間章 芝亀望②

 自転車を漕ぐ芝亀しばがめの額にはうっすらと汗が滲んでいる。

 取るものも取りあえず編集部を出た時にはまだ山の稜線りょうせんの上にあった太陽も今は既に沈んでいた。しかし、舗装道路に残った熱気が芝亀の体力を奪っていく。道々みちみちに設置してある気温計の中には三十度近くを示しているものさえあった。その表示された温度を見る度に冷房の効いた室内でシーフード味の即席麺を食べているであろう編集長の顔が浮かんで芝亀は忌々いまいましさを募らせていく。

 横暴だ。パワハラだ。いつか訴えてやる。

 そんな苦情を胸に抱きつつも芝亀はペダルを漕ぐ足に力を入れる。赤信号に捕まる度に地図を確認して目的地への道程みちのりに間違いがないかを確認しながら進んでいく。そうして、芝亀がようやく律調りっちょう高校へ辿りついたのは午後六時を少しまわった頃だった。

 道を挟んだ右手に高校の敷地を囲うようにフェンスが巡らされている。自転車を停めて芝亀はカメラを取り出すと律調高校の外観を枠に収めてシャッターを二、三回切る。それからもう一度、自転車にまたがると後続車と対向車のないことを確かめて道を渡った。

 芝亀が渡った道の先にどうやら律調高校の校門があるらしく、そこには既に人垣が出来ている。それはいち早く事件を聞きつけたマスコミ関係者のようだった。その人混みが校門の内側から現れた一台の乗用車によってけられていく。その車が自分のいる方向へと曲がってきたのを見て芝亀は自転車のハンドルを少し傾けた。

 校門から現れた乗用車は道の端まで芝亀が避けるのを待っていたかのように中央線のない細い道をゆっくりと加速してくる。芝亀は左手で道路標識の白い支柱を掴み、右手では自転車のブレーキを握りながら、その車が通り過ぎるのを見送った。

 やけに綺麗な姿勢でその車を運転していたのはどうやら女性のようだった。助手席には壮年の男性。窓にスモークが貼られていたため、芝亀に後部座席を窺うことは出来なかった。

 今の車に乗ってた人、学校の先生って感じじゃなかったな。

 そんな直感が働くが芝亀は自身の人を見る目を大して信用してはいなかった。そのため、その直感は芝亀の中で単なる感想に留まった。

 車をやり過ごしてから、芝亀は自転車を降りて校門へと近づいていく。その道すがらに立つ人影に見覚えがあった。それは編集長と見ていた地元の情報番組で目にしたことのあるレポーターだった。そのレポーターに大きなカメラが向けられている。カメラの画角に入らないように芝亀は足を止めてその一団から少し距離を取った。見る間に合図が掛かり、レポーターが真剣な面持ちで口を開く。

「えー、こちら、本日夕方五時頃、事件のあった律調高校前に来ております。事件内容は生徒同士の刺傷事件ということですが、被害者の数や安否、事件の原因など詳しい事情はまだ伝わってきておりません。

 えー、ただ、わたくしどもがですね、こちらへ到着する前にですね、救急車が一台来ていたとの情報がありまして、そちらに乗っていたのが被害を受けた生徒さんだと思われます。 また、学校側からの発表もまだ出ておりませんが、保護者の方々が早くも詰めかけていらっしゃいまして、この後、臨時の説明会が開かれ、そこで学校側の見解が発表される模様です。そちらの終了を待ちまして保護者の方からもお話を聞かせていただければと思っております。

 えー、ここ、律調高校で何があったのでしょうか。続報が待たれます。――現場からは以上です」

 芝亀はそのレポーターの言葉を耳聡く聞いていた。

 編集部で見た速報と違う言い回しをしていたのは事件の内容。暴行事件ではなく刺傷事件とレポーターは口にしていた。

 暴行から傷害へと一段階、事件の深刻度合いが増している。

 その暴行の内容はどうやら何かで刺されたことによるものらしい、と芝亀は頭の中にその情報をく。

 それから、救急車の存在が芝亀の耳に残っていた。何かで刺されたらしい被害者の数は分からないが一台の救急車に収まる程度の人数だと思われる。加えて、重要なのは被害者は救急車での搬送を必要とするほどの傷を負っているらしいということだった。

 何があったのでしょうか、というレポーターの言葉を芝亀は頭の中で復唱する。

 生徒同士の大きなトラブルっていうなら、最初に浮かぶのはいじめかな。次は喧嘩とか、色恋沙汰なんてのも、あるかもしれない。

 そうして情報を整理しながらも芝亀は嘆息する。

 現場中継もうやってるなら、私って無駄足じゃない?

 芝亀が肩を落としている間にも続々と律調高校へ向かう人々がやってくる。芝亀の見る限りでは保護者が八、報道陣が二の割合だった。報道を専門とするであろうマスコミ関係者が多く駆けつけてきているのを見て芝亀は自分がここにいる意味がどんどん薄弱になっていくように感じる。

 せめて、校門ぐらいは見て帰るか。

 そう思い立って芝亀は自転車を道端に駐めた。混雑している校門前に自転車を伴って突っ込んでいく勇気は芝亀にはなかった。そうして芝亀が校門の正面まで歩いていくと敷地内から叫び声が聞こえてきた。

「担任を出せ! どういう教育してんだ!」

「うちの子は大丈夫なんですか!?」

「原因はいじめなんでしょうか?」

「怪我をさせた子には、どう責任取らせるつもりですか!」

 保護者達の怒りと心配の声が校門の外まで漏れ出てきていた。それに対して学校関係者と見られる声が必死な様子で「落ち着いてください」と繰り返している声も聞こえてくる。そういった周辺情報も余さず記事にするつもりなのか、校門前に集まった記者やカメラマン達は休みなく手を動かしていた。密度の違う重苦しい空気がそこには漂っているようだった。

 しかし、そんな時でも腹は減る。芝亀の腹の虫は時と場所をわきまえずに大きな音を鳴らした。すぐさま芝亀は方向転換する。そして、道中にあったコンビニを目指して周囲からの視線を背中に感じながら脇目も振らず来た道を引き返し、自転車を拾った。

 説明会は時間が掛かるだろうし、腹が減ってはなんとやら、というかそもそも私は場違いだし、物見遊山な気分で来るんじゃなかった。――ああもう、どれもこれも編集長が悪い。

 折角せっかく引いた汗がぶり返すほど芝亀は赤面していた。

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