第二章 堤清彦①

 暑さ寒さも彼岸までと言うけれど秋分の日に至ってもまだ残暑は弱まっていなかった。

 七限目の教室には汗ばむ陽気が窓の外から容赦なく入り込み、稼働しているはずの冷房は日光の照り返しにあえなく敗北を喫しているようだった。そんな快適とは言えない環境の中でつつみ清彦きよひこは古文の授業の教鞭を執っていた。

 授業を受ける二年四組の生徒達の中には半袖をさらに腕まくりしたり、首に何度もタオルを当てる仕草が頻繁に見られる。堤自身も空調を強めたいと思ってはいたが、残念ながら冷房の操作は一階の職員室でしか行えない決まりだった。

 この授業、いや、その後のショートホームルームが終わるまでは我慢しなきゃな、と堤は黒板に残った余白を調整しながら思う。

 授業の残り時間は十分強。ここまでは終わらせときたい。

 そう考えながら堤は黒板の左端に残ったスペースに和歌を記していく。黒板を叩くチョークの音が静かな教室に響いた。この暑さの中でこの和歌を取り上げるのは皮肉めいているように堤は思う。

『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる』

 そうして和歌を書き終わった堤は教卓へ戻ると黒板の右端に記してある日付に目をめた。

「よし、復習だ。品詞分解やってもらうからな。今日は九月二十三日だから九と二十三を足して、三十二番の昼川ひるかわ

 教卓から見て一番右側にある窓際の列。その列の最後尾から二番目の席に堤は視線を向ける。すると即座に返事があった。

「分かりませーん」

「お前なぁ、少しは考えろよ」

美ノ瀬みのせくんなら分かると思いまーす」

 そう言って昼川は斜め前の席に座る美ノ瀬の机に伸ばした長い足を軽く当てる。そんな二人の様子を見て相変わらず仲の良いことだ、と堤は微笑ましく思った。

「美ノ瀬が分かっててもお前が理解してないと後々困るんだぞ? もう二年の二学期だ。ちゃんと考えてるんだろうな?」

「大丈夫大丈夫。なんとかなるって」

 昼川の軽い調子に堤は力が抜けてしまう。

「じゃあ、悪いけど美ノ瀬。分かるか?」

 堤が脱力しながら指名すると美ノ瀬はぼそぼそとした声で、しかし、きっちりと正答を出した。もう少し自信を持っても良いのになと堤は思うが、すぐに美ノ瀬には美ノ瀬のペースがある、と考えを改める。間違ってもいないのに変に口出しすることもない。そう考えて堤は授業をそのまま続行する。

「よし正解。じゃあ次。現代語訳してみよう。えっと、それじゃあ隣の委員長」

 次に堤が指名したのは学級委員の藤吉ふじよしだった。藤吉は指名に慌てることもなくハキハキとした声で答え始める。

「はい。秋が来たことが目にははっきりと見えないけれど、耳にした風の音から秋の訪れにハッと気づかされることです」

 いつも通りにそつなく答えた藤吉に堤は頷く。

「うん。分かりやすい良い訳だな」

 そう言って堤は藤吉から視線を外す。そして、今度は指名を受けずに安心しきっている他の生徒に向かって問いかけた。

「どうだ? みんなは秋って言ったらまず何をイメージする?」

 教卓からはそれぞれに何かを頭に思い浮かべる幾人かの生徒の顔が見渡せた。そんな素直な態度を見せる生徒に堤は内心で関心・意欲・態度の加点をする。

「食の秋。スポーツの秋。秋には色々あるけど一番は紅葉じゃないか? 黄色や赤に染まった景色は綺麗だよな。でも、この和歌はそういった視覚的なものじゃなくって、聴覚で秋の訪れを感じてるんだ。目にはさやかに見えねどもってことはきっと紅葉は始まってない。木々や葉は緑色で、目に見える変化はまだない。あんな風に」

 そう言って堤は窓の外へ視線を向けた。そこには校庭を囲むように植えられた木々が茂らせる青々とした葉が見える。

 この和歌の情景を思い浮かべるには案外いいタイミングかもしれない。そう考えながら堤が教室に目を戻すと校庭に目を向けている生徒達の横顔が見えた。その生徒達が教卓へ視線を戻すのを待って堤は解説を続ける。

「そんな時にも、もう秋は来てるってこの和歌の作者は言ってるわけだ。風の音や季節の変わり目って素朴な題材にはみんなも親しみが湧かないか? 季節の変化を日常に見出した鋭い視点を持ちつつ、誰もが共感できるっていうのがこの和歌の強みだな」

 受験に必須だからと品詞分解や現代語訳だけやらせていても生徒は退屈かもしれない。そう思って堤はこうして少し横道に逸れた話もする。

「他にも面白いのが俳句の季語にいろなきかぜって言葉があってな。これは秋の風のことを意味してるんだけど――」

 そう続けようとした堤を遮る声があった。

「何が面白いのか分かりませーん」

 声の主は授業に飽きたらしい昼川だった。茶々を入れてきた昼川に堤は雑談もこいつには通用しないか、と小さく肩を落とす。そうして、どうしたものかと堤が手をこまねいていると爽町さわまちが昼川に非難の矛先を向けた。

「清彦先生と私達の邪魔しないで授業中なんだから!」

「邪魔してるわけじゃねーよ」

「じゃあ、なんなの」

 珍しくもない二人のやりとりを二年四組の生徒達は落ち着いて眺めているようだった。そんな生徒達と一緒になって見守っているわけにもいかず、堤は二人に声を掛ける。

「はいはい。昼川も、爽町もそこまで」

 手をパンパンと打って堤はクラス全体の注意を引き戻す。

「爽町、注意してくれてありがとな。昼川も確かに面白いかどうかは人それぞれだよな。先生の言い方が悪かったかもしれない。でも、俺は面白いと思うんだよな。まぁ聞いてくれよ」

 そこで一呼吸置いて、堤は授業を再開した。

「さっきの続きだけど、風ってのはそもそも目に見えないよな? 決まった形も、もちろん色もついてないんだから。だけど、わざわざそれを色なき風って呼ぶのは面白くないか? しかも、その色なき風ってのは秋の風を意味するらしい。春も夏も冬も風は吹くし、どの季節の風も目には見えないのに、どうして秋の風だけが色なき風なんだろうな?」

 投げかけられた疑問に真剣に取り組む生徒。早々に諦めて答えを待つ生徒。バレていないと思っているのか他の教科の課題か何かに取り組んでいる生徒。最初から聞いてもいない生徒。授業どころかうつらうつらと居眠りをする生徒。教卓からの景色は案外面白い、と堤はこんな時に思う。自分が学生の頃はどのタイプだっただろう、とも。

「あんまり引っ張ってもあれだから、答えを言うと中国の五行思想が由来なんだ」

 真面目な生徒達の頭の上に疑問符が表れたようだった。その光景を見て堤は微笑む。

「いきなり五行思想なんて難しそうな事を言われても何の事か分かんないよな。でも、みんなも青春って言葉は知ってるだろ? 青い春ってやつだな。これ実は五行思想から出来た言葉なんだ。それに春だけじゃなくて夏も秋も冬もそれぞれ色がつけられてる。あかい夏。朱夏しゅかくろい冬。玄冬げんとう。じゃあ秋は?」

 教室の中からちらほらと声が上がる。流石は腐っても進学校だ、と堤はその声に頷いて見せる。

「今、誰か言ってくれたな。それ正解。白秋はくしゅうだ。白い秋。北原白秋の名前もここから来てる。この秋に対応する白ってのが、五行思想というか中国ではつまらない色とか不吉な色っていう考えがあるんだ。ちなみに中国の喪服は白いらしいぞ。日本の喪服しか知らないとびっくりするよな」

 少しは生徒達の興味を引けたらしい。教室の様子から堤は手応えを得た。

「ちょっと脱線しちゃったな。まあ、とにかく五行思想の中では秋と白はワンセットなわけだ。ここまで来たらどうして秋の風だけが色なき風なのか分かったんじゃないか? つまらない色、不吉な色と考えられた白。白は秋の色だ。つまり、他の季節と対応する青や朱や玄と違って色がないってことなんだな。だから、秋の風は色なき風なわけだ」

 ここで板書した和歌へと堤は生徒の注意を向けさせる。

「そこで話を最初に戻して美ノ瀬と藤吉に答えてもらった、この『秋来ぬと』の歌を合わせて考えてみよう。他の季節の風も本来は見えないけど、色なき風なら尚更さやかに、はっきりと見えるはずないよな。じゃあ視覚では捉えられないその風をどうやって感じるか。触覚でもいいんだけど、この歌では耳。つまり、聴覚に頼る。だから、音に注目するんだ。どうだ、季節の変わり目を詠んだ素朴な歌が急に五行思想を下敷きにした技巧派な歌に見えてこないか?」

 堤がそこまで言ったところでチャイムが鳴った。

 紀友則きのとものり源雅実みなもとのまさざねは今度だな、と堤は諦めて授業を切り上げる。

「よし。じゃあ今日はここまでにしよう。ちゃんと復習しておくように。ああ、待て。まだ立つな。このままショートホームルームやるぞ」

 堤はそう言って衣替えの時期やあいさつ運動、登下校時の交通ルールなどの連絡事項、それから文化祭準備に際しての注意事項をクラスに伝えていく。

「もう聞き飽きたよ先生」

 昼川からそんな野次が飛んだ。正直なところを言えば堤も毎日同じ話をするのには飽きていた。しかし、これも仕事の内だ、と堤は自分自身と昼川をなだめる。

「もう終わるから、あと少し我慢してくれ」

 そう言って残っている項目を堤は伝えていく。

「――それじゃあ、くれぐれも怪我のないようにな」

 その一言でショートホームルームを終えて堤は教室を出た。すぐにも教室は賑やかになって文化祭準備のための活気が廊下にまで溢れてくる。

「あんた日直でしょ。黒板早く消して」

「……分かってるよ」

 そんな笑ってしまうほど他愛のないありふれた会話が後にした教室から漏れ聞こえてくる。

 なんだかんだ言ってもうちのクラスは仲が良い。そう口元を緩めながら堤は職員室へと向かった。

 その道中で堤が擦れ違った生徒達は誰も彼もが三週間後に控えた祭が待ちきれないような様子をしていた。文化祭を前にして校舎全体が浮き足立っているようだった。そんな学校の中に暗い顔をした生徒は一人もいないように堤には思えた。

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