第六章 昼川蓮司①

 上靴が宙を舞う。

 昼川ひるかわ蓮司れんじの右足から放たれた上靴が放物線を描いていく。その延長線上にある着地点を見て昼川は慌てて特等席としているロッカーから飛び降りた。着地と同時に視線の先の上靴が教室に並んだ座席の背もたれに当たる。落下地点である席に座っていた藤吉ふじよしが驚いたように振り返った。藤吉本人には当たらなかったことに昼川はひとまず安堵あんどする。

「わるいわるい」

 昼川の謝罪に藤吉は口の端に笑みを浮かべて平気だというように肩を小さくすくめてみせた。藤吉の表情に怒りの要素は見当たらない。その様子に昼川は助かった、と一息ひといきつく。――ような暇はなかった。

「藤吉さん、大丈夫? 気をつけてよ、昼川くん」

 どこから現れたのか早くも小言を並べ始めかねない爽町さわまちの勢いに昼川は気が滅入めいりそうになる。なんで藤吉じゃなくてお前が怒ってんだよ、と釈然しゃくぜんとしない気分が喉元まで込み上げる。そこへすかさず藤吉が割って入るように言葉を滑り込ませた。

「大丈夫、大丈夫。あたしには当たってないから。椅子に当たったんじゃないかな」

 藤吉の大人な対応に昼川は感謝と好感が湧く。

 なんて良いヤツ。爽町とは大違い。

「藤吉、わるいな」

 かばわれた礼も兼ねて片手で拝みながら、昼川がもう一度謝ると、

「平気、平気。ほら、あたし、運だけは良いからさ」と返事があった。

 藤吉のその言葉に爽町も引き下がる。腹を立てないだけでなく、気を回して周囲を落ち着かせる藤吉の手際に昼川はいつもながら感心してしまう。その藤吉は今、昼川達から視線を外して首を傾けている。どうやら座席の背もたれに当たってどこかへと転がった昼川の上靴を探しているようだった。人間が出来てるよな、と頭が下がる思いを昼川は抱く。そこにガラガラと立て付けの悪い教室のドアが開く音がした。

 前方の入り口から担任のつつみが教室へ入ってくる。そろそろ座っとかないとな、と昼川は転がった上靴を片足跳びをしながら探す。目当ての上靴は藤吉の座席の斜め前あたりに落ちていた。

 あれ、もっと飛んでかなかったっけ? ま、いっか。

 昼川は上靴をさっと拾って靴を足につっかける。そして、踏み折れたかかとをパカパカと鳴らしながら自身の席に戻った。

 昼川が席に座ると同時に始業のチャイムが鳴った。その音を合図に堤がすぐにも授業を始めに掛かる。教室にはノートや筆箱を用意する細々こまごまとしたさざめきが流れ、それが収まると堤の声だけが聞こえるようになった。そんな教室の中で昼川は泰然たいぜんとした態度で堤の声を聞くともなしに聞いていた。

 この前、むぎとばっちり予習したから別に聞かなくてもいいや。

 それより、と昼川は思う。なんとかなんねぇの、この暑さ。

 身体にこたえる暑さが教室には立ちこめている。気休め程度の涼気しか送れていない冷房は効果を発揮しているとは言い難い。じっと席について厳しい暑さに耐え続けなければならない授業時間が自由な休み時間より昼川にはよほどつらく感じられる。

 七時間目までに蓄積された疲労と暑さ、そして身体を動かせない退屈が重なって眠気となるのは時間の問題だった。それでも昼川は自ら睡魔に屈しようとはしなかった。その理由は爽町にある。寝息でも立てれば爽町からどんな嫌味を言われるか分からない。そう考えて昼川は襲い来る眠気による欠伸を何度も噛み殺す。

 堤が板書のために背を向けたタイミングで昼川は窓の外へと視線を向けた。眼下では校庭の砂が風に吹かれて舞い上がっている。それを見て昼川は外の方が涼しそうじゃん、と残念がる。

 堤先生には悪いけど、古文より体育のが楽しいしな。授業、早く終わんねぇかな、と昼川の意識が横道に逸れていく。そうして暑さと眠気にあらがっているうちに昼川は授業時間の大半をやり過ごすことに成功した。けれど、もうちょっとで終わりだな、とそう昼川が油断した時だった。

「よし、復習だ。品詞分解やってもらうからな。今日は九月二十三日だから足して、三十二番の昼川」

 堤の指名に昼川が前を向くと黒板の端には『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる』という和歌が白いチョークで記されていた。

 昼川のノートには同じ和歌が既に写してある。それは数日前に美ノ瀬みのせと済ませた予習の範囲内のものだった。その上、ノートには美ノ瀬に教わった品詞毎の分類も書き付けられている。けれど、昼川はその内容を答えはしなかった。

「分かりませーん」

 答えるのは簡単だった。でも、と昼川は思う。予習の時も俺が考えたわけじゃない。俺は教えてもらったのを写しただけ。やってるのは全部、麦。なら、麦が答えた方が良いに決まってる。そう考えて昼川は堤に提案する。

「美ノ瀬くんなら分かると思いまーす」

 言いつつ昼川は斜め前に座る美ノ瀬の椅子にコンコンと軽く足を当てて合図する。美ノ瀬は一瞬だけ横目で昼川に視線を送るとすぐに教卓の堤に向き直った。堤はそんな二人を仕方ないなとでもいうような目で眺めてから軽く昼川に説教を垂れる。そして、美ノ瀬を再指名した。それを受けて美ノ瀬が蚊の鳴くような声で答えはじめる。

 またかよ、と昼川は物足りなさを感じた。どういうわけか美ノ瀬は学校では極力、人前に出ようとしない。授業中の指名のようなやむを得ない場合にも自身の能力を低く見せようとする。そのことが昼川は気に食わない。麦はスゴいんだからもっと自信持てよ、そう言っても美ノ瀬は苦笑いするばかりだった。

 学校内で下の名前を呼ぶこともいつからか嫌がるようになった。勘違いする人がいるからさ、と美ノ瀬は言ったが昼川は別にいいじゃん、と何を勘違いされているのかも知らないまま気にしていなかった。けれど、学校で名前を呼ぶ度に美ノ瀬が周囲の目を気にするのが嫌で、いつからか名字を呼ぶようになった。その結果、下の名前で呼ぶのは勉強のためにお互いの部屋へ行った時。二人きりの時だけになっていた。

 子どもの頃のように名前で呼び合いたい。そんな本音を昼川は美ノ瀬に打ち明けられずにいた。蓮ちゃんと呼ばれるのは少し気恥ずかしさもあるが、美ノ瀬に呼ばれる分には構わなかった。それでも美ノ瀬の嫌がることを進んでするのは気が引ける。そう思って昼川は不満を口に出さないまま溜め込んでいた。

 美ノ瀬の解答に堤が正解と言って、次に藤吉を指名した。藤吉に課されたのは和歌の現代語訳だった。藤吉が答えた訳を昼川はノートに写してある美ノ瀬の訳と見比べる。その内容は言い回しに僅かな差があるだけで、ほとんど同じものだった。

 やっぱり頭も良いんだよな、と美ノ瀬の隣に座る藤吉の横顔を後ろから眺める。藤吉が授業中に指名されて困っているところを昼川は見たことがなかった。美ノ瀬のように当てられて衆目しゅうもくさらされることを嫌がっている素振りも藤吉にはない。

 じゃあなんでだよ、と昼川は不貞腐ふてくされる。走り去る後ろ姿が脳裏には焼き付いていた。後ろから藤吉の表情は窺えない。上靴が当たりかけても藤吉は怒らなかった。藤吉の態度は一学期の頃から、いや一年生の頃から何も変わっていない。誰にでも分け隔てなく親切で優秀な学級委員。少なくとも昼川にはそう見えていた。表面上、藤吉には何の変化も見られない。そのことが昼川を安心させ、また悩ませもする。

 昼川が人知れず思い悩んでいる間にも堤の話は続いていた。話題は秋といえば何を連想するかというものに移っている。その言葉を右から左へ聞き流しながらも昼川は堤へと視線を戻した。授業の間、堤はずっと一人でしゃべっている。そのことが急に昼川には気の毒に思えてきた。

 やっぱ、反応ないってのは可哀想だよな。リアクションないとどうしていいか分かんねぇし。そう考えて昼川は堤の言葉に自分なりの合いの手を入れてみた。

「何が面白いのか分かりませーん」

 昼川が言うやいなや強烈な一撃が教室の反対側から飛んでくる。

「清彦先生と私達の邪魔しないで授業中なんだから!」

 爽町だった。昼川は面倒そうに頭をく。さっき麦に代わった時は黙ってたくせに、という思いをぐっと飲み込んで爽町には別な言葉を口にする。

「邪魔してるわけじゃねーよ」

 そんな昼川の言い訳じみた言葉は爽町には通じなかった。

「じゃあ、なんなの」

 なんなのってそれは、と説明しようとした昼川を堤が制止する。そのまま場の主導権を握り返した堤が話を授業へと戻していった。その堤の声に今度は昼川も耳を傾ける。

 いろなきかぜ。目にはっきりと映らないもの。

 目にはさやかに見えねども、昼川は板書された堤の癖のある文字を目でなぞる。目には見えないものを想像する力。その力が自分には足りていないと昼川は思う。美ノ瀬がどうして人前を嫌うのか。爽町が昼川に突っかかってくる理由。そして、藤吉の変わらない態度。その全てが昼川はに落ちない。

 俺は人の気持ちが分かんないヤツなのかもしれない。 

 そんな感傷を昼川が覚えた頃、終礼のチャイムが鳴って堤が引き続きショートホームルームを行うと宣言した。耳にたこが出来るほど聞かされている注意事項の羅列が堤の口から並べられていく。それに対して思わず昼川は不平を漏らした。

「もう聞き飽きたよ先生」

 言ってしまってから昼川は爽町の様子をそっと見たが、今度は目くじらを立てられることはなかった。肩透かしを食らった気分で昼川は堤の話が終わるのを待つ。そして、連絡を済ませて堤が出ていくと教室に賑やかな雰囲気が立ち上ってくる。

 ようやく座席から解放された昼川は一つ伸びをしてから、飛び乗るようにして定位置のロッカーに腰を落ち着かせた。

 活気にざわめく教室をけてロッカーに座る昼川の元に稲村いなむら草尾くさおがぞろぞろと集まってくる。文化祭準備が本格的に始まるまでの間に息抜きがてら三人は雑談を交わす。その内容はどうしても時期柄、文化祭に関連したものが多い。特にここのところ、稲村と草尾の二人は示し合わせたようにドレスが楽しみだとよく言うようになっていた。

 衣装班、渾身のドレス。そのドレスは主役のシンデレラのもの。そして、クラス投票で圧倒的多数の票を獲得してシンデレラ役を射止めたのは爽町雛子だった。つまり、二人が期待を寄せているのは爽町のドレス姿ということになる。

 目を輝かせて口々に爽町の魅力を語る二人に昼川は「趣味わる」と水を差す。すると稲村と草尾は異口同音に分かってねぇな、と口にして呆れたような表情を浮かべて見せる。「分かってないのはお前らだろ。気楽に言いやがって」と昼川も返す。そもそも誰のせいで困ってると思ってんだよ、と。

 爽町のドレス姿に昼川は興味がない。それよりも問題なのはシンデレラ役が爽町で、その相手役である王子を演じるのがよりによって自分だということだった。稲村と草尾の悪ふざけで推薦された結果、そのまま配役されてしまった昼川は気が進まないどころの話ではない。普段、つのわせている相手とどんな顔をして舞台に立つのか、想像しただけで昼川は嫌な汗が出る。

 そんな昼川の気も知らない様子で稲村と草尾はいつものように爽町への下世話な興味を好き勝手に言い合っている。その二人の様子に昼川はいつかの美ノ瀬の言葉を思い出した。

「――蓮ちゃんって好きな人とかいないの?」

 その話の流れで美ノ瀬が挙げたのは爽町の名前だった。そのことに思い当たって昼川はもしかして、と思う。

 麦も、こいつらと気が合うんじゃね?

 思い立ったが吉日きちじつと昼川はすぐにも美ノ瀬に手招きをする。

「美ノ瀬っ」

 昼川の頭には美ノ瀬が稲村や草尾と打ち解ければ、他人行儀な呼び方を無理に続ける必要もなくなるかもしれないという考えがあった。美ノ瀬達の意気投合の可能性が爽町であることが少し複雑ではあったが、窮屈きゅうくつな思いを抱えずに済むならその方が良いと昼川は考えた。

 胸にふくらむ期待が手を大きく振らせる。その反動で昼川は少しバランスを崩した。姿勢が傾き、ロッカーから滑り落ちそうになる。あわやのところで踏ん張ると、弾みで足がロッカーの蓋に当たってガシャンと派手な金属音を立てた。

「うわっ、ビビった」

 不意のことに焦った昼川を見て稲村と草尾は声を上げて笑う。そんな二人を見て昼川も自身の滑稽こっけいな間抜けさを笑った。美ノ瀬に目を向けると「何してんの?」とでも言いたげな顔で昼川を見ている。美ノ瀬のその表情に昼川はまた可笑しさが込み上げた。昼川につられたのか美ノ瀬の口の端にも笑みがこぼれる。愉快な気分に満足を覚えて昼川は美ノ瀬に思いつきを話そうと口を開こうとした。「こっち来いよ」と。その時――

「やめなよ!」

 横合いからけんのある叫びが投げかけられた。

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