第二章 堤清彦③
ずっと現実感がない。
謝罪。説明。釈明。
それらの繰り返しで
あの刑事のせいだ、と堤は思う。
PTAや教育委員会への説明に追われる合間にも何度も聴取をさせてくれと押しかけてきたあの刑事。
「いじめがあったのは昼川くんと爽町さんの間にではなく、昼川くんと美ノ瀬くんの間だったんじゃないですか?」
「……どういう意味です?」
「いじめを受けていたのは美ノ瀬くんの方だったという話です。爽町さんはいじめを苦にして昼川くんを刺したのではなく、美ノ瀬くんを
「馬鹿馬鹿しい。いい加減にしてください。いじめはありませんでした。昼川は美ノ瀬を、いや、誰もいじめてなんかいません。あれは……不幸な事故です」
週明けの月曜日。教卓から見渡した教室には空席が多かった。
当然だ、と堤は思う。まだ三日しか経っていない。たった三日。むしろ、来ている生徒の方が堤には異常に見えた。欠席した生徒より登校している生徒に不審感を抱く日が来るとは思わなかった、と堤の中に暗い不謹慎な
一瞬、まさかと疑念が過る。あの刑事の言葉が堤の耳に蘇った。
そんなはずはない。いじめはなかった。担任の俺が一番それを知っている。堤はそう自分に言い聞かせる。
同意を求めるように巡らせた視線が多くの空席の中の一つに吸い込まれた。そこに本来いるはずの人物の顔が自然と堤の頭に浮かぶ。三日前から何度となく脳内で像を結んだ昼川の顔。空席という不在の存在感によってその死が強調されていく。その空いた席は二度と埋まることがない席になってしまった。
普段はすぐに忘れてしまうような些細なことまで堤は次々に思い出していた。
授業中にふざける声。生徒指導部からの呼び出しを面倒くさがる態度。気の置けない友人達に見せる幼さの残る表情。もうそのどれも見ることが出来ない。堤の中に悔しさと悲しさが溢れてくる。
卒業後、会うことはなくても何年も覚えている生徒がいる。
堤にとって昼川はそういう生徒ではなかった。昼川はどちらかと言えば。卒業とともにその印象は薄れ、言われればそんなやつもいたなと思い出すような生徒だった。けれど、忘れることの出来ない生徒になった。なってしまった。
昼川は卒業を前に“印象深い過去の生徒”として堤の脳裏に刻まれてしまった。いや、もう卒業すら昼川には叶わないのだとやりきれない思いが堤を
その時、無意識に昼川のことを過去形で思い出していることに堤は気がついた。
現実感がない。上の空だと言い訳をしていたくせに堤はもう昼川の死を過去のものにしてしまっていた。こんなにも俺は薄情だったのか、と堤は自分自身に愕然とした。
出欠を取りながら堤が二年四組の生徒の顔を一人一人確認していくと、みな一様に沈んだ表情に見えた。きっと俺も同じ顔をしている。まるで曇った鏡でも見ているようだ、と堤は思う。
出席率は辛うじて半数を超える程度だった。
「臨時の全校集会があります。みんな、廊下に並んで静かに体育館に向かってください」
そう堤が告げると、約半数の二年四組の生徒達は静かに立ち上がり始めた。
全校集会と職員室に戻ってからの雑務の片付け。その間、堤の頭には昼川と美ノ瀬のことばかりが浮かんでいた。そんな堤の状態が考慮に入れられたのか、急遽、組まれた臨時日程において堤は授業の担当を免除されていた。
書類業務を機械的に処理しながら堤はあの刑事の言葉を思い出していた。
「いじめを受けていたのは美ノ瀬くんの方だったという話です。――」
その言葉がいつまでも堤の頭から離れなかった。それなら、と堤は思う。納得いくまで昼川と美ノ瀬のことを考えよう、と。
いじめはなかった。
そう言葉に出してみても、あからさまな疑いを向けられれば動揺もする。それでもやはり、あの二人の間にいじめがあったなどと堤には思えなかった。あの二人は周囲が思うよりもずっと仲の良い友人同士のはずだった。
二年四組の担任になって数日のある日を堤は思い返す。
あの日も美ノ瀬は購買に急いでいた。昼休みになると、いの一番に教室を飛び出す美ノ瀬の姿は一年時からほぼ持ち上がりの二年四組の生徒達には既に日常の光景となっていたらしい。だが、それは二年から担任を受け持った堤には新鮮な出来事として映った。
「あんなに急いで、どうしたんだあいつ?」
手近に居た猫背の生徒にそう訊くと「パシリですよ」と返事があった。
その言葉は聞き捨てならないものだった。それは既にいじめと呼ばれてもおかしくはないし、これからさらにエスカレートする可能性も高い。教室内での微妙な力関係は教師の側からは見えづらいこともある。そう考えて堤は教室に残る生徒に気づかれないようにそっと美ノ瀬の後を追った。
購買で食糧を買い込んだ美ノ瀬に手招きをする。そして、堤は人通りの少ない廊下の端へ美ノ瀬を連れて行った。誘い出した美ノ瀬が手にしている袋はどう見ても一人分のものではなかった。
「……美ノ瀬、お前、一人でそんなに食うのか?」
堤がその問いに込めた疑いを美ノ瀬は過不足なく理解していた。
「まさか。昼川くんの分も一緒に買ってるんです」
相手は昼川か、とその答えに堤は疑いを濃くした。昼川という生徒は受け持ちになる前から堤も知っていた。一年の頃からサッカー部で活躍している、所謂、学内の有名人の一人。
「あんなに急がなくてもいいだろ?」
「これ人気ですぐ売り切れちゃうんですよ」
袋の中から美ノ瀬は買ったばかりの玉子サンドを取り出してみせる。
「なあ、美ノ瀬。困ってることがあるなら、俺じゃなくてもいい。誰か先生に相談しなさい」
真面目に話す堤にしかし、美ノ瀬はプッと噴き出して笑い始めた。
「今時の先生って過敏なんですね?」
パンを潰さないようにしながらも美ノ瀬は可笑しそうに口元を手で隠して笑う。茶化すような素振りだったが、その表情にいじめ被害者に見られるような卑屈な態度は感じ取れなかった。
それよりも堤を驚かせたのは美ノ瀬の笑顔だった。その表情は教室での印象とは随分と違っていた。教室での印象も決して悪いわけではない。もの静かな態度はむしろ好感を抱く教員の方が多く、他の生徒からも苦情など聞いた覚えはない。けれど、こんな風に笑う生徒だと堤はその時まで思っていなかった。
「
美ノ瀬は去年一年四組を担当した教員の名前を挙げた。奥堀は昨年度末から産休及び育休に入っていて実質上、その代わりが堤だった。奥堀の名前が出たことに目を白黒させた堤に美ノ瀬は種明かしをするように財布を取り出してひらひらと掲げてみせる。
「実はこの財布、
堤にはますますわけが分からなかった。
レンちゃんとは誰のことだ。レン? レンジ。昼川か?
「僕ら家がご近所さんなんですけど、うちがシングルマザーで大変だからって時々カンパしてくれるんです。その代わり僕は蓮ちゃんに勉強教えたり。……あ、これクラスの皆には内緒にしてくださいね? 蓮ちゃん、恥ずかしがるんで」
堤は美ノ瀬の言葉に拍子抜けした。
「だから、先生が心配するようなことはないんです」
そう言い切る美ノ瀬の顔は教室にいる時とはまるで別人に見えた。
「でも、お前、授業中にも昼川に絡まれたりしてるだろ?」
いじめを疑って言い出した手前、堤も簡単には引き下がれなかった。
「あぁ、あれは――」
眉を綺麗な八の字に曲げて美ノ瀬は打ち明ける。
「僕が人前に出たがらないのが不満みたいで、矢面に立つように唆してくるんですよ。キャラじゃないって言ってるのに。確かにあれはありがた迷惑なんですよね」
「そ、そうなのか?」
確かに美ノ瀬は目立ちはしない。けれど、教師の目から見れば非常に成績の優秀な生徒の一人だった。親密な友人のそんな能力を周囲に見せびらかしたいという昼川の欲求も分からないではない、と堤は思う。しかし、それは美ノ瀬の言うように美ノ瀬に合ったやり方とは言えなかった。それでも昼川なりの不器用な優しさを美ノ瀬は嬉しく思っているようで浮かぶ表情はとても柔らかいものだった。
「そうなんです。まぁそこが、蓮ちゃんの良いとこでもあるんですけどね」
どこか自慢気にそう言うと美ノ瀬はこれで話は終わったとばかりに歩き出した。そして、数歩行って振り返る。
「そうだ、先生。『昼川くん』には蓮ちゃんって呼んだのも秘密にしといてください。恥ずかしいらしんで。蓮司って呼ぶのも駄目なんですよ。電子レンジみたいでかっこ悪いからって。笑っちゃうでしょ?」
美ノ瀬の笑顔は屈託がなく朗らかで少なくともいじめられっ子がいじめっ子を
その日の終礼後、教室へと向かう堤に昼川が
美ノ瀬から話が行ったんだな。
そのおどけた様子は健全な思春期の男子にしか見えず、堤のあらぬ疑いが美ノ瀬の言葉通り杞憂に過ぎなかったことを示していた。
それから教室で堤が目にする二人はいつもじゃれ合っているようにしか見えなかった。あの二人はただの仲の良い友人同士でしかない。あの二人の間にいじめなどなかった。堤はそう信じている。
考えれば考えるほど堤の中に不用意な考えを持ったあの刑事への苛立ちが募っていく。
刑事だけではない。マスコミもPTAも教育委員会も、何も知らないくせにどうしていじめがあったなどと決めつけるのか。いじめを通してしか生徒達を理解できないのかと堤は
いじめはなかった。堤は改めて確信を持つ。
爽町にも殺意はなかったはずだ。爽町には昼川を刺す理由がない。美ノ瀬にも庇われる理由がない。なら、答えは一つしかないじゃないか。あれは事件などではなく、不幸な事故だった。疑う余地などもう何一つなかった。
「――先生。堤先生」
傍らの声に堤が顔を上げるとすぐそばで藤吉が堤を覗き込んでいた。その背後に見える職員室の窓にはいつのまにか鮮やかなオレンジの西日が射している。隣の校舎の影がもうすぐこちらに届きそうなほど伸びていた。
「……ああ、どうした
堤がそう返すと藤吉は両手に持っていた黒い表紙の冊子を手渡してくる。
「学級日誌です。今日の分」
受け取った日誌の今日の日付に堤が目を落とすと、見慣れた藤吉の几帳面な字が並んでいた。
「委員長はいつも通りだな。感心、感心」
暗い気分を生徒に見せるまいと堤は半ば茶化すように言った。その言葉に返事がない。怪訝に思って視線を上げると、藤吉は少し眉根を寄せながら真っ直ぐな目で堤を見つめていた。その瞳の奥が揺れている。堤にはそう感じられた。
瞬間、堤は自身の失態を悟った。
ああ
「――わたし、普通に見えますか?」
消え入りそうに尾を引く余韻を残して藤吉は返事も待たずに足早に職員室を出て行った。その小さな背中が閉められた扉に遮られて見えなくなるまで、堤は追いかけることも出来ずただ眺めていた。藤吉が戻ってくることを期待しながら、こんな時でも走らないんだな、と生意気に教師ぶっている自分を堤は無性に殴りたくなった。
いつも通りなわけがない。クラスメイトが亡くなったんだ。どうして俺はあんな傷口に塩を塗り込むような台詞を、と堤は握った拳の側面を自分の額に押しつける。
気丈に振る舞っていただけだ。それを一番分かってやらなければいけないのは俺じゃないのか。何のための担任だ。傷ついているのは俺だけじゃない。
そんな当たり前のことに堤は今更ながら気がついた。自分のことで手一杯になっていた不甲斐なさに堤は穴があったら入りたいような恥ずかしさを覚える。でも、と堤は思う。俺が逃げたら生徒達は誰を頼ったらいいんだ、と。
しっかりしろ。俺はあの子達の先生だろ。
堤は自らを奮い立たせるように深く息を吸い込んだ。
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