第一章 建岸遥香②

 デスクの上には捜査資料と地方紙、それから溜息が積み重なっていた。

 一番上に積まれた資料には担架で運ばれていった男子生徒の氏名が記されている。彼の名前は昼川ひるかわ蓮司れんじ。昨日、担架で運ばれていった彼はそのまま帰ってくることはなかった。教室にも、学校にも、どこにも。建岸たてぎしにはどうすることも出来なかった。

 十七歳。その年齢を思って建岸はまた溜息を吐く。

 自分では若いと思っていても、いや思っているからこそ実際に自分より年下の人間の死を目の当たりにすると、同情なのか哀れみなのか、そのどれとも違う言い様のない感情に建岸は胸を締めつけられる。

 先輩や上司達は口を揃えたように慣れだと言うが、本当に慣れる日など来るのだろうか、といつも建岸は考えてしまう。デスクに広げた地方紙の記事に載った彼の名前だけで気持ちがささくれるのを建岸は感じた。

〈九月二十三日金曜日。D県U市の律調りっちょう高校に通う昼川蓮司くん(一七)が同高校に通う同級生に腹部を刺され死亡する事件が発生。学校の発表によると同校は事件当日、近日に予定されていた文化祭準備を進めており担当の教員は現場には居合わせなかった模様。被害者と加害者との間にいじめやトラブルがあったかどうかについては引き続き警察も含めて捜査にあたるとのこと。〉

 最低限の情報だけの記事は間違ってはいないけれど正確でもなかった。しかし、なまじ淡々とつづられた書きぶりにかえって刺激され、捜査資料を眺める建岸の目には感情が乗る。どうしてこんなことになってしまったのか、と。

 いけない。これでは刑事失格だ。余計な感情は律する必要がある。捜査には公正な態度で臨まなくてはいけない、と両手で頬を軽く叩いて建岸は気合いを入れた。

「建岸、あんまり気張りすぎるなよ」

 背後からの声は穏やかで顔を見なくても建岸には誰だか分かる。

 恥ずかしいところを見られた。

 気恥ずかしさから建岸に照れ笑いが浮かぶ。気後れしつつ振り返るとくたびれたスーツをゆるく羽織った昌岡まさおかがコーヒーを差し出していた。煙草の匂いが染みついた皺の寄っているシャツが昌岡には妙に似合う、と建岸は思う。

「着任早々、しんどいヤマに当たっちまったなぁ」

 少年犯罪は難しい。昌岡の言葉に同意を示すように建岸は頷く。

 被害者、加害者だけでなくその周囲も多くが多感で繊細な子ども達。加害者の更生、被害者やその周囲へのケア、と普段以上にデリケートにならざるを得ない要件が重なっている。まして、それが思春期の学生が通う学校内で起こった事件であれば尚更のことだった。

「はい。難しいケースなのは承知してます。でも新米だからって簡単な事件ばっかり回してもらうわけにはいかないですよね」

 コーヒーを受け取りながらそう返すと昌岡は上出来だとでも言うように笑った。この愛嬌のある笑顔にどれだけの被疑者が落とされてきたのだろう。昌岡の笑顔を見る度に建岸の頭にはそんな考えが浮かぶ。

「人手も足りないからな。早いとこ一人前になってくれ」

「頑張ります」

「それじゃあ早速。被疑者の聴取頼めるか?」

「へっ?」

 昌岡の言葉に思わず建岸は素っ頓狂な声を上げた。昌岡は暑内でも有数の尋問・聴取の名人。その昌岡を差し置いてどうして私がと建岸は驚く。

「なんだその反応は? 嫌なのか」

「嫌だなんてそんな。でも聴取は係長が担当されるんじゃないんですか?」

「その呼び方はやめてくれと言ったろ」

 警部補や係長といった階級や職位で呼ばれることを昌岡は好まない。配属初日の口頭一番に昌岡から注意されたことだが、分かっていても警察官として染みついた習慣はなかなか矯正が難しい。

「……はい、昌岡さん。でも」

「同席はするが、今回の担当官はお前にやってもらうつもりだ」

「……それはどうして?」

「言われないと分からないか?」

 分かる。分かっているつもりだ。でも、と建岸は躊躇ためらう。

「それとも何か不安でもあるのか?」

 昌岡は心の内を見透かしたように言葉を掛ける。敵わないな、と建岸は心の中で白旗を上げた。

「建岸。警察官ってのは不安を見せちゃいけない職業だ。被疑者や容疑者はもちろん。被害者にも市民の皆さんにもな。でも見てみろ、ここには刑事しかいない。欠伸も出来ないって所じゃないだろ? 困ってることがあるならなんでも言ってみろ」

 昌岡はそう言うと椅子を引っ張ってきて建岸の隣に腰を下ろした。こうまでされると話さないわけにはいかない。建岸は昌岡から受け取ったコーヒーを口に含んで唇を湿らせてからゆっくりと口を開いた。

「不安。そうですね。不安があります」

 昨日のあの瞬間。あの女子生徒の指先を見た瞬間から芽生えた不安が建岸にはあった。

「昨日、私達が臨場した時に昼川蓮司が担架で運ばれていきましたよね」

「ああ」

「その時に私はこう思ったんです。体格がいいな。肌も焼けてる。きっと運動部の生徒だって」

「立派な観察眼じゃないか。確かサッカー部のエースって話だろう」

「はい。それ自体は間違っていませんでした」

 建岸はもう一口、コーヒーを喉に流し込む。黒い液体が身体の中で不安と混ざっていくように建岸は感じた。

「受けた無線では刺したのも生徒だって話でした。教員や入り込んだ不審者ではなく生徒の一人だと」

「そうだったな」

「だから私はこうも思ったんです。運ばれていく彼を刺したのは――きっと同じくらい体格のいい男子生徒だって。そうでなくても刺したのは十中八九、男子生徒だろうって。私はそう思ったんです。とてもじゃないけど彼を女子生徒が襲うなんて無理だと、その可能性を無意識の内に考えから捨ててしまっていたんです」

「……そういうことか」

「はい」

 昼川蓮司を刺したのは男子生徒ではなかった。昼川を刺したのは教室で震えていたあの女子生徒だった。建岸は思い込みで勝手な犯人像を作り上げていた。それは恐ろしいことだ、と建岸は思う。

「建岸、お前の不安はよく分かる。俺達の思い込みは人の人生を左右するからな。最悪の場合は冤罪ってことにもなる」

 昌岡の声には実感という重みが込められていた。その声音こわねには誤魔化ごまかしたり有耶無耶うやむやにするような気配はない。昌岡は真摯しんしに向き合ってくれていると建岸は感じる。

「でもな。その思い込みが難航する捜査を打開するきっかけになることもある。いわゆる刑事の勘ってやつだな」

「でもそれは」

「もちろんそれだけを盲信するのは駄目だ。そんなのは刑事でもなんでもないただの馬鹿だ。けど俺達は馬鹿じゃないし、馬鹿であっちゃならない。刑事の勘を正しい捜査と正しい証拠でもって立証する。それが俺達の仕事だ。分かるな?」

「……でも」

「それでも自分の思い込みで間違った捜査をやらかしちまうって不安も分かる。そんな時はな、周りを見てみろ。建岸。刑事ってのは何もお前一人ってわけじゃないだろ? お前が思い込みで間違った方に進もうとしてたら誰かが止めてくれるさ。そっちじゃねえぞってな。だから安心しろ」

 誰か。決して自分が止めるとは言わないのが昌岡さんらしい、と建岸は思う。きっと真っ先に止めに来てくれるのは昌岡さんなのに、と。

「それにな。自分の思い込みが怖いって思えるのは良い刑事、良い捜査の第一歩だ。自信持っていいぞ」

 そう言うとアドバイスはここまでというように昌岡は立ち上がった。

「ありがとうございます」

 昌岡の背中に投げた言葉はひらひらと振られる手に受け流された。

 あそこまで言ってもらって下手な聴取は出来ない、と建岸はデスクに置いた資料に目を戻す。といっても調べることはそう多くはなかった。

 被害者は残念ながら亡くなった昼川蓮司だと確認が取れているし、彼の両親や担任教師に面通しも済んでいる。そして、加害者、あの震えていた女子生徒もまた既に逮捕されており勾留請求も済んでいる。

 事件直後に他の捜査員が聴取した現場に居合わせた二年四組の生徒達の証言にも矛盾はない。残された謎などという大それたものはなく、そういった意味ではこの事件は捜査という面からすればもう終わっているとさえ言えた。

 けれど、やることはある、と建岸は気を引き締める。

 事件から一夜明けて、心神耗弱しんしんこうじゃくに陥っていたあの女子生徒が話を出来る状態にまで快復したとの連絡が入った。

 建岸はまだ残る不安をどうにか押し留めて立ち上がる。

 知らなければならない、と建岸は思う。

 どうしてあの女子生徒は昼川蓮司を刺したのか。昼川は、あの女子生徒はどんな人間なのか。どうしてあんなことが起こってしまったのか。それに廊下で聞いたあの呟きの意味。これはどんな事件なのか。それを明らかにするのが私の、刑事の仕事だ。

 建岸は背筋を伸ばして取調室へと向かった。

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