第六章 昼川蓮司③

 凍ったように動かない美ノ瀬みのせから昼川ひるかわの視線が移る。探す人影は未だに見つからない。次に視界に収まったのはわなわなと震える爽町さわまちの姿だった。

「ちょっと昼川くん!」

 今度は聞き飽きた爽町の台詞が昼川の頭を過る。回る走馬灯の中へ昼川の意識はまた引き込まれていった。

 進級に伴って少し顔ぶれが変わった四組の生徒。その中の一人に爽町はいた。昼川は爽町に対して特別な関心を払ってはいなかったが、稲村いなむら草尾くさおの話題によく上ることからその存在を認識するまでに時間は掛からなかった。

 稲村と草尾の二人は爽町の容姿の良さに何度も言及し、思いを告白するのはどうかといつも楽しげに盛り上がる。興奮する二人に昼川は何気なく話を合わせながら、好意を寄せる相手のいない自分が遅れているのではないかと気掛かりを覚えていた。

 進級してから一ヶ月が過ぎ、ゴールデンウィークが明けてしばらく経った頃。その頃から昼川は教室で爽町の声を聞くことが増えた。昼川は当初、稲村や草尾の話のせいでそう感じるのだと思っていた。しかし、すぐにそうではないと気づいた。

 爽町は日直や日誌の当番、その他クラス内での小さな仕事が正しく分担されているかどうかを見張っているようだった。昼川はそんな爽町を神経質なヤツだな、と思った。けれど、稲村や草尾をはじめとしたクラスの男子達の反応は昼川とは違っていた。聞くと爽町がわざわざ自分を注意しに来てくれるのが嬉しい、と稲村や草尾は言う。それは昼川には全く理解の及ばぬ感情だった。

 あんなのうるさいだけじゃん。

 クラスの男子達と自身の差異を否応なく知らしめる爽町の行為に昼川はうんざりしていた。毎日のように繰り返される爽町の小言と男子達の反応。教室のどこにいてもその光景が目に入り、やりとりが耳に届く。梅雨入りが近づく空模様と同様に昼川の胸中は曇りがちになり、美ノ瀬に爽町の愚痴をこぼすこともあった。けれど、溜まる一方の苛立いらだちは抑えがたく自然と爽町への対応は反抗的なものへと変わっていった。

 次第に大きくなる二年四組での爽町の存在感。その教室の空気に昼川は窮屈きゅうくつさを感じていた。そんな現実を見ないようにと爽町から逸らしていた昼川の視線がいつからか別のクラスメイトに向くようになった。

 藤吉ふじよし真尋まひろ。それは二年四組の学級委員だった。

 藤吉は誰に言うでもなく言われるでもなく、いつも率先してクラスの雑務を淡々とさりげなくこなしていた。爽町に対して昼川が感じていた独善的な態度は藤吉には見られない。爽町の男子達への注意をほどほどに収め、要領の悪そうなクラスメイトには先回りして注意をうながしていることもあった。

 一年の頃から同じクラスだった藤吉のそんな一面を今更ながら昼川は知った。人知れず花瓶の水を換え、欠席の生徒への連絡を引き受け、誰とも無駄ないさかいを起こさない。それは学級委員の仕事のうちだったのかもしれないが、誇ることもひけらかすこともしない藤吉の態度が昼川には眩しく見えた。

 教室で爽町の存在感が増せば増すほど、昼川はその影でひっそりと働く藤吉から目が離せなくなっていった。 

 授業中や休み時間といったふとした瞬間に気づくと藤吉を目で追っている。そんなことが何度か続いて昼川は自身の中に稲村や草尾、他の男子達と同じ感情が芽生えているのだと気がついた。

 人を好きになるってこういう感じなのか……。

 その感情に実感は湧かなかったが、嫌悪感や抵抗感もそこにはなかった。

 俺は、藤吉が好き。

 自覚した感情は昼川を満たした。それは稲村達に抱いていた劣等感を忘れさせるには十分なものだった。一度、自身の思いを認識すると藤吉のことばかりが昼川の頭には浮かんでくる。

 真面目で、働き者で、爽町みたいに小さいことにうるさくない。むぎと同じくらい頭も良くて、そのくせ「運が良いから」っていつも控え目にしてるのもポイント高い。それに、と昼川は思う。顔も悪くないよな、と。

 そうした思いが溢れるのと同時に昼川には気掛かりも生じていた。

 藤吉は俺のこと、どう思ってんだろう?

 その疑問を直接、藤吉に問いただせるほど昼川は豪気ごうきたちではなかった。ひとまず昼川は稲村と草尾にそれとなく話を振ってみることにした。

「どんなヤツがモテるかって?」と稲村。

「それ、お前が聞くの? なに、嫌味か?」

 呆れたように笑う草尾に昼川は、

「えっと、ほら、イッパンテキな話。フツーはどういうヤツがモテんのかなってそれだけ」と誤魔化ごまかす。

 唐突な昼川の質問に稲村はあごに手を当てて考えを探るように視線を泳がせる。

「うーん。まぁ、背高くて顔良いヤツとか?」

「身も蓋もなさ過ぎだろ、それじゃ。優しさとかも重要じゃねーの?」

 草尾の意見に即座に稲村が難色を示す。

「優しいだけの男なんて物足りねぇんだって!」

「誰情報?」

「いや、知らねぇけど」

「だと思った」

 昼川を置いて二人は盛り上がっていく。その内容に昼川は耳を傾けた。容姿や体格、性格と知識に運動神経。幾つか上がった条件はどれも基準が曖昧あいまいで結局、個々人の嗜好しこうるところが大きいものばかり。二人の話に参考になるものは少なく収穫は得られなかったが、稲村と草尾の話にもう引け目を感じていない自分が昼川は嬉しかった。

 稲村と草尾の話をまとめると最も重要だと二人が考えているのは性格のようだった。

 性格か、顔とか身長とか見た目で分かることなら簡単でいいんだけどな。んー、藤吉は優しいから、やっぱ優しいヤツが好きなのかな。

 昼川がそんなことを考えているとまた爽町の指摘が飛んできた。

「そこ座っちゃダメでしょ」

 その爽町の声に昼川は苛立いらだちを覚えていない自分を見つけた。爽町が誰を注意していようが暗い気持ちに心が波立つことはもうない。爽町に対する余裕が生まれていた。それまでは空返事からへんじで適当にやりすごしていた爽町への対応が、売り言葉に買い言葉での反論に変わった。そんな昼川に爽町もまた負けじと言い返す。

 二人の応酬おうしゅうは夏期休暇に近づくにつれ押し問答へと激化していった。

 そうして爽町と水掛け論のような口喧嘩を繰り広げながらも昼川の意識は藤吉に向いていた。一歩も退かず爽町と渡り合う姿は藤吉の目にどう映っているのか。そのことに昼川は気を配る。二年四組に爽町を相手取る生徒が他にいないことが昼川にささやかな自信を与えていた。

 自信が心のゆとりを生み、安定した精神が言葉や行動に如実にょじつに表れてくる。部活での調子も上がり、美ノ瀬からも「いいことでもあった?」と聞かれて昼川の自負心はぐんぐんと高まっていった。劣等感から解放された昼川はいつしか自身を疑うことなどないほどの自己肯定感を身に付けていた。

 そして、その自信が昼川に新たな行動指針を与えた。

 稲村や草尾の口から何度も飽きるほど聞いた言葉。告白。昼川は藤吉に思いを告げることを密かに決意した。その決意の一つの理由には夏期休暇が近づいていることも関係していた。昼川と藤吉はただ同じ二年四組の生徒というだけの繋がりしかない。そのままの関係では一ヶ月あまりの休暇期間、昼川は藤吉の顔すら拝めない可能性が大きかった。

 藤吉と会えなくなるのはイヤだな、そう昼川は考えていた。

 そこで稲村と草尾が挙げた条件を昼川は思い浮かべる。そのうち体格と運動神経には自信があった。しかし、容姿や性格は藤吉の好みを知らない以上、判断する材料すら見つからず、知識という面では優等生の藤吉を相手にするとすれば落第もいいところだった。でも、と昼川は思う。

 バレンタインには結構チョコ貰ったし、サッカー部のエースって肩書きもある。背は高い方だし、稲村と草尾からはモテるよなってよく言われる。頭の出来は悪いけど、ちょっとぐらい欠点がある方が親しみやすいとか、なんとか言うし――。

 そうやって昼川は告白の勝算、その見込みの可能性を毎日繰り返し一つずつ数えていた。

 そして、一学期最終日の放課後に昼川は誰にも悟られないように藤吉を呼び出した。場所は滅多に人の来ない倉庫。部活の走り込みの時に目星をつけていたその場所で昼川は藤吉を待った。

 終業式とホームルームのみの時間割のため、ほとんどの生徒は帰宅していく。雑踏の賑やかさを遠くに聞きながら、昼川はもしかして、と考える。来てくれないかも、と。

 けれど、そんな不安は無用だった。

 いつも通りの穏やかで人好きのする表情を浮かべて藤吉は昼川の元へとやってきた。

「話って何かな、昼川くん」

 そう言って小首を傾げてみせる藤吉の仕草に昼川は目を奪われる。

「あ、あのさ、えっと」

「もしかして爽町さんのこととか?」

「えっ、なんで爽町?」

「あれっ、違った?」

「うん。違くて」

 単刀直入に、直球で、そう考えて何度も想定していた告白の台詞がいざとなると緊張のためか出てこなかった。麦相手に練習でもしときゃ良かった、と昼川は後悔する。

「えっと、だから」

 高鳴る鼓動を落ち着かせようと昼川は視線を泳がせて時間を稼ぐ。藤吉の頭の上を旋回するようにしていた視線が気配につられて下へと向いた。すると頭一つ低い位置から窺うように見上げてくる藤吉と目が合う。その距離の近さに昼川は思わず赤面した。恥ずかしさからまた昼川はさっと目を逸らす。するとその瞬間、喉元で留まっていた言葉がポロッと口をついて出た。

「俺と付き合ってくんない?」

 言ったそばから昼川は心中で反省を始めていた。

 なんだ今の、だっせぇな俺。しかも、好きって言ってねぇじゃん。もっかい言おう。そうしよう。そう考えて昼川は自身を落ち着けるように一つ息を吸って藤吉に向き直る。そして、改めて藤吉の目を見て口を開こうとした。

 しかし、二度目の告白は藤吉の声に遮られた。

「ごめんなさい」

 藤吉は短くそう言うと、身体を折りたたむように頭を下げて、断りの理由を告げることも目を合わせることもなくスカートをひるがえして昼川の元から走り去って行く。

 驚きと悔しさ、恥ずかしさが昼川の中を駆け巡った。離れていく後ろ姿に昼川は届くはずのない手を伸ばす。

 待って、待てって。冗談とかじゃなくて、本気なんだよ。なぁ、だから――

「俺、諦めねぇから!」

 口走った言葉に恥ずかしさと情けなさが込み上げる。けれど、そんな昼川の思いの丈のもった叫びも藤吉を振り返らせることは出来なかった。

 伸ばしたままになっていた手を昼川は握り込む。手の平に残る空しさがどうやら失恋の感触らしかった。その手触りを確かめながら昼川はなんでだよ、と愚痴をこぼす。

 目蓋まぶたの裏には走り去る藤吉の後ろ姿が焼き付いていた。一人残された倉庫で昼川は藤吉の言葉を何度も反芻はんすうする。けれど、何度思い返してもあの短い言葉から藤吉の真意を測ることは出来そうになかった。

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