第三章 込波順太②

 込波こみなみはその瞬間を見逃した。

 乱された平穏がさらに滅茶苦茶になる。その瞬間を。

 込波は日誌を書いていた。それは当番制の日直に課せられた義務の一つ。欠席・遅刻者の数。その日の授業内容。それからクラスメイト達の授業態度。そして、担当者の一日の所感を記すことが義務づけられている。

 こんな僅かなスペースに連ねた文字で何が分かるのかはなはだ疑問だと込波は常々思っていた。しかし、全員がやることになっているものを一人だけボイコットするわけにもいかない。集団生活にはそんな気苦労が多かった。そうして込波が渋々シャープペンを日誌に走らせている間も昼川ひるかわ爽町さわまちの言い争う声は聞こえてくる。いつものことだ。やるならどこか他所よそでやってくれ。迷惑なんだよ。込波の頭に浮かんだのはその程度のことだった。

 ――短く鋭い悲鳴を聞くまでは。

 その悲鳴に込波は顔をしかめた。

 うるさい。ただでさえ騒音並みの環境なのにまだ足りないのか、と不快をあらわに込波は声の震源地に目を向けた。最初に目に入ったのは神崎かんざきの背中だった。どうやら神崎が叫んだらしい。けれど、それだけでは何が起こったのか分からず姿勢を変えて神崎の肩の向こうを見ようと込波は身を乗り出した。

 そこには腹から血を流す昼川と何かを取り落として腰を抜かす爽町の姿があった。

 やった。やりやがった。込波は思わず右の拳を握った。手の中のシャープペンに爪を立てる勢いでグッと握りしめる。

 以前から折り合いの悪いこの二人は早晩そうばん問題を起こすと込波は踏んでいた。だからこそ、その瞬間を見逃してしまったことが残念でならない。

「わ、私、先生呼んでくる」

 杉江すぎえが慌てた様子で教室を飛び出していく。それとほぼ同時に昼川が足を滑らせたように倒れた。ごつんという音が教室に響く。デカい図体に似合いの間抜けな音だ、と込波は表情を崩す。

 いつもいつも自信に満ちた大きな態度の昼川が地面にいつくばっている。いい気味だ。昼川の苦しむ姿を眺めても込波に同情の気持ちは微塵みじんも湧いてこない。それだけ昼川には苦しめられてきた。ならこいつも苦しむ必要があるのは当然のことだ。そうじゃないと不公平だろ、と昼川を視界に収めたまま込波は状況を静観する。

 昼川の自己顕示欲に今まで込波は何度も苦杯をめさせられてきた。馬鹿なことを愛嬌と取り違えたように大声で間違った答えを連呼し、授業を止めたことは一度や二度ではない。体育の授業でも運動神経の高さを笠に着てパスという名の暴力を繰り返し込波に浴びせかけてきた。スポーツ精神の欠片もない人間性。昼川がエースを務めているというだけでそのスポーツは野蛮なものだと込波は考えていた。

 上靴を人にぶつけておいて謝罪もない。どうしてこんな奴が地元では進学校の部類に入るこの高校に在籍しているのかと込波は理解に苦しむ。人の心の分からない暴力男である昼川がモテると聞いた時には耳を疑った。大した顔でもなく背が高くて少し運動が出来るだけ。そんな昼川に好意を寄せる女子は全員どうしようもない馬鹿か、ドMに違いないと込波は思う。

 そんな馬鹿な女子の筆頭が爽町さわまち雛子ひなこ。そう込波は位置づけていた。

 その爽町が今、倒れた昼川を見つめたまま震えている。爽町に対しても可哀想だという気持ちがこれっぽっちも湧いてこない。すぐに込波は思い当たる。こいつも大概迷惑な奴だからだ、と。

 毎回毎回、誰に頼まれるでもなく昼川に突っかかり、黙っていればすぐ済む昼川の癇癪かんしゃくじみた駄々の時間を引き延ばす。目立ちたがりの爽町から発せられる女子特有のあの甲高かんだかい耳障りな奇声も悩みの種の一つで、勘弁してほしいといつも込波は思っていた。

 込波の聞いた噂によると承認欲求を持て余した爽町は学外で読者モデルにも手を出していたらしい。込波の耳にまで入ってきたということは神崎や杉江あたりに噂を吹聴ふいちょうさせていたのだろう。涙ぐましい努力だ。その全てが込波のかんに障る。読者モデルという公開処刑に立候補するだけあって確かに爽町のプロポーションは高校生レベルではない。けれど、胸にばかり栄養の行ったその身体は込波からすれば下品と言わざるを得なかった。

 そんな二人が揃って馬鹿をやらかしている。漏れ出そうになる笑いを込波は必死に抑えこんでいた。

 いつしか二人を囲むように出来たクラスメイト達の輪を杉江に呼ばれて駆けつけたつつみがこじ開ける。けれど、その後は教師にも関わらずまともな指示は一切出さないまま、昼川の名前を遮二無二しゃにむに叫ぶだけだった。緊急時にはその人間の能力がよく分かる。やっぱり堤は大した教師ではない、と込波は自分の認識を強めた。

 また美ノ瀬みのせの様子も込波の笑いのツボをくすぐった。

 美ノ瀬に嫌がらせをしていた張本人の昼川が目の前で醜態しゅうたいさらしているというのに、美ノ瀬は目をおろおろとさせながら硬直したように動かない。床に流れる昼川の血が怖いのだろうか。意気地の無い奴、と込波は美ノ瀬に冷たい視線を送る。蹴りの一つや二つ入れられるチャンスだというのに勿体もったいない。代わりに自分がやってやろうかとも思うが流石におせっかいだと自重した。

 次々と教室に詰めかけた教師達が堤に代わり廊下に出て並ぶよう生徒に指示を出していく。その中の何人かを見慣れない教員だと込波が思っていると、察したように警察手帳が取り出された。

 警察の登場に込波も目を丸くする。そこへ救急隊員も到着し昼川を担架に乗せて運んでいく。そこに堤も付き添っていくようだった。教室に残っても今の堤は何も出来そうにない。担任のくせに役立たずな奴はそのまま帰ってこなければいいのに。込波はそう思いながら誘導に従って教室の外へ出た。

 廊下から込波が教室の中を見ると爽町と美ノ瀬だけが動かないまま残っている。そこに見慣れない大人が近づいていく。多分、あれも警察だと込波は類推する。

 そこで込波は考える。

 決定的な瞬間を見逃してしまったけれど昼川を刺したのは爽町らしい。ということは爽町は逮捕されるかもしれない。今。この場で。

 あの爽町に手錠が掛かる瞬間を目に出来る。込波は期待を込めて爽町と警察官らしいその女性に目を向けた。けれど、期待に反してその警官は爽町に肩を貸すようにして歩かせるだけだった。逮捕は他の生徒の目につかない場所で行われるのかもしれない。込波はひどく残念な気持ちになる。

 それでも今まで込波を困らせ苦しめてきた二人が排除される。平穏を乱してきた元凶ともいえる二人が揃っていなくなる。そんな可能性が現れたことに歓喜する。

 それはなんて喜ばしいことだろう。

 自然と持ち上がる口角を手の平で覆って込波は周りから隠した。

「うわ」

「四組、どしたの?」

「静かに! 並んで!」

「しんどいなら見ない方がいいよ」

「警察いんじゃん」

「運ばれたの昼川ってマジ?」

「どうしよう震え止まんない」

 騒ぎを聞きつけた他のクラスの生徒のざわめきが廊下に流れてくる。そのざわめきがサイレンの響きを聞いて水を打ったように静まる。

 同級生達の関心が窓の外の救急車に集まるのが込波には分かった。正確にはその中に担ぎ込まれた昼川に集中したことが分かった。昼川はみんなの注目を一身に浴びて満足だろうか、と込波は人の悪い笑みを手の内に溢れさせる。

「大丈夫かな昼川」

「分かんない」

「すごかったもんね血」

「やめてよ」

 サイレンに静まったのも束の間、廊下に昼川への心配と不安が言葉になって広がっていった。それが込波は気に食わない。だから口に出すつもりのなかった言葉が思わず漏れ出てしまった。

「――ざまあみろ」

 込波は焦って周囲を見回す。

 幸か不幸か、込波の声は誰の耳にも届いていないようだった。

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