第四章 美ノ瀬麦①
教室には人工の風が吹いている。
九月二十三日金曜日の七限目。古文の授業を受けながら
エアコンから吐き出された人工の風が頭の上を流れていく。教室と外とを見比べて、今日は体育がなくて良かった、と美ノ瀬はのんびりした気持ちになる。終盤に差し掛かった九月でも依然として熱中症の危険性は高い。その注意喚起を行う体育教師は過剰に美ノ瀬を心配している節があった。その過度な対応にはむしろ息が詰まる。室内での学習の方が美ノ瀬の性には合っていた。
しかし、教室も決して快適ではなかった。それはこの教室のエアコンのせい、と美ノ瀬は思う。唸りを上げる駆動音に対して吹く風があまりにも弱々しい。なんだか
美ノ瀬が昼川のことを考えているとその当人が堤から指名を受けた。板書された和歌の品詞分解を求められる。その問いに昼川が間髪入れずに上げた声は解答ではなかった。
「分かりませーん」
呆れた様子の堤に昼川は美ノ瀬なら答えられる、と言って美ノ瀬の座席をコンコンと蹴った。その調子の良い態度に美ノ瀬は昼川が最初から解答する気がなかったことを察する。前に教えたことがあるから昼川も分かるはずだと思うが口にはしない。
「じゃあ、悪いけど美ノ瀬。分かるか?」
堤に美ノ瀬は目で頷いて黒板に記された和歌を品詞毎に区切って読んでいく。
「秋、来、ぬ、と、目、に、は、さやかに、見え、ね、ども、風、の、音、に、ぞ、驚か、れ、ぬる」
「よし正解。じゃあ次。現代語訳してみよう。えっと、それじゃあ隣の委員長」
秋が来ていると詠むか。夏が居座っていると感じるか。美ノ瀬はまだ夏だと思う。空調がついていることがその証拠だ、と。涼しさを運ばない人工の風が美ノ瀬の髪を撫でていく。エアコンの風ならどんな歌になるだろうとも考える。その結果、エアコンを見て驚く平安貴族を想像して美ノ瀬は少し愉快な気持ちになった。
そこから堤の話題は秋風を意味する季語とその由来へと転がっていった。色なき風。美ノ瀬にはあまりピンと来ない。堤の言うように秋と言えば紅葉という鮮やかな色彩のイメージが先入観としてあるからかもしれなかった。語感だけなら、と美ノ瀬は思う。エアコンの風が一番、色のない感じがする。人工物の素っ気ない感じ。そう考えるとやっぱり蓮ちゃんとエアコンは似てないな、と思った。
授業とショートホームルームが終わって文化祭の準備が始まる。
美ノ瀬は小道具の担当に決まっていた。『シンデレラ』にはガラスの靴をはじめとして小道具が多い。掃除道具などはクラスの備品を流用できるとしても用意しなければならないものはいくつもあった。小道具班の進捗を思い浮かべながら美ノ瀬は黒板に目を向ける。そこでは
杉江や
美ノ瀬は昼川が演じる王子の衣装も気になっていたが、小道具班には衣装班の進行状況は伝わってこない。衣装班は出来映えをサプライズといってクラスメイトにも秘密にしている。伝わってきているのはカボチャの馬車を作る大道具班の行程に少し遅れが出ているということぐらいだった。
美ノ瀬は作業の準備をしようと他の生徒と一緒に机や椅子を教室の前方に移動させていく。その間に教室の後ろでは役者班の数人が早くも台詞の確認をしていた。その台詞から美ノ瀬は自宅での勉強会で聞いた昼川の話を思い出す。その時、昼川は自分が着る衣装よりも演目の内容を気に掛けていた。
「なあ麦。なんでシンデレラは十二時に帰っちゃうんだと思う?」
「そりゃ、魔法が解けちゃうからでしょ」
「魔法が解けても別にいいじゃん」
「良くはないでしょ」
「なんで?」
「うーんとほら、粗末な服を着てるってバレるのが恥ずかしいんじゃない?」
「恥ずかしがることか、それ?」
「どういうこと?」
「中身は一緒なんだから堂々としてればいいのに。王子だってきれいなドレスとかガラスの靴を履いてるからシンデレラを好きになるわけじゃないだろ?」
「うーん。どうだろうね?」
昼川はいつになくやる気で意外と文化祭を楽しみにしてるようだった。その割に衣装はどうでもいいといった様子を昼川は見せる。そんなちぐはぐな態度は恥ずかしさの裏返しだと美ノ瀬は思っていた。美ノ瀬が机を動かし終わると、後ろからその恥ずかしがり屋の声がした。
「美ノ瀬っ」
昼川は学校ではなぜか美ノ瀬を名字で呼ぶ。いつもは名前で呼ぶくせに、と美ノ瀬はそれが少し気に入らない。
美ノ瀬が振り返ると昼川は教室の後ろに備えつけられたロッカーの上に座っていた。長い足をブラブラと持て余したように揺らしている。その足が美ノ瀬を呼んだ拍子に勢いよくロッカーの蓋に当たった。
大きな音が鳴って昼川は驚いたようにビクッと身体を震わせる。昼川の傍では
そこに別の方向から声が割って入る。
「やめなよ!」
それは爽町の声だった。昼川と爽町はこうして日に何度も衝突を繰り返す。その光景に美ノ瀬は慣れきっていた。美ノ瀬は二人から目を離して小道具班の集まりを探す。
教室内ではそれぞれの班が今日の作業内容を確認するために固まり始めていた。そのグループに加わろうとしていないのはどうやら昼川と爽町の二人だけらしい。美ノ瀬だけでなく二年四組の多くの生徒が二人のやりとりをいつものことと軽く見ているようだった。
「おいおい。あぶねぇって」
「美ノ瀬くん、嫌がってるじゃん!」
二人の普段と違う様子に誰も気がつかなかった。少なくとも美ノ瀬は気づくことが出来なかった。だから、神崎が悲鳴を発した時にはもう何もかもが手遅れだった。
「……えっ?」
美ノ瀬は目の前で起こったことが信じられなかった。
赤い染みが昼川の腹部から制服の白いシャツにじわじわと広がってゆく。その染みの中心には色褪せた柄の刃物が深く刺さっていた。
足が動かない。
金縛りにあったように美ノ瀬は動けなくなった。眼球だけが目の前の光景を焼きつけようと忙しなく動いている。そんな視界の中で爽町が血に驚いたのか
爽町はへなへなと力をなくしたように地面に崩れ落ちている。呆然とした様子で爽町は昼川を見つめているようだった。
昼川の方は爽町も美ノ瀬も見てはいないようだった。痛みを吹き飛ばそうとでもしているのか傷に手を当てながら首をブンブンと左右に振り回している。
助けを呼ばなくちゃ、と美ノ瀬は思う。しかし身体が言うことを利かない。
「わ、私、先生呼んでくる」
杉江の声が遠くに聞こえた気がした。昼川の大きな身体がゆっくりと倒れていく。その身体が床に叩きつけられた音が美ノ瀬には聞こえなかった。意識が遠のいていくように感じる。教室のざわめきまでもが何か膜に遮られたようにくぐもって聞こえた。
昼川が運ばれていった後、美ノ瀬は煙草の匂いがする中年の男性に連れられて教室を出た。それからの事を美ノ瀬はよく覚えていない。
覚えているのは一つだけ。どこからか聞こえてきた知らせ。美ノ瀬には嘘としか思えなかった。それは昼川の死を知らせるものだった。
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