということでもあった。しかし、その考えには何も根拠がない。主観的な考えと憶測だけを重ねた作り話にも等しい妄想だった。それでも芝亀は夜道で聞いたあの言葉の意味を知りたいと切実に求めていた。あの声には何かそうしたいと思わせる響きがあった。いつからか芝亀はそんな風に思い始めていた。

 なら、と芝亀は思う。

 後は行動あるのみ。

「編集長」

 芝亀の声に編集長はソファからぬっと腕だけを伸ばして手を振って答える。

「なんだ」

「鍵、貸して下さい」

「車なら今日もヨネさんが使ってるぞ」

「もう一台の方で大丈夫です」

 その声に編集長も起き上がった。

「……いいのか?」

「はい」

 したり顔で笑う編集長からひったくるように鍵を受け取って芝亀は『月刊壱蜂』編集部を飛び出した。向かう先は律調高校、ではなく警察署。TVや新聞だけでは分からない事実関係を捜査関係者から訊いて把握しておく必要がある、芝亀はそう考えていた。

 律調高校から反対の方角に自転車で二十分。しかし、そこで芝亀は事件担当者は不在だと門前払いを食らってしまった。加えて、当然だが律調高校には関係者以外立ち入り禁止だという釘もしっかりと刺される。事件担当者の名前さえ訊き出せず出鼻でばなくじかれた形だったが、新人の範疇はんちゅうとはいえ記者である芝亀にとってそんな対応は慣れっこだった。

 警察がダメならと芝亀は今度は律調高校へと向かう。

 律調高校の敷地内は関係者以外立ち入り禁止だとしても、その通学圏内の家々を取材することは出来る。芝亀のペダルを漕ぐ足にも力が入った。

 一軒一軒、話を訊いてまわる前に芝亀は一度、あの場所を探そうと思い立った。律調高校前の細い道へ入ると校門を通り過ぎ、入り組んだ路地のような道を行く。幾つかの道を折れた先に突き当たりの道があった。ここから確か……、と芝亀は道を確かめるようにゆっくりとペダルを漕ぐ。そして、遂にあの日にあの呟きを聞いた道を芝亀は見つけた。

 止むに止まれぬ場合は、この場所であの生徒を待ち伏せすることもあると芝亀は一つの選択肢として考慮に入れる。その地点を地図に記してから芝亀は地道な総当たりの取材に取り掛かった。

 しかし、取材の前途は多難だった。

 通学圏内とはいえ全ての家に律調高校へ通う生徒がいるはずもない。いたとしても見ず知らずの芝亀に話をする義理はないという人間の方が多かった。

 昼頃から始めた取材を日暮れまで芝亀は続けたが、誰にも相手にされず聞く耳も持ってもらえなかった。仕方なく芝亀は『月刊壱蜂』編集部へと戻る。けれど、諦めたわけではなかった。

「あ、もしもし、わたくし、『月刊壱蜂』という雑誌で記者をしております。芝亀と申しますが、込波こみなみ様のお電話で間違いないでしょ――また、切られた」

 編集部に戻ってから芝亀は電話帳に載っている番号へ手当たり次第に電話を掛けてまわっていた。しかし、そんな電話作戦も空振りに終わっているといってつかえがない。休憩がてら再度、警察署へも出向いたが事件担当者と会うことは叶わなかった。

「これでようやく静かに授業が受けられる」

 あの日、聞いた言葉の意味を確かめるための証言。その手掛かりさえ芝亀は見つけられずにいた。時計を見れば二十二時をまわっている。お腹減ったな、と芝亀はデスク下の引き出しに用意してある即席麺を取り出した。

 味噌。シーフードの備蓄は昨日、編集長に食べられた分が最後だった。

 半分忘れかけていた食べ物の恨みを思い出して芝亀が応接用ソファへ目を向けると、編集長はコンビニで買ってきたらしい弁当を黙々と食べているようだった。仮にもグルメを扱うことの多い雑誌の編集長とは思えないその様子に芝亀はなんだかがっかりする。

 仕事してるわけじゃないならいいか、と思って芝亀はそんな編集長に声を掛けた。

「編集長」

「……なんだ?」

 唐揚げを口に含んだまま、そう返してきた編集長に芝亀は溜息を吐く。

「……やっぱ、いいっす」

「なんだ、失礼なヤツだな。なんでも答えてやるのに。ほら、訊いてみろ」

 芝亀は即席麺を持って給湯室へと向かいながら、渋々といった体で質問する。

「取材が上手くいかない時って編集長ならどうします?」

 答えは早かった。

「取材が上手くいくことなんかねえよ」

 その言葉に芝亀はポットのスイッチを押そうとしていた手を止めた。

「上手くいってるとしたら勘違いってことの方が多い。自分の都合の良い方向へ事実やら解釈やらを曲げてる時だ。そういうのは決まって良い記事にはならねえ。手癖てくせで書いた記事とかな。ここ数年のうちの記事がそんなののオンパレードだ。くだらなくて読む気にもならん」

 それは芝亀に聞かせるというよりも自分に対して言っているような話し方だった。

「ゴシップやグルメ記事が悪いってわけじゃない。どこかで見たような言い回し。どこかで聞いた感想。どこかで読んだ構成。そんな記事を書いてて良しとしてるのが――ダメなんだろうな」

 芝亀はどうして編集長が編集長席にあまり座らないのか、初代編集長の書が入った額縁を掃除しないのか、分かった気がした。けれど、すぐに編集長はいつもの捉えどころのない雰囲気に戻って冗談めかして言う。

「……なんてな。雑誌なんてのは文字が書いてあって売れてれば、それでいいのさ。中身なんて誰も読んでねえ。そう思って気楽にやれ」

 編集長は芝亀の返事も待たず、視線を弁当と点けっぱなしになっているTVへと戻したようだった。そんな編集長の言葉に芝亀はどこか心強さを感じていた。それと同時に編集長にそんな感情を抱いた自分が芝亀はむずがゆくて仕方がなかった。

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