第一章 建岸遥香③
飾り気のない取調室に佇む被疑者、
薄いグレーのスウェットが爽町にはどうにも不釣り合いなように見える。しかし、昨日の事件直後に見た様子よりは随分マシだ、と建岸は思った。あの時、爽町はまだ暑さの残る九月だというのに全身を震わせていて目の焦点も定かではなく、とても意思疎通の図れる相手ではなかった。
「今日はよろしく。あなたの事情聴取を担当します
爽町雛子は小刻みに頭を二回揺らした。承諾と受け取って建岸は取り調べを始める。
「それじゃあ、まずあなたの名前を確認させて。もう知ってるんだけど一応ね」
「……爽町雛子です」
その声はか細かったが聞き取れないほどではなかった。
「ありがとう。これからいくつか質問をします。辛い質問もあるかもしれない。体調が悪くなったらすぐに言ってね」
「……はい」
爽町はまだ目を合わせることは出来ないようだった。しかし、ひとまずは素直な態度だ、と建岸は胸を撫で下ろす。このまま順調に終わればいいのだが、と。
「あなたは昨日、九月二十三日金曜日の午後四時四十分頃に、
他の生徒達の証言から受けた爽町の印象は外堀を埋めてゆく遠回しな質問を好むタイプではなさそうだった。そこで建岸は敢えて直球から始めてみた。すると彼女の口元からカタタっと音がした。
刺した光景を思い出して動揺したのか歯が震えているようだった。しかし、爽町はそれをなんとか抑えるようにして重く頷いた。
「どうしてそんなことをしたのかな?」
爽町は答えない。
爽町の視線は机の下で握っているのだろう手に注がれているようだった。昨日の事件直後に見たきつく組んだ指先が建岸の脳裏に浮かぶ。
答えないのではなく答えられないのだろう、と建岸は思った。爽町の様子は自分でもまだ何をしてしまったのか整理がついていないように建岸には見えた。
「質問を変えるね。あなたは被害者の昼川くんと何かトラブルを抱えていたのかな?」
この質問にはすぐに反応があった。細い首が横に振られ、普段は
この反応はどちらだろう。廊下で聞いたあの呟きを念頭に置いて建岸は尋ねる。
「いじめに遭っていたとか」
「……ありません」
「本当に?」
「本当です。私はいじめに遭ってません」
その言葉には力こそなかったが嘘偽りではなく単に事実を述べたのだという印象があった。その言葉尻を捉えて建岸は質問を重ねる。
「私は? あなたの他にはいじめを受けていた子がいるの?」
すると爽町は小さく、こくんと首を縦に振って答えた。
「
美ノ瀬。すぐに建岸は思い当たる。きっと
廊下でのあの呟きは美ノ瀬に同情していた生徒のものだったのかもしれない。
そんな考えが建岸に浮かんだ。その時、ようやく爽町の顔が上がり建岸と目線が合った。資料で見た快活そうな少女の姿はそこにはなかった。表情には影が差し陰鬱な空気が全身に漂っている。
たった一日でこれほど人の顔は変わってしまうのか。内心の感情の僅かな揺れを隠して建岸は続けて、と促した。爽町は乾いた唇を内側に折り込むようにして湿らせると話の続きを始めた。
「昼川くんはその、美ノ瀬くんにパンを買いに行かせたり、宿題とかノートとか代わりに書かせたり、授業中に自分が当てられた問題を無理矢理、美ノ瀬くんに答えさせたりしてて」
それは捜査通りの内容だった。典型的だという印象が建岸の中で深まっていく。昼川の行っていたいじめはステレオタイプなものだったらしい。それを受けて建岸はさらに尋ねる。
「それをあなたはどう思ってたの?」
「……可哀想だなって。だから、いつもやめなよって注意したりしてて」
「注意をしていたのはあなただけ?」
「え? あ、えと、はい。
捜査資料から清彦先生とは担任の
全て資料にある通りだった。
続けて、藤吉と呼んだのは二年四組の学級委員を務める
いじめは既に常態化していたのだという結論を建岸は得た。
「つまり、いじめは黙認されていたのね?」
「はい」
「その中でどうしてあなたは声を上げたの?」
それは捜査というよりも建岸の純粋な興味から出た質問だった。
「……放っておけなかったから」
爽町が歯を食いしばるのが建岸には分かった。綺麗な形をした眉が徐々に逆立ってゆく。
「それでも、昼川くんは全然やめなくて。それで」
「それで?」
「怖がらせたら少しは収まるんじゃないかって、そう思って。その……」
途端に語気が弱まり、
「その、だから、ちょっとビビらせてやろうって。それで、また美ノ瀬くんが絡まれてたから、やめなよって間に入って。でも昼川くん『何言ってんの?』とか言って。こっちに近づいてきて。それでなんか、それ寄越せよって取り合いになって。……気づいたら昼川くんのお腹に刺さっちゃってて。それで……」
最後の方は声が滲んでいたがそれは充分な証言だった。
建岸の目に爽町は演技をしているようにはとても見えなかった。昨日、事件直後の爽町から受けた印象とも食い違う所がない。
この事件は殺意を持って行われたものではなかった。その確信を建岸は強めた。しかし、口では頭で考えたものとは違うことを爽町に尋ねる。
「――本当は昼川くんを殺そうと思ってたんじゃない?」
上擦りそうになる声をなんとか抑えて建岸はそう訊いた。
仕事と割り切っていてもこういった質問は建岸にも辛いものだった。それでも真相を確かめるためには訊かないわけにはいかない質問でもある。
「そんな! そんなわけないです! ただ怖がらせようって、それだけで……」
そんなことを考えたこともないというように爽町は慌てていた。その様子に建岸は安心を覚えた。
「ごめんなさい。意地悪な訊き方をしたね。でも、もう一度訊くね。昼川くんを刺すつもりはなかったのね?」
建岸は爽町の目をまっすぐ見てそう訊いた。その問いへの答えは短いものだった。
「はい」
「彼に殺意を抱いたことは?」
「ありません」
「でも、いじめを続ける昼川くんにムカついてたりしたんじゃない?」
「……美ノ瀬くんを可哀想には思ってたけど、昼川くんのことはなんとも」
爽町は勇気ある仲裁者、決して殺人者などではない、と建岸は考えていた。
今回の事件は爽町がその苛烈な正義感によって昼川蓮司と図らずも自らの身を焼いてしまったというもの。それがこの事件の顛末だと建岸は思った。
建岸は爽町を責める気にはなれなかった。
昼川蓮司の死は結果。その結果は爽町の行動が引き起こしたもの。爽町はその結果に伴う責任を甘んじて受けなければいけない。しかし、不当な辱めや罰を受ける謂れはない。誤った行動だったとしても、彼女が立ち上がった理由には間違いなどなかった、と建岸は信じた。そう考えた上で、建岸はもう一度念を押す。
「本当に?」
すると爽町は首をしっかりと縦に揺らした。
建岸は目の前に座る少女を、この爽町雛子という存在ををなんとしてでも守りたいと思った。
「そう。ありがとう。他にも訊きたいことがあるの。凶器に使われたのは――」
そうして爽町雛子の取り調べはつつがなく終了した。
いじめはなかった、という担任教師の主張を除いては。
あの教師の言葉より、爽町雛子の言葉をこそ信じたい、と建岸は思う。
爽町は普段からいじめを受けていた生徒を守ろうとして誤って昼川蓮司を刺傷してしまった。爽町に殺意はなかった。これはなんともやりきれない不幸な事故だったのだと建岸は考える。
爽町雛子は無罪とはいかないだろう。けれど、彼女を責める気にはなれない。
建岸には爽町はいじめを止めようとした勇気ある人間としか思えなかった。
本来なら責められるべきは昼川蓮司やいじめを見て見ぬ振りしてきた人間のはずだった。
「いじめはありませんでした」
そう語ったらしい担任教師の言葉を思い出して建岸は怒りさえ覚えていた。
昼川が死ななければ爽町雛子が罪を負うこともなく、むしろ賞賛されたはずだった。しかし、運命は爽町に罪を科した。それを不運と切り捨てることは出来ない。この件に関わった者としてそんなことをしてはならない、と建岸は思う。
もしかしたら肩入れしすぎているかもしれない。これが昌岡の言う気張ってるということなのかもしれない。そんな考えが建岸に過った。それでも彼女の更生を手助けするのも警察官としての立派な職務の一つだ、と建岸は思い直す。爽町にとってもイカつくて顔の怖いおじさん達よりは私の方が気安いはず、と。
建岸は自販機で買った缶コーヒーを飲み干して背筋をピンと伸ばした。そして、もう一人の守らなければならない存在、美ノ瀬麦の資料に目を通し始めた。
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