第三章 込波順太①

 平穏が乱されている。そのことに誰も気づいてはくれない。

 黒板の清掃を終えて込波こみなみ順太じゅんたが自分の席に座ると、その途端に左肩に軽い衝撃が走った。背後から飛んできた上靴が当たったらしい。込波はすぐに思い当たる。

 上靴の持ち主は教室の後ろで騒いでいる昼川ひるかわか、その取り巻きの稲村いなむら草尾くさおといった連中だろう、と。

 一年の頃からの悪ふざけの常習犯達。いつになっても落ち着くことを知らない馬鹿共。あんな奴等には関わるだけ時間の無駄だと込波は学習している。シャツに付いた汚れをハンカチでぬぐって近くに落ちた上靴から目を逸らすように込波は前を向いた。

「わるいわるい」

 思いがけず聞こえた謝罪の言葉に込波は驚く。珍しい事もあるもんだ。ようやく人並みの礼儀に目覚めたらしい。俺は出来た人間だから素直に謝るなら許してやってもいい。そう思って込波が振り返ると昼川が謝っていたのは込波ではなく学級委員の藤吉ふじよしだった。藤吉に向かって今度は爽町さわまちが心配の声を上げている。

「藤吉さん、大丈夫? 気をつけてよ、昼川くん」

「大丈夫、大丈夫。あたしには当たってないから。椅子に当たったんじゃないかな」

 昼川の足から放たれた上靴はまず藤吉の座席の背もたれに当たり、それが跳ねて込波の左肩に着弾したらしかった。ぞろぞろと神崎かんざき杉江すぎえの二人も藤吉の周りに集まっていく。

 大袈裟な奴ら。お前らは爽町と離れたら死ぬ病気にでも罹患りかんしているのか、と込波は小さく鼻を鳴らす。

「藤吉、わるいな」

 昼川は指を揃えた片手で拝むように藤吉に言っている。

 謝るのはそいつじゃなくて俺の方にだろ。当たってもない奴に謝る暇があるなら、さっさと謝りに来い。そう叫ぶ込波の心の声は昼川には届かない。

「平気、平気。ほら、あたし、運だけは良いからさ」

 そんな藤吉の言葉でまるで一件落着したような空気が一同の間に出来上がった。その様子に込波はうんざりした気分になる。

 藤吉のお得意の口癖。あたし、運だけは良い。付き合ってられない。こっちは実害を被ってるんだぞ。お前の判断で勝手に終わらせるな。何が運が良いだ。お前の運が良い分、割を食って不運を押しつけられてる身にもなってみろ。そんな非難を込めて込波が睨み付けると藤吉は小首を傾げて見せた。

 察する事も出来ない鈍感な奴。他の連中は抗議の視線に気づきもしない。救いようのない馬鹿ばっかりだと込波は思う。腹立ち紛れに昼川の上靴を蹴飛ばそうとするが、蹴り損ねた上靴は飛ぶこともなく近くに転がった。まあ昼川の靴なんてどうでもいい、と込波は席に座り直す。

 ろくな謝罪もないまま授業の時間が迫る。そうこうしていると担任のつつみが教室に入ってきた。込波は謝罪の受け入れに見切りをつけて授業に備える。昼川はその隙にちゃっかりと上靴を回収して自分の席に戻っていった。込波が蹴ったことに気づく様子もなく、悪いという込波への一言は発せられる気配すらなかった。

 チャイムに合わせて堤は授業を始め、込波がまっさらにした黒板を白いチョークで汚していく。

 堤の担当教科は古文。受験科目に指定されていなければ誰も学ぼうとしないかびの生えた教科だと込波は思う。受験に必要だというただそれだけの理由しかこの科目や授業に価値はない。それなのに堤は事あるごとに雑談や豆知識と称して受験に関係のない内容で貴重な授業時間を浪費する。昔々に思いを馳せすぎた結果、時間感覚が狂ったに違いないと込波は堤を内心で下に見ていた。

 現代を生きていく上で全く必要のない言語が黒板を埋めていくのに込波は辟易へきえきとする。最後に残った左端の余白に堤が書き連ねた文字はあろうことか季節はずれの和歌だった。

『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる』

 堤には生徒の服装など眼中にないらしい。教室に居並ぶ生徒は全員が半袖の夏服。エアコンは本当に電源が入っているのか疑わしいほど効果を発揮していない。こんな暑さの中で秋だなんて冗談にも程がある。暑さにやられて堤は頭がいたらしいと込波は呆れた。

 そんな中で堤は昼川を指名した。止せば良いのに、と込波は思う。

 案の定、昼川は自分の頭の悪さをはぐらかすようにして美ノ瀬みのせを生け贄に差し出した。お決まりの流れ。昼川のこの傍若無人な態度に込波は嫌気が差す。

 美ノ瀬も美ノ瀬だ。毎日のようにああまでされて、一言もないなんて腰抜けどころの話じゃない。俺なら恥ずかしくて登校拒否になるところだ、と込波は嘆かわしく思う。

 美ノ瀬の次は藤吉が指名を受けた。

 堤に名前ではなく委員長と呼ばれたのが満更まんざらでもなさそうだと込波は見て取る。藤吉は意気揚々と現代語訳を答えているように見える。

 いい気なもんだ。学級委員に選出された時もそうだったと込波は思い出す。

 藤吉に決まったのは単に面倒そうな役職を嫌って他に誰も立候補者が出なかっただけ。運は関係ない、だというのに何がそんなに嬉しいのか例の口癖をこぼしながらガキみたいに喜ぶ姿はみっともなくて見ていられなかった。全くおめでたい女。堤みたいな間の抜けた教師にはああいうのが好かれるのかもしれない、と込波は思う。

 それでも藤吉には注意が必要だと込波は警戒する。わずらわしい厄介事を持ち込まれた経験から用心をおこたるわけにはいかなかった。

 とんだ貧乏くじを引かされた、と込波は昼休みを苦々しく思い返す。

「あっ、ラッキー。込波くん、いいところにいた。あのさ、悪いんだけど倉庫の前に積んである荷物運んでくれないかな? 文化祭の準備で使うんだ」

 騒がしい昼休みの教室から離れて静かな場所を探していた込波に藤吉はそう告げた。その言葉に込波は憤慨ふんがいした。

 そもそもそれは学級委員の雑務じゃないのか。俺の労力を安く見るな。タダでこき使うつもりか。悪いと思ってるなら人に頼み事なんかするな。そう言い返そうとした込波を置いて藤吉はさっさと行ってしまった。

 逃げ足の速い奴だ。

 不愉快な気分で込波は倉庫へ向かった。藤吉の依頼した荷物には二年四組と書いたテープが貼ってあった。中身は木材と工具箱。込波は仕方ないからとその荷物を教室まで運んだ。

 込波は自身の寛大さに感服した。他の奴ではこうはいかない。特に昼川では、と込波は考えた。倉庫が人の少ない穴場だということを発見して込波の気分は盛り返していた。それでも藤吉に良いように使われたことが込波のプライドを傷を残している。

 やかましい爽町の声が込波を現実に引き戻す。爽町と昼川の小競り合いが始まっていた。またかくだらない、と込波は心中で一蹴いっしゅうする。その二人のいさかいをすかさず堤が止めて雑談を再開した。授業の本筋ではなく雑談に戻るのが堤クオリティ。低品質のお墨付き。込波は物も言えない気持ちになる。

 それにしても堤の語る内容はお粗末だと込波は思う。風には色がないだの、だから、目には見えないだの、当たり前のことをさも世紀の大発見かのように。もう少しマシな話が出来ないものか。相手にしているのは受験をたった一年後に控えた生徒達だという認識が堤にはないように感じられる。嘆かわしいことこの上ない。

 堤の雑談は授業時間の最後まで続いた。

 今日も大して授業は進まなかった。無駄なおしゃべりを聞かされた、と込波は落胆する。そのまま移行したショートホームルームでは普段通りに諸々の連絡事項が堤から伝えられる。その毎日変わらない内容に込波は洗脳でもするつもりなのかと勘ぐりたくなる。すると昼川も込波と同じ意見を堤に主張していた。低能な昼川には珍しいことだと込波は驚く。以前に堤の雑談で聞いた愚者一得ぐしゃいっとくという言葉を思い出して笑いが込み上げそうになった。

 堤が教卓を離れると教室は途端に騒々しくなった。文化祭の何がそんなに嬉しいのだろう。込波にはさっぱり理解できない。

 込波のフラストレーションは文化祭が近づくにつれ高まっていく。出し物は学年別に割り当てられ、二年は例年演劇を強制されている。学生の自主性を学校側が損なわせている構造に疑問を持つ生徒はこのクラスにはいなかった。そのことが込波をさらに苛立たせる。

 また二年四組の演目が『シンデレラ』であることも込波は納得していなかった。その演目は学級委員である藤吉から提案されたものだった。よりにもよって童話を選ぶセンスが藤吉らしい。藤吉の口癖はこの童話由来のものかもしれないと込波は邪推じゃすいする。

 それにしても子供には馬鹿でいて欲しい大人達に喜ばれそうな演目だと思う。他にも幾つかあった候補は込波にしてみればどれも似たり寄ったりの涙腺の緩んだ老人受けを最優先したような教訓話やお涙頂戴の話ばかりだった。そんな風に押しつけられた行事をよく自分達の文化祭だと思って楽しめるものだと込波は身震いすら覚える。

 そんな文化祭に当てられた異常なクラスの空気に閉口している込波にけんのある声が向けられた。

「あんた日直でしょ。黒板早く消して」

 杉江が込波を見下ろしている。爽町の腰巾着が何を偉そうに。こいつに従う義理はないと込波は反発を覚えた。しかし、杉江の背後に控えた他のクラスメイト達の視線を感じて込波はここで争ってもメリットがないと自分を抑える。

「……分かってるよ」

 杉江に言われたからやるんじゃない。最初からそのつもりだったという主張を言葉に込める。さっきの授業前だってきちんと清掃しておいた。誰のおかげで始業のチャイムと同時に授業が受けられたと思ってるんだ、と込波は心の中で毒づく。

 目一杯、手を伸ばして込波は黒板の白いチョークの文字を消す。手の動きに従って黒板には薄いもやが広がっていく。足がりそうになりながらも込波は爪先立ちのまま続けた。右端から始めた清掃が左端にまで行き届く。そこに堤のつまらない雑談のきっかけになった和歌が残されている。

『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる』

 改めてその和歌を眺めて込波は馬鹿馬鹿しく思う。

 平安時代の歌人は気楽なもんだ。季節が変わったと詠んだだけで千年以上も持て囃されるんだから。季節の変化が目に見えないからなんだ。風が目に見えないからなんだ。そんなことよりもっと目をらして見るべきものがあるだろ。どうして誰も気づかないんだよ、と込波は不満を募らせていた。

 苛立ち紛れに無造作に黒板消しを振り切る。すると残されていた和歌が中途半端に消えてみやびとは程遠くなった。驚くという文字の敬の部分が消えて「馬」が残る。「馬か」になった。馬鹿。この教室を表すのに相応ふさわしい言葉だと込波は小さな満足を覚えた。込波は敢えてその文字を消しきることなく席に戻った。

 込波の作った黒板の靄の上に杉江が今日の作業内容を記していく。その傍らに込波だけの暗号がある。それだけでほんの少し、ほんの少しだけ込波は憂さが晴れた気がした。

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