第六章 昼川蓮司④

 夏期休暇を挟んだ二学期の初日。

 学校への通学路を辿りながら昼川ひるかわは不安を抱えていた。藤吉ふじよしへの告白。それが誰かに知られてはいないかと疑心暗鬼を覚える。普段の様子から考えて藤吉本人が告白について言いふらすことはないだろうと昼川は考えていた。けれど、藤吉が相談を持ち掛けた相手から口伝えに噂となって広がる場合や、そもそもあの場を偶然に誰かが見ていた可能性も捨てきれなかった。

 からかわれるかな。

 藤吉への告白が教室では既に噂となっている。そんな不快な想像が休暇明けの昼川を憂鬱ゆううつにさせていた。稲村いなむら草尾くさおならまだしも爽町さわまちに馬鹿にされたらと思うと、それだけで昼川は頭に血が上るように感じた。

 もし、本当に噂になっていたら、と昼川は考える。

 藤吉は俺を避ける。むぎの名前と同じだ、たぶん。

 しかし、昼川の不安は取り越し苦労に終わった。二年四組の教室では昼川の告白は誰の話題にも上っていなかった。多くのクラスメイト達は休暇中にどこへ行ったか、何をしたかといったありきたりな話で盛り上がっている。そのことに昼川はひどく安心した。

 噂の次の懸念は藤吉だった。噂になってはいなくても藤吉は昼川への態度を変えるかもしれない。それは事実上、次の機会はないという宣告に違いない。けれど、見たところ教室での藤吉には何一つ変わったところは見受けられなかった。普段通りに授業を受け、いつものように友人と談笑し、クラスの雑務を粛々しゅくしゅくとこなす。藤吉は藤吉のままだった。

 その変化の無さに昼川はほっとする。それと同時に走り去る後ろ姿と手の平に残った感触を思い出して何の変化も見られないことに身勝手な不満も覚えていた。

 変化がなかったのは藤吉だけではない。爽町の男子への態度も一学期と何も変わっていなかった。そっちは変わってていいのに、と昼川は内心で溜息を吐く。

 そうして始まった二学期は二週間もすると文化祭の空気に染まっていった。文化祭の出し物は学年別に割り当てられていて二年生は例年、クラス毎に演劇を公演することに決まっている。他のクラスとの兼ね合いで絞られていった演目はどうやら学級委員が選んだものらしく童話や御伽噺おとぎばなしを原型にしたものが多かった。そして、最終的に二年四組の演目に決定したのは定番中の定番『シンデレラ』だった。

 演目が決まると放課後は文化祭の準備に当てられる。王子様役として役者班に配属された昼川はシンデレラ役の爽町と常に一緒に行動することを強いられた。昼川はシンデレラ役に内心で藤吉を推していたのだが、多数決で決まったものをくつがえせるはずもなかった。

 そんな劇の配役よりも昼川の胸を占めていたのは、やはり藤吉のことだった。

 二学期に入ってから昼川は藤吉とまともに挨拶すら出来ていない。そのことに昼川は焦りを覚えていたが、当の藤吉は授業中や休み時間はおろか放課後になっても忙しくしている。文化祭準備においてクラス統括を担当する藤吉は全体の進行に目を光らせているらしく、なかなか話をすることも出来なかった。そうして藤吉の動向に気を配っていると容赦なく爽町からの叱責が飛んでくる。爽町にはうっせぇな、と返しながら昼川はどうしたものかと頭を悩ませていた。

 そうして藤吉のことで頭がいっぱいになっていた頃、思わぬ方向から昼川は驚かされた。それは勉強会での美ノ瀬みのせの一言だった。

「――れんちゃんって好きな人とかいないの?」

 その質問に昼川は藤吉への告白を知られていたのかと焦る。突然の問いかけに自然体でいられるはずの美ノ瀬を相手に昼川は動転した。

「勉強中だろ。それにたとえ麦でも本命は教えらんねぇ」

 なんとかそう言いつくろう昼川にさらに美ノ瀬は畳み掛けるように問いを発する。

「爽町さん?」

 美ノ瀬が口にしたのは藤吉の名前ではなかった。その見当違いな当て推量に昼川は自分を取り戻した。美ノ瀬は昼川の告白を知らないらしい。やはり、美ノ瀬は昼川の予想通り色恋沙汰にうといようだった。でもさ、と昼川は思う。

 なんでそこで爽町が出てくんだよ。ありえねぇって。

 食い下がる美ノ瀬に昼川はテキストを渡して「しつこい。うっさい。続き」と話題を終わらせにかかる。しかし、昼川の胸中にはざわめきが残っていた。爽町。美ノ瀬はその名前を口にした。

 藤吉も爽町って言ってたよな。

 それは単に爽町との教室でのつのいを誤解してのものだったかもしれない。けれど、他でもない藤吉と美ノ瀬の言葉が一致したことに意味がある。昼川はそんな気がした。

 性格。稲村と草尾の挙げた条件が頭を過る。「優しさとかも重要じゃねーの?」という草尾の声が思い出されて昼川は目の前の美ノ瀬を見た。

 美ノ瀬の性格を昼川はよく知っている。優秀だが控え目で前に出たがらない。そのくせ、いつも昼川の心配ばかりしている。

 麦は優しいヤツだ。

 美ノ瀬の優しさは藤吉のそれと似ているように昼川には思えた。おまけに二人は揃って頭も良い。

 藤吉が好きなのは、麦みたいなヤツかもしれない。

 美ノ瀬と藤吉が並んだ姿を想像して昼川は一人静かに肩を落とした。

 その翌日、昇降口で靴を履き替えようとする昼川に後ろから声が掛けられた。

「どうしたの?」

 昼川が視線を上げるとそこには美ノ瀬の姿がある。失恋の痛手に追い打ちを掛けた張本人の姿に昼川は目を細める。周囲に他の生徒はいないようだった。そうでなければ学校で美ノ瀬の方から話し掛けてくることはないと昼川は知っている。

 けど、今じゃねぇよな。

 美ノ瀬の間の悪さに昼川は気怠けだるそうに口をへの字に曲げる。

「麦と俺が逆だったら良いのに」

 そんな昼川に美ノ瀬は仕方ないなとでも言うように笑った。

「靴入れるだけでしょ。贅沢言わないの」

 美ノ瀬は昼川が靴箱の位置に文句を言っていると勘違いしたようだった。美ノ瀬との齟齬そごに昼川は舌打ちを鳴らす。そこへ誰かの靴音が近づいてくる。その音を聞いて美ノ瀬はすぐに靴を履き替えてその場を後にした。いつもは気に入らない美ノ瀬のその振る舞いがその時の昼川にとっては都合が良かった。

 美ノ瀬と入れ替わりに昇降口に現れたのは、藤吉だった。

 挨拶を、話を、声を掛けたいはずだった。けれど、いざ藤吉を前にすると言葉が出てこない。自身の意気地のなさに昼川は逃げ出したい気分になる。

 俺から話し掛けられるのはイヤかもしんない。向こうから話し掛けてくるまでそっとしとこう。

 自分にそう言い訳をして昼川は靴箱にスニーカーを雑に投げ込むと上靴を足に引っかけるようにして急いで歩き出す。その背中を引き留めたのは藤吉の声だった。

「昼川くん」

 藤吉の呼びかけを無視するわけにはいかず昼川が足を止める。

 なんだろう。わざわざ、呼び止めるってことはなんか用があるんだよな。……告白断ったのナシにしてとかだったらいいのに。

 そんな下心のもった希望を胸に昼川は振り返った。いつも通り身綺麗な藤吉と目が合う。一瞬絡んだ視線を藤吉は下へと移動させて細く白い人差し指を昼川の足下に向けた。その指の示す先に昼川も視線を向ける。

「上靴。かかと踏んでたら転んじゃうよ?」

 急いだために昼川は上靴の踵を踏み折っていた。その履き方に藤吉は注意をうながしているようだった。予想していた言葉とは全く違ったが、その忠告には避けたり嫌ったりするような調子が含まれてはいなかった。そのことに昼川は内心で喜びの声を上げる。

「だいじょうぶ。コケたりしねぇよ。俺も藤吉と同じくらい運良いんだぜ」

 そう強がるように昼川が笑うと藤吉も小さく微笑んだ。その笑顔が嬉しくて昼川は藤吉に見せびらかすように上靴の踵を踏んで歩く。そうしている間は藤吉の関心が自分に向いている気が昼川はした。それから昼川の上靴の踵は踏み折れたままになった。

 機嫌を直した昼川の頭からはその時を境に美ノ瀬と藤吉の関係について抱えていた胸の悪くなる想像もすっかりなくなっていた。しかし、そうして昼川が浮かれていると決まって爽町の声がする。

「ロッカーに座らないで!」

「そういう本は持ち込み禁止!」

「通路の邪魔になってるでしょ!」

「先生の話はちゃんと聞いて!」

 いつからか爽町の口調は一学期の頃よりも厳しい響きに変わっていた。そんな爽町の変化に敏感だったのは矢面やおもてに立たされがちな昼川ではなく、稲村や草尾の方だった。

「なんか最近の爽町さん、ちょっと変じゃね?」

「言い方キツくなったよな」

「あれじゃ、怒られても嬉しくない」

 同意見らしい二人に昼川は首を傾げる。前からじゃん、と。昼川にとって気になることは二人の言う口調の変化とは別のところにあった。立て続けに浴びせられる爽町の叱責。その合間に時折どういうわけか美ノ瀬の名前が現れるようになっていた。

「美ノ瀬くんが可哀想でしょ」

 爽町のその言葉を昼川はいつも怪訝けげんに思う。麦は関係ないだろ、と。それでも学校では他人のように振る舞う美ノ瀬のことを思ってその点に関しては反論しないようにしていた。そんな昼川の配慮など知る由もない爽町は演劇の稽古中でも容赦なく憎まれ口を叩いてくる。

 そういった事情もあり、体育館の舞台へ稽古のために移動する際にも昼川は爽町から離れて歩いた。距離を取ったのは不必要に爽町の反感を買わないようにするため。しかし、それだけではなかった。

 役者班の進行状況の確認。そのために体育館への移動には藤吉が同行していた。その絶好の機会を逃さぬよう昼川は藤吉の隣を確保する。昇降口での出来事が昼川に再び根拠のない自信を与えていた。

 そして、文化祭のことなら藤吉も返しやすいよな、と考えて昼川は藤吉に話し掛けた。

「藤吉はさ『シンデレラ』ってどう思うわけ?」

「どうって?」

「あれ、脚本選んだの藤吉なんだろ?」

 昼川の質問に藤吉は合点がいったようにああ、と頷く。

「童話の定番だよね。夏休みに読み返してたら共感しちゃって」

 確かにシンデレラみたいに影で仕事ばっかしてるもんな、と藤吉の言葉を昼川は微笑ましく受け取る。

「じゃあやっぱ藤吉もあんの? お姫様願望とか」

 そう昼川が続けると藤吉は口元を隠すようにして小さく笑った。

「そうだね。一度は選ばれてみたいよね」

「藤吉なら選ばれるんじゃねーの?」

 俺じゃダメなのかよ、とばかりに口をついて出た皮肉交じりの言葉に昼川はヤバっ、と冷や汗をく。けれど、藤吉はそれには気づかなかったように前を向いていた。

「あたしは無理だよ。魔法のドレスだってきっと似合わない」

 運が良いから、という口癖を藤吉は口にしなかった。

「そんなことねーよ。藤吉ならなんだって似合うって」

 失言を取り消そうと慌てて言う昼川に藤吉は笑う。

「あはは、ありがとう」

 社交辞令として聞き流すような藤吉に昼川は挽回しようと懸命に言い募る。

「それにさ、魔法が解けたって平気だよ」

 藤吉はありのままで十分なんだから、と言外に意味ありげな視線を送る昼川に藤吉の返答は少し遅れてやってきた。

「――昼川くんらしいね」

 意味が取れず疑問を覚える昼川の耳に藤吉の小さな呟きが届く。

「でも、魔法が解けたら、もうそこにはいられないよ」

 ますます深まる疑問に耐えきれず昼川が口を開く。

「それって――」

 そこに文化祭実行委員の声がおおかぶさるように割って入った。

「二年四組さん、どうぞー」

 気づけば体育館はもう目と鼻の先だった。その実行委員の呼びかけを合図にしたように藤吉は昼川から離れていく。そして、進捗を確認し終えたのか、しばらくして藤吉は役者班から別の持ち場へと移っていった。その後も忙しい藤吉はなかなか捕まらず、落ち着いて話をすることは出来なかった。

「――昼川くんらしいね」

「でも、魔法が解けたら、もうそこにはいられないよ」

 藤吉の言葉の意味を探ろうと美ノ瀬に尋ねてみても、昼川の納得のいく答えは得られなかった。

 麦なら藤吉みたいに「蓮ちゃんらしいね」って言うかと思ったのに。

 走馬灯の速度が緩やかになって昼川の視界に見慣れた教室の景色が戻ってくる。同時に戻ってきた痛みに昼川は顔をゆがめた。傷口に添えた手にはぬるま湯のような温度があるがその反面、身体からはみるみる熱が逃げていく。そんな途切れそうな意識の中で、昼川はようやく探していた人影を見つけた。

 藤吉、あれ、どういう意味だった? 教えてよ、藤吉。

 昼川の言葉は声にならない。焦点の定まらない目で昼川は必死に藤吉を見つめる。その目が見下ろす藤吉の視線と重なった。そこにあったのは昼川の知らない目。知らない表情だった。見たことのない他人の目が昼川を見下ろしていた。

 それは色の消えた感情のない目だった。

 そして、その目に射竦いすくめられるようにして昼川は最後に残ったなけなしの意識を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る