第三章 込波順太③

 今日も平穏が乱されている。

 上空のヘリの音に込波こみなみは思わず舌打ちをした。

 空撮くうさつでは歩行者の特定には無理があることは理解しているが、撮られているかもしれないという懸念がどうしてもつきまとう。それはとても良い気分とは言えないものだった。

 事件から三日。校門の周りには月曜日の朝にも関わらず好奇心が服を着たような暇な大人達の群れがいくつもある。それが報道かゴシップ誌か込波には判別がつかない。二年四組の生徒だとバレないように息を潜めてその大人達の間を縫うように進む。

 込波は何より静かで平穏な日常を大切にしている。けれど、世の大人はそんなことを微塵みじんも考慮してはくれないらしかった。この三日で律調りっちょう高校の生徒はそのことを学んだはずだ、と込波は思う。

 まさか、家にまで取材の電話が掛かってくるとは考えていなかった。高校生だった頃の記憶はあの大人達にはないらしい。奴等は記憶の回路に欠陥でも抱えているんだろうかと込波はさげすむような目でその人だかりに一瞥いちべつを投げた。

 他人のことを何とも思わない傍若無人な奴等やつらにしか他人の不幸を飯の種にする職業は務まらないのかもしれない。死んだ昼川ひるかわと同じ種類の連中だ。そう思うと込波は将来が今以上に憂鬱ゆううつに思えてくる。

 込波は首を直角になるほど曲げ、ほとんど真下の自分の足だけ見ながら校門をやり過ごした。校庭横の通路をとぼとぼと進んで昇降口へと向かう。

 辿りついた昇降口の靴箱を見て込波は吐き気を覚えた。

 爽町さわまち雛子ひなこ。五十音順で並んだ靴箱にはまだ爽町の番号のシールが貼り付けられたままだった。以前から込波はいけ好かないこの女と連番なのが不服だった。その気持ち悪さが事件を経てますます悪化した。

 用務員は何してるんだ。剥がしておけよ。それがマナーってもんじゃないか。そう思いながらも込波は自分では剥がさない。手が汚れそうだから、と自分に言い訳をする。怖いわけじゃない。人殺しと少しでも関わり合いにはなりたくない。そんなの誰だって思うことだろ、と心中で呟く。

 込波は爽町の靴箱に手が触れないよう細心の注意を払って靴を履き替えた。そして教室へと向かう階段を上がっていく。

 二年四組の教室は人影がまばらだった。

 休むという選択肢を見逃していたことを込波は悔やむ。今日ぐらいは休んでも文句を言われることはなかったかもしれない。なにせ事件からまだ三日だ。見回した教室には稲村いなむら草尾くさおも、杉江すぎえ神崎かんざきもいなかった。リーダーの昼川と爽町がいないとあいつらは学校に来ることも出来ないらしい。

 あいつらがいないだけで教室はこんなにも静かなのかと込波は新鮮な驚きを感じた。本当にあいつらはいつもいつもぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあとうるさいったらなかった。この状態が永遠に続けばいいのに。

 込波の待ち望んでいた平穏がここにはあった。

 込波が落ち着いた雰囲気の教室を満喫していると意外な顔が目に入った。

 美ノ瀬みのせ。教室の空席の多さを見た時、てっきり気の弱い美ノ瀬は休みだろうと込波は思った。けれど、案外いじめから解放されて穏やかな気分なのかもしれなかった。

 いじめという言葉から込波は休日の間にネットで見掛けたおかしな書き込みを思い出した。それは爽町が昼川を刺したのはいじめ被害者をかばったからという内容のものだった。そのいじめ被害者とは美ノ瀬のことのようだった。

 美ノ瀬は昼川からいじめを受けていた。そんな事は二年四組の生徒なら誰だって知っている。だが、爽町が美ノ瀬を庇ったなどという与太話よたばなしには頷けない。どこからそんな根も葉もない話が出て来たんだと込波は笑った。

 爽町は自分の意思で昼川を刺した。誰かを庇ったわけじゃない。庇うわけがない。庇うとしたら杉江や神崎といった自分の信者達だけだろうと込波は考える。

 込波からすれば爽町も昼川も自分が一番というタイプだった。それは込波や美ノ瀬、他のクラスメイトを見る目から分かる。つまるところあの二人は同族嫌悪をお互いにぶつけていたのだと込波は結論づけている。

 その争いに昼川は負けて死に、爽町は勝って牢屋に入れられただけ。馬鹿なあいつらには似合いの末路。自業自得だ。それを美談にするのはいくらなんでも無理がある、と込波は呆れ返った。けれど、そうやってセンセーショナルに仕立て上げられた書き込みは他にもあり、どういうわけかアクセス数が伸びているようだった。興味をそそられて込波はそういった記事にも一通り目を通した。

 十七歳の若さで亡くなった昼川に同情を寄せる内容。爽町をいじめに立ち向かった勇気ある少女だとして情状酌量じょうじょうしゃくりょうを求めるコメント。事件にかこつけて今時の若者には快楽殺人者が多いなんて記事まで見つけた。実態を知る込波にはそのどれもが三文記事にしか映らなかった。

 昼川に同情を寄せる必要なんて全くないし、爽町がいじめと戦ったなんてデマでしかない。それにあんな奴等と善良な俺達を一括ひとくくりにされてはたまらない。全くもって心外だ、と込波はいきどおる。それでも込波はいつまでもそんな記事を探しては読みふけっていた。

 物思いが教室のドアを開ける音に遮られる。教室に現れたつつみは青い顔をしていた。今にも倒れそうな様子の堤は今から全校集会が開かれると二年四組の生徒に告げた。

 ぞろぞろと移動した体育館では二年四組だけ明らかに集まった人数が少なかった。そのぽっかりと空いた隙間を埋めるように壇上から校長が生徒の死と逮捕への悔恨、そして、立ち直ることの重要性を説く。その言葉の端々からもう面倒を起こしてくれるなという本音が透けて見える。

 そんな訓示を聞き流しながら、やっぱり今日は休むべきだったと込波は後悔した。

 全校集会の後は普段通りの授業が予定されている。こんな状態で本当に授業をするのかと込波は半信半疑だったが、蓋を開ければ予想通り授業とは名ばかりの自習時間だった。

 そんな自習の合間に設けられた休憩時間に込波は用を足しにトイレに向かう。そこには既に先客がいた。昼川の腰巾着達がたむろしている。今日は休んでいる稲村と草尾からはワンランク落ちる奈良林ならばやし田所たどころの姿がそこにはあった。

 部活の仲間なのか他のクラスの生徒も一緒になって小便器の前でおしゃべりの輪を作っている。込波はそこに割り込むことが出来ない。

 一瞬、込波はその輪を睨んだ。しかし、誰一人としてその視線には気づかない。はえ人間にんげんどもめ、と込波は胸の内に悪態を吐く。

 愚鈍ぐどんな奴等。昼川とそっくりだ。

 込波はその場を離れることにする。匂いに集る蠅の習性を持った恥ずかしい連中とは一秒たりとも同じ空気を吸っていたくはなかった。次のリーダーを決める会議なのかもしれないが友情ごっこは他所でやってほしいものだ、と込波は気を悪くする。きびすを返して込波は別棟にあるトイレへと向かった。

 廊下の途中で今度は女子三人が道を塞いでいた。

 違うクラスのその女子達は会話に夢中で込波にはまだ気づかない。男女を入れ替えただけの光景に込波は既視感を覚えた。

 爽町のグループの一段下にあたるグループだと込波はその女子達を認識している。顔もスタイルも爽町には及ばず、杉江や神崎に爽町の隣を奪われた惨めな連中の集まり。その女子達が通行止めの三角コーンのように廊下の真ん中に立っている。その只中ただなかを進むことを込波は躊躇ためらった。さっきのトイレの男子達と同じ臭いがしてきそうだ、と息を止める。

 それにしても馬鹿な連中は何かを塞がないと気が済まないらしい。人の迷惑も考えてほしい。考えなしだから恥ずかしげもなくそんな行いが出来るのだろうけど、と口の中で込波は呟く。

 しばらく込波はその女子達が退いて道を空けるのを待っていた。けれど、その女子達は立ち去らず、それどころか刺々とげとげしい声を込波に向けて発した。

「さっきからあいつ何? ずっとこっち見てない? キモっ。早くどっか行ってくんないかな」

 不本意はなはだしい台詞だと込波は鬱陶うっとうしく思う。

 やれやれ馬鹿のくせに自意識だけは一人前だ。どっか行くのはそっちだ馬鹿。そう考えはするものの、込波はその言葉を口に出したりはしない。良識のある人間はそんなことを言わない、自分は馬鹿ではないと己を律する。

 それにしても、と込波は思う。昼川と爽町が折角せっかくいなくなったのにまだこんな連中を相手にしないといけないのかと飽き飽きする。けれど、こういった時の対処に込波は慣れていた。

 一番の対処法は無視すること。込波はそれを経験から導き出した。反応を示さなければ勝手にこちらへの興味をなくす。こういう奴等は構われたいだけなのだから放っておけばいい。込波はその方法を実践する。上履きの先を見つめて女子達の注意をやり過ごす。全身を石のように固くした込波は心ない言葉にも動じない。

「はぁ。マジでなんなのアレ」

「エロい妄想でもしてんじゃん?」

「うわっヤバ! 痴漢かよ」

「変質者のいる学校とかマジ勘弁してほしい」

「ちょっとやめなよ~」

「あんたが見られてんのかもよ?」

「えっ? キモ。サイアク~」

「でも金取れんじゃね?」

「「「ぎゃははは」」」

 うるさい。うるさい。うるさい。

 その女子達は随分と上機嫌な様子だった。爽町がいなくなってヒエラルキーの中でカーストが上がったとでも勘違いしているらしい。手がつけられない。誰がお前らなんか相手にするか。とっととどっか行け。

 込波は嵐が過ぎ去るのをただただ待った。

 予鈴が鳴ってあちこちで人の動く気配がする。込波は廊下を塞ぐ女子達に悟られないようにそっと視線を送る。女子達も教室へ戻るのか重い腰を上げるのが分かった。これでようやくトイレに行ける。込波は静かに歩き出した。

 道を塞いでいた女子達を避けるように壁際を歩く。そうして込波と女子達が擦れ違う。その肩越しに刺すような視線が込波に向いた。

 汚いものでも見るような目。その目は込波を馬鹿にして明らかに笑っていた。込波はその目に込められた感情を察して歯噛みする。その視線が込波の目線よりも上からやってくることがさらに込波の頭に血を上らせた。

 どいつもこいつも。人を不快にさせるのを特技にでもしているのか。

 昼川も。その腰巾着も。爽町も。その金魚の糞も。こいつらも。身長の低い男には人権なんてないみたいな顔をしやがる。ふざけやがって。前時代的で愚かな考えだ。

 身長で一体何が分かる? 一八○センチ越えの昼川が単細胞だったのをもう忘れたのか?

 憤懣ふんまんかたない込波に追い打ちのようにののしりが飛んでくる。

「あいつ、今からトイレ行くの? 何しに行くんだよ。ヤラしい。キモいんだけど」

 込波はいつの間にか早足になっていた。その背後からいやしい笑いが追いかけてくる。

 黙れ。黙れ。馬鹿にしやがって。その罵声ばせいに追いつかれないように込波は急ぐ。トイレに入ると個室の扉を素早く閉めて耳を塞いだ。

 くそ。くそ。くそ。結局は一緒だった。

 平穏が乱されている。

 昼川が死んだって、爽町が逮捕されたって、何も変わらない。二番手、三番手がそのあとを継いで、俺の平穏は乱される。乱され続ける。俺の番はいつまでたっても回ってこないのに。

 込波はトイレの壁を握りしめた拳で力なく叩く。

 平穏を乱す昼川と爽町がいなくなれば何かが変わると込波は思っていた。

 爽町が昼川を刺したあの瞬間に新しい何かが始まるって。そう思ったのに、どうしてあんな奴等に馬鹿にされなきゃいけない? あいつらより俺が劣ってるところなんて一つもない。ただ少し、ほんの少し背が低いだけだ。それだけでどうして。

 込波の視界が滲む。やってられるか、と込波は不平を募らせる。

 どうして学校の周りにいるマスコミは俺の不幸に気づかない。不幸はあんたらの大好物のはずだろ。ここにまだ転がってるじゃないか。死んだのが可哀想。殺したのが不憫ふびん。いいじゃないかそのぐらい。あいつらはこれまで目一杯、甘い蜜を吸ってきたんだ。それより俺の不幸に気づいてくれよ。頼むから。

 トイレの壁にこすれた拳が小さな音を立てる。黒板を消す時の感触が込波の手によみがえった。堤の授業を込波は覚えている。

 いろなきかぜ。白はつまらない色。その白に込波は囲まれていた。 

「俺には形も色もちゃんとついてる。はっきり見えてるはずだろ。俺が見えないのかよ。ちゃんと目をらして見てくれよ。教師なんだろ?」

 絞り出すようにそう呟いて、込波はうなだれるように膝を抱えた。

 今日もまた平穏が乱されている。

 乱された平穏こそが日常だと認めることは込波には出来ない。それを認めるのは込波を馬鹿にする連中に負けることと同じだった。

 俺の平穏はまだやって来ない。

 込波は歯を食いしばってじっと息を殺した。

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