第二章 堤清彦②
救急車で搬送され緊急手術室に運び込まれた
「
どうして俺はこんなことを話しているんだろう。
血相を変えて職員室に飛び込んできた
堤は誰かに嘘だと言って欲しかった。驚かせたかっただけ、ほんの悪ふざけだった、と。ついさっきまで軽口を叩いていて元気そのものだった人間が倒れている。そんな状況を堤は上手く受け入れることが出来なかった。
昼川の傍らには爽町が腰を抜かしてペタンとへたりこんでいた。そのすぐ近くには
現実感のない光景に堤もまた生徒達と同じように動揺した。
後から来た教員が生徒達は教室の外に出るように、と指示を出す声を堤は聞いた。それからしばらくして救急隊員が到着するまでの間、堤は昼川の名前をただ呼び続けることしか出来なかった。
赤く光る手術中という文字が告げる現実にまだ堤の意識は追いつけない。そんな堤に構わず警察官は質問をぶつけてくる。少しはそっとしておいてくれないものだろうか、と堤に苛立ちが募っていく。
「昼川くんが刺された時、先生は教室にいなかったんですか?」
「……はい。職員室で小テストの採点と、えぇ、それと来週の授業の準備をしようと」
「では刺された瞬間を見たわけではない?」
「……はい。俺が、いや私が」
「俺で結構ですよ」
「すみません。……その、教室に着いた時には、昼川はもう倒れていて、意識もありませんでした」
「昼川くんを刺した人物は誰だか心当たりはありますか?」
「職員室に呼びに来てくれた生徒から、爽町という生徒が刺したと聞いています」
「爽町というのは?」
「私の担当する二年四組の生徒です。昼川とも同じクラスになります」
「クラスメイトということですね」
「はい」
堤は自分が何を言っているのか分からなくなる。
どうして爽町が、と堤は思う。
爽町と昼川は決して仲の良い生徒とは言えない。けれど、断じてこんな刃傷沙汰に及ぶような関係でもない。
堤はこれまで授業中もそれ以外も何度も二人が言い争うところを見掛けてきた。いや、それは言い争うというよりも単に昼川が爽町に注意を受けているといった方が正しいものだった。しかし、それも生徒間のよくあるやりとりの範疇で微笑ましいと受け取る教員さえいた。堤もその一人で昼川と爽町の関係は深刻に受け止めるものではなかったはずだった。
それがどうして。こんなことになっている。わけが分からない。
混乱していた堤は警察官の質問を聞き逃してしまった。
「――すみません。聞き取れなくて。もう一度言ってもらえますか?」
「昼川くんとその爽町という生徒の間に何かトラブルはありませんでしたか?」
「……いえ、トラブルというほどのことは、なかったと思います」
目の前の警察官は
「いじめの被害に遭っていたなんてことは?」
いじめ。学生の間に起きたトラブルでは真っ先に疑われる原因の一つ。しかし、この警察官はどちらがどちらをいじめていたというんだろう、と堤は考える。
爽町が昼川を。第三者から見ればそう見えることもあったかもしれない。そうだとすれば今回はエスカレートしたいじめによって昼川は刺されたことになる。けれど、と堤は思う。爽町が昼川に対して行っていたのは精々が小言程度のことだった。その程度の事で昼川が動じるとは堤には思えない。
何しろ昼川は教員の言葉すら気にも留めず、女子生徒から嫌われることを怖がるタイプでもなかった。再三に渡る爽町の叱責を鬱陶しく思ったのか言い返している場面を堤は何度も目にしたことがある。むしろ、そんな竹を割ったような性格に好感をもつ女子生徒も多いと堤は聞いていた。
じゃあ、反対に昼川が爽町をいじめていた?
その考えにも堤は納得することができない。
爽町がただやられているだけの生徒ではないことは二年四組では周知となっている事実だった。今日の授業中も真っ先に昼川を叱っていたのは爽町だった、と堤は思い返す。もし、昼川が誰かをいじめる素振りを見せれば間違いなく爽町が反撃していただろう。そんな来ると分かっている反撃にわざわざ労力を割くほど堤の知っている昼川は馬鹿ではない。爽町も決して昼川を嫌っていたわけではない、と堤は思う。爽町はただうるさい男子を叱っていただけ。行き過ぎた行動を起こすとは堤には思えなかった。
だから、堤はこう答える。
「ありません。あいつらに限っていじめなんて」
その返答に納得していないのか、
そこへ手術室の扉が開いて人影が現れた。緑色の手術着を身に
「……残念です」
その言葉の意味するところを理解して、堤の身体からはするするとなけなしの力が抜け出していった。座ることも立っていることも堤にはままならなかった。そんな状態のまま堤は今しがた病院へ駆けつけた昼川の両親が医師から受けている説明をぼんやりとした意識の外で聞くともなしに聞いていた。
「腹部の出血はひどかったですが、内臓の損傷は大したことはなかったんです。それよりも頭部の打撲が問題でした。おそらく出血によるショックで意識を失って倒れた際に、頭部をぶつけたのでしょう。脳挫傷を起こしていました」
あまりのことに昼川の両親は口がきけないでいるようだった。そんな昼川の両親に代わって誰かが医師へ質問しているらしい。堤はそれがさっきの警察官のようだと声で知った。
「直接の死因は刺し傷ではないということですか?」
そんな医師達の会話が堤の頭を右から左へと通り過ぎていく。警察官とのやりとりで追いつき始めていた現実が堤からまた遠ざかっていくようだった。
堤は昼川の両親に合わせる顔もなく、ただ地面をじっと見つめたまま申し訳ありません、と繰り返すことしか出来なかった。
どれだけの間そうしていたのか、病院に連絡があり、堤は一度学校へ戻るようにと指示を受けた。まだ近くに立っていた警察官が堤の顔色を案じてか学校まで送ると言ってきた。その申し出にさっきまでの
いつの間にか外はもう夜になっていた。真っ暗な街は色が抜け落ちて寂しげに堤には見える。その景色に堤はまた現実が遠のいていくような感覚を受けた。
学校に戻った堤を待っていたのは、校内で捜査を続けていた警察官と事情を聞きつけたPTAの役員達、それから教育委員会の顔ぶれだった。昼川の死はその場の全員に既に知らされているようだった。そして、その誰もが興奮した様子で異口同音に発するのは病院での取り調べでも聞いたあの言葉だった。
「いじめはあったのか?」
堤がなかった、と答えると質問者達は一様に不服そうな表情を浮かべた。その態度からはむしろ、いじめがあった方がよかったのかとさえ堤には思えてくる。
一体、何と答えれば納得してくれるのだろう。
堤には彼等の求める答えが分からなかった。
一通りの対応を終え、堤が職員室に戻ると部屋中の電話が蝉の合唱のように鳴っていた。その多くがマスコミの取材や不安に駆られた保護者からのものらしい。しかし、どこから聞きつけたのか無関係な人間が掛けてくる迷惑電話も混じっているようだった。叩けると思ったものに嬉々として群がってくるほど、暇を持て余している人間が世の中にはいるのだとこの時に初めて堤は知った。
「ハイエナみたいな連中だ」
対応した教員が浴びせかけられた
「学校としましては鋭意調査中でございます」
「捜査状況については警察の方にお問い合わせください」
「再発防止に誠心誠意努めてまいります」
「取材に関しては一律お断りさせていただいています」
「申し訳ございません」
「申し訳ございません」
「申し訳ございません」
聞こえてくる声だけで堤はノイローゼになってしまいそうだった。コールセンターで毎日働いている友人を堤は思う。その友人に心の底から尊敬の念が生まれていた。
今日だけで何度謝っただろう、と堤は指折り数える。
昼川の両親。警察。PTA。保護者。校長や教育委員会。
何度となく謝罪を繰り返していると、何に対して謝っているのか堤は分からなくなってきた。
問題を起こしてしまったこと。教師として現場に居合わせなかったこと。事前にそれらしい兆候を見抜けなかったこと。彼らを納得させられないこと。それとも、その全部だろうか、と堤は思う。
一体、俺は何に対して謝ってるんだ?
そんな雑念が堤の頭の中でどんどんと膨らんでゆく。その思考をたちまちに
堤は反射的にその受話器を取った。取ってしまった。
その電話は一切名乗ることなく堤を
好き放題に叩きつけられる悪態やねちねちとした
そして、遂にその時が来た。
「いじめも止められない無能のくせに教師なんてやってんじゃねーよ!」
その言葉を最後に電話は一方的に切られ不通を示す無機質な音が堤の耳に届いた。
無能。無能には違いない。昼川を死なせてしまった。爽町を犯罪者にしてしまった。そんな教師は他にいない。
――俺には教師なんて向いてなかったんだ。
糸が切れたように堤は肩を落とした。
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