第六章 昼川蓮司②

 明らかにそれは昼川ひるかわに向けられた叫びだった。

 ロッカーのふちを握るようにして身体を支えながら昼川は声のした方へと視線を巡らせる。そこには予想通りに爽町さわまちが立っていた。その姿を認めて昼川は鼻を鳴らす。

 むぎ、呼んだだけじゃん。俺のやることなすこと全部にいちいち文句言わないと気が済まねぇのかよ。

 そんな不満を分かち合おうとした稲村いなむら草尾くさおは退散するように早くもその場を離れていく。爽町の非難の対象になるのを避けているらしい。おとりにされた形の昼川は二人の背中に心中で裏切り者と呟く。それから昼川は視線を爽町に戻した。その時、初めてその爽町の手に何かが握られていることに昼川は気づいた。

 きり状の刃物。爽町の手には鋭い切っ先の千枚通しが握られていた。その刃先は教室の電灯の光をにぶく反射している。学校の備品である工具を生徒の誰が持っていても不思議はない。でもなぁ、と昼川は眉間に皺を寄せた。あんな勢いで叫ぶやつが持ってるのはあぶねぇよな、と。思ったままのことを昼川は口に出す。

「おいおい。あぶねぇって」

 注意を呼びかける昼川に対する爽町の返答は、

美ノ瀬みのせくん、嫌がってるじゃん!」と全く噛み合っていなかった。

「はぁ? 何言ってんの? とりあえずあぶねぇから、それ置けって」

 昼川の言葉に爽町は首を横に振る。いつも以上に話が通じていない爽町の様子にこれではらちが明かないと昼川はロッカーを下りた。正面から向き合っても爽町の態度は崩れない。何をそんなに怒っているのか物騒な表情で昼川をにらんでくる。握られた千枚通しの刃先はいつの間にか昼川に向けられていた。めんどくせぇな、と首の後ろをきながら昼川は一歩を踏み出す。

 爽町の手から刃物を取り上げる。話はそれからだった。昼川は迷いなく爽町との距離を詰めていく。その足取りに一触即発の事態に臨む緊張感は見られなかった。その一歩一歩が火に油を注いでいるのだという危機感も。昼川にとって爽町は口うるさい女子でしかなかった。口喧嘩では押されることがあっても、あくまで女子。力で敵わないはずはない。そんな目算が昼川にはあった。

 十分に近づいたところで昼川は問答無用で爽町の手首を掴んだ。そして、千枚通しを取り上げようともう一方の手を伸ばす。けれど、爽町は離さない。昼川に渡してたまるかというように千枚通しを両手で握り込む。その爽町の手を引き剥がそうと昼川も手に力を込めた。すると、それを嫌ってか爽町がじたばたと腕を振るようにして抵抗する。

 往生際の悪い爽町の態度に昼川もいよいよ苛立ちを覚えた。

「お前なぁ、いい加減にしろよ!」

「やめてっ!」

 無茶苦茶に腕を振り回す爽町に手を焼いているうちに揉み合いになった。千枚通しを取り上げることよりも、爽町本人を押さえつける方に昼川の思考が傾き始める。その時、何度目かの押し引きが外に振れた。爽町の腕は伸びきり、手の隙間から千枚通しが僅かに滑る。当初の目的、千枚通しの確保。今なら、と昼川の思考が更新される。強引に、力任せに昼川は腕を引き戻した。

 千枚通しを爽町から没収するだけなら、そこまでの力は必要ではなかった。しかし、想定以上にしつこい爽町の抵抗と思考の揺れが図らずも昼川から平静さを失わせていた。結果として、昼川は爽町の腕ごと千枚通しを自身に引き寄せていた。――その刃までも。

 腹部の一点に沸騰するような熱を覚えて昼川は視線を落とした。見下ろした視界に爽町と取り合いになっていた千枚通しの柄が見える。しかし、柄の先にあるはずの刃が見えない。

 その見えない柄の先から熱が痛みとなって脳にほとばしってくる。細い針のような刃は白いシャツを貫いて昼川の腹に突き刺さっていた。

 教室に神崎かんざきの悲鳴が響く。その金切り声を昼川はまるで他人事ひとごとのように聞いた。

 おいおい、嘘だろ。

 呟いたはずの言葉が声にならない。傷口を探るようにした昼川の指先が熱を持った粘り気に触れる。濡れるような嫌な感触が指の腹に赤い色を残した。その色の鮮やかさに腰を抜かしたように爽町の手が千枚通しから離れる。その手に従って刺さっていた刃先が昼川から抜け落ちた。開いた傷口から徐々に血が溢れ、昼川の白いシャツにいびつな赤い模様が広がっていく。

 そんな状況下で昼川の心中を占めたものが二つあった。一つは痛み。もう一つは、恥ずかしさだった。

 女子に、よりによって爽町に刺されたとかカッコわる。にしても流石に痛ぇな。

 痛みと羞恥心を振り払うように昼川は頭を勢いよく左右に揺らした。優れた昼川の動体視力が本人の意志と関係なく周囲のクラスメイト達の表情をとらえる。教室にいる誰も彼もが動きを止めて驚愕きょうがくに目を見張っていた。クラスメイト達の注目は全て昼川に集まっている。そのことに昼川はいたたまれなさを覚えた。

 麦が嫌がってたのってこういうことか。……あいつはどんな顔して――

 昼川が再び視線を巡らせ始めた時、身を固まらせていたクラスメイト達の中から一人が動き出した。

「わ、私、先生呼んでくる」

 そんな言葉を残して杉江すぎえが教室から駆け出していく。

 いや、そこまで大騒ぎするほどじゃねぇって。

 杉江を引き留めようと昼川が身体をひねる。しかし、振り向こうとした身体に足がついてこない。痛みのためか踏ん張りさえかない。それでも崩れる姿勢を昼川は無理にでも立て直そうとする。途端に右足から床を踏む感覚が消えた。かかとの折れた上靴が脱げて足が床の上を滑る。思う間もなく昼川の視界は天井でいっぱいになった。

 ゴンと鈍い音が昼川の頭蓋に響く。教室の床に身体を横たえた昼川は衝撃に意識を失いかけていた。朦朧もうろうとする曖昧あいまいな意識の中で、昼川は一人の姿を求めるように探す。焦点の合わない視界に入ってきたのは固まったままの美ノ瀬の姿だった。

「今日から、おれたち友達な」

 懐かしい記憶がよみがえる。

 まさか、走馬灯ってやつ? 

 一瞬のうちに昼川の意識が過去へとさかのぼっていく。

 昼川が美ノ瀬と出会ったのは小学四年生の時だった。ちょっかいを掛けてくる上級生からかばった昼川を慕ってか、美ノ瀬はいつも昼川のそばについてくるようになった。昼川の言葉通り二人は友人となった。そして、小学校を卒業して同じ中学に上がっても二人の仲は変わらなかった。

 昼川にとって問題が起きたのは高校受験の時だった。

 美ノ瀬の志望校である律調りっちょう高校は昼川の偏差値からすると合格は厳しいと言わざるを得ない学力水準の高校だった。それでも「一緒の高校行こうよ、蓮ちゃん」という美ノ瀬の願いを叶える努力をしない選択肢は昼川にはなかった。そして、美ノ瀬に付きっきりで勉強を見てもらったおかげで昼川はなんとか美ノ瀬と同じ制服に袖を通すことが出来た。

 高校入学後も昼川は中学と同じサッカー部に入部することにした。律調高校は部活動よりも勉学に力を入れている。そういった校風でも部活動をおろそかにしているわけではない。体格と運動能力の高い昼川は即戦力として顧問や先輩から大いに期待された。昼川自身も期待に応えようと部活に打ち込むようになった。そうして真摯しんしに汗を流す中で同級生であり部活仲間でもある稲村や草尾と時間を共にすることが多くなっていった。

 それでも美ノ瀬との仲も途絶えることはなかった。中学以上に難しくなる高校の授業に置いて行かれないよう定期的に昼川は美ノ瀬に勉強を見てもらっていた。校内での関わりを避けようとする美ノ瀬とは学校では積極的には話さない。校内では稲村や草尾といった部活仲間と、それ以外では美ノ瀬と過ごす。そんな一種の二重生活を昼川は送っていた。

 部活に勉強にと充実した昼川の律調高校での一年はあっという間に過ぎていった。学業面で成績を残すことはなかったが、三年生の先輩達が部活を引退する頃には昼川は新エースとしての地位を盤石ばんじゃくなものにしていた。サッカー部のエース。その響きは異性にとって魅力的に響くのか昼川は名前も知らない女子から告白されることもあった。二月十四日のバレンタインには顔さえ知らない女子達からチョコを送られる始末だった。

 先輩や稲村達のからかい混じりのやっかみを昼川は「本命から貰えなきゃ意味ねぇって」と受け流した。しかし、内心では妙な後ろめたさが昼川には生まれていた。

 本命なんていねぇんだけどな。いたこともねぇし。

 昼川にとって恋愛は勉強以上によく分からないものだった。

 好きってなんだよ。友達とは違うのか? でも友達でも麦と部活のヤツらはなんか違うよな。ああ、わっかんねぇ。

 気の合う部活仲間との間でも話題が恋愛事になるたびに昼川は人知れず輪から弾き出されたような居心地の悪さを覚えるようになった。その反面、そういった話題を口にしない美ノ瀬といる時間に昼川は安心を感じていた。どうやら昼川と同様に美ノ瀬も恋愛にはうといようだった。

 やっぱ、麦といると楽だな。

 稲村や草尾といった同級生達と同じ話題で盛り上がれないことで削られた自尊心。それを昼川はそういった方面では自身と同列にあるらしい美ノ瀬の存在で補っていた。

 そして、二年生に進級してすぐの頃、その美ノ瀬から珍しく学校で話し掛けられることがあった。購買の玉子サンドを渡しながら告げられたそれは話というよりも耳打ちに近かったが、その内容は新しく担任となったつつみにいじめを疑われたというものだった。またかよ、と昼川は飽き飽きとした気分を覚える。そういった疑いは初めてのことではなかった。高校に入ってからでさえ一度や二度ではない。去年の担任である奥堀おくぼりからも昼川は美ノ瀬へのいじめを疑われたことがある。

 けれど、昼川にとってそれはいつも寝耳に水の知らせだった。昼川にとって美ノ瀬は仲の良い友人である。しかし、その美ノ瀬とは教師の目の届く学校内ではほとんど接触を持っていない。何がどうしてそんな二人の間にいじめを疑えるのか昼川は不思議でならなかった。

 俺と麦って友達どころか、ただの同級生にも見えねぇのかな。

 疑いを向けてくる教師へのそんな不満もあったけれど、誤解は訂正しておいたという美ノ瀬の言葉に昼川は頷くに留めた。中学の頃に自ら誤解を解こうとして、かえって呼び出しや反省文を書かされた経験が苦く残っている。こういった厄介事は美ノ瀬に任せておいた方が後腐あとくされが少なくて済むと昼川も学んでいた。

 その日の最後の授業終わりに昼川が廊下で稲村と草尾の二人と話をしていると、廊下の向こうから堤が歩いてくるのが見えた。その堤に向かって昼川はおどけたように小さく舌を出してみせた。美ノ瀬の言葉を信じていなかったわけではない。それでも全て美ノ瀬に任せて素知そしらぬ顔をしていたくはなかった。そんな昼川に堤が僅かに目を丸くして、そして小さく困ったような微笑みを浮かべる。昼川の意図は確かに伝わったようだった。

「ショートホームルームだ。ほら、教室戻れ」

 そう言って堤は昼川達を日誌で軽く小突く。この先生なら上手くやっていけるかも、昼川は堤の態度からそう感じた。

 担任教師からの疑いは晴れた。けれど、その代わりに新たな異分子が昼川の生活に割り込んできた。それが爽町雛子だった。

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