間章 芝亀望④

 自転車をビルの入り口脇に駐め、芝亀しばがめはエレベーターのボタンを押した。三階で降りて通路を進み、『月刊壱蜂いっぽう』編集部の扉を開いて帰着を告げる。

「ただいま戻りましたー」

 芝亀のその声に応接用のソファからむくりと起き上がる影がある。その影以外に編集部に動く者はいないようだった。

「おう、遅かったな」

 編集長はどうやらうたた寝をしていたらしく、声が少しれているようだった。

「遅かったな。じゃないっすよ、編集長」

 芝亀はそう言って不満げに編集長の眼前に自転車の鍵を突き出す。

「まだ使えたか? たまに使わないとすぐガタが来るからな」

 鍵を受け取りながら編集長はそんな言葉を返してきた。

「そんな理由で行かせたんすか……?」と信じられない思いで芝亀は編集長を見る。

「まあ、いいじゃねぇか。それで取材は出来たか?」

 殊更ことさら問題にすることでもないとでも言うように、編集長はここ数時間の芝亀の骨折りの起因となったらしい事柄ことがら呆気あっけなく流した。

 しかし、編集長の一言、その後半部分が芝亀に不甲斐なさを感じさせていた。結局、これといった情報は何も得られていなかった。けど、取り繕っても意味がない、と芝亀はありのままに見聞きしてきた内容を話す。

「取り立てては何も。ああ、でも、途中で現場中継に出会でくわしましたよ。それは見ました?」

「ああ、やってたな。刺傷事件と言ってた。それから被害者の生徒が救急車で運ばれたとも」

 重要だと思っていた箇所を当然のように挙げる編集長に芝亀はむかっ腹を立てる。

 私が汗流したり、恥掻いたりした意味がない。

 しかし、言っても仕方ないと芝亀は報告を続けることにした。

「はい。私もそこは気になりました。速報の時は暴行事件って言ってましたし。――刺傷。怪我をさせたのが確定なら傷害罪に格上げですもんね、確か」

「そうだな」

 編集長の相槌に芝亀は自分の認識に間違いがなかったことを確認した。そして、現場中継では放送されていないであろう出来事についての報告を上げる。

「それでそのあと、高校に乗り付けた黒い車があったんですよ」

「ほう?」

 短く関心を示すように編集長はあごに生えた無精髭ぶしょうひげを指の先でもてあそぶ。その仕草に芝亀はおっさん臭っ、と思うが口には出さない。

「で、その車の後部座席に乗ってたのが今回の事件で被害を受けた生徒の担任なんじゃないかって周りにいた報道の人が言ってたんすよ。ホントかどうかは分かんないすけど」

「ふむ。それでその担任かもしれない人物をお前はどう思ったんだ?」

 なんだか見透かされているような気がして芝亀はむすっと黙り込みたくなる。

「どうした?」

 そんな編集長の声に芝亀は意固地になりかけた気を取り直す。

「いえ、なんでも。――その人、若い男性でしたけど、その人そのものに何かってのはないですかね。顔色悪いなってそれぐらいで」

「それ以外には気になることがあったってことか?」

「気になるってほどじゃないすけどね。……えっと、車が高校に乗り付けたって言ったっすよね、私」

 編集長が頷くのを待って芝亀は考えを話す。

「どこ行ってたんだろうなって思ったんすよ。事件があって保護者とか報道陣とか、多分、学校の中でも説明しなきゃいけない状況で、どうして担任の先生が学校の外にいたんだろうなって」

「なるほど。確かにその状況でその男性が担任教師だとしたら少し不可解かもな」

「はい。そこで中継の現場レポーターが言ってた救急車のことを思い出したんすよ」

「ふむ。言いたいことは大体分かった。その担任教師と思われる男性は被害者に付き添って救急車に乗っていたとお前は考えたんだな」

「……はい。その通りっす」

 見てきたかのように推測を立てる編集長に芝亀はなんだか悔しさを覚えていた。けれど、ここで張り合っても失った即席麺シーフード味は返ってこない。そんな諦めから芝亀は大人しくありのままを話すことに専念する。

「もし、そうなら、その生徒と一緒に学校に戻ってくるもんかなって……」

「生徒は一緒じゃなかったのか?」

 あれ、言ってなかったか、と芝亀は一瞬焦るが別にそんな事で怒られはしないと落ち着いて補足を入れる。

「ああ、はい。生徒さんはいませんでした。後部座席にいたのはその担任っぽい人が一人だけで。運転席と助手席の人はちょっと分かんないっすかね」

「病院が送迎までするとは思えんから、おそらく律調の他の教師か警察だろうな」

 編集長のその返しに芝亀は相槌を打つように頷く。

「ああ、病院関係者の可能性もあるにはあったんすね」

「他には何かあったか?」

 そう訊いてくる編集長に芝亀は記憶を探る。

「……保護者の人達が説明会で学校側からトラブルもいじめもなかったって言われたとかって怒ってましたかね」

「まあ、そりゃ、怒るだろうな」

「あと、今回の事件は突発的だとかなんとか……」

「責任は学校側にはないって話だな。まあ、よくある時間稼ぎと責任逃れだ」

 そう言って考えに沈むように編集長は黙り込んだ。その一から十まで自分の速度で物事を進める編集長に芝亀は不満を募らせる。それまでに積み重なっていた食べ物の恨みと無駄骨による疲労、その他諸々の不満を芝亀は社会人らしく水に流そうとして、――やめた。

「あの、編集長」

「なんだ?」

「結局、なんで私、取材に行かされたんすか?」

 説明責任を果たしていないという意味では芝亀にとって律調高校も編集長も同じだった。

 事件に興味があるなら編集長本人が現場に行くなり、TVにかじりつくなりしていれば良かったのでは、と芝亀は考えていた。そんな芝亀の言葉に編集長は馬鹿なことを言うなとでも言いたげな様子で片眉を上げてみせる。

「そんなもん決まってるだろ。記事を書くためだよ」

 編集長の言葉に芝亀は驚いた。

「えっ、嫌がらせじゃなかったんすか?」

「お前は俺を何だと思ってるんだ……」

「いやでも、記事書くんなら、それこそ編集長が行ってくれば良かったじゃないすか。その方が手っ取り早いし」

「……何言ってんだ、お前。俺が行ってどうすんだよ。取材は記事書くヤツが行くに決まってるだろ」

 編集長のその言葉に芝亀の思考は停止した。

「えっ、編集長が書かないなら誰が書くんすか?」

「お前が」

 芝亀は編集部を見回してみる。編集部には芝亀と編集長の他には誰もいない。編集長がお前と呼ぶ相手は芝亀しかいなかった。

 その日、二度目の芝亀の叫びが『月刊壱蜂』編集部にこだました。

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