第一章 建岸遥香①

 通報を受けて建岸たてぎし遥香はるか律調りっちょう高校に到着した。

 乗り付けた車の運転席から降りると夏の匂いを残した風が建岸を追い越していく。風の行く先には西日を受けて濃い影を落とす校舎が佇んでいた。その校舎の傍には建岸と同様に駆けつけた何台もの警察車両と目に痛いほどの警光灯を点けた救急車が並んでいる。

 学校という場に似合わない緊急車両の群れ。もう見慣れたはずの光景に建岸はどういうわけか居心地の悪さを感じた。

 九月も下旬だというのに一向にかげりを見せない残暑がアスファルトにまだ熱を残している。生温なまぬるい風が建岸の首筋にシャツを張り付かせた。気象予報で見た不快指数の高さを思い出し、建岸は手早くハンカチで汗を拭う。

「建岸、行くぞ」

 その呼びかけに建岸は「はい」と短く応える。直属の上司であり指導員でもある昌岡まさおかの指示に逆らう理由も意味も建岸にはない。建岸は素早くフロントドアを閉めると校舎へ向かう昌岡の後に続いた。

 来客用窓口で建岸は警察手帳を係の者に提示する。刑事課捜査一係巡査長。その肩書きに大した驚きも見せず係員は構内案内図を手で示した。その係員の様子から建岸は先に臨場した捜査員から話が通っているらしいことを知った。

 受付横の構内案内図に建岸はさっと目を通す。律調高校はローマ数字のⅡを横に平たく伸ばした形をしているようだった。その図から現在地と目当ての教室を建岸は確認する。

 建岸達はその図形で言えば右下の出っ張りにあたる位置にいるらしい。建岸は現在地から目的の教室までの最短距離を頭に思い浮かべる。ルート確認を済ませた建岸の視線が構内図から横に滑った。そこには学内掲示板が設置されていた。交通安全を促す標語や身だしなみの注意事項、その他には学校新聞などが張り出されている。そんなありきたりな掲示物の中の一つに建岸の視線が吸い込まれた。

 一際ひときわ目立つ文化祭の開催を知らせるポスター。場違いなほどカラフルに刷られたポスターからは生徒達の力の入れようが伝わってくる。実際、楽しみにしている生徒も多いのだろうと自身の学生時代を思い返していた建岸を昌岡が呼んだ。見ると昌岡は既に受付を過ぎ、校舎の中へと足を踏み入れていた。その背中を慌てて建岸も追いかける。

 真っ直ぐに延びた廊下にはきたる文化祭に向けて思い思いの作業に打ち込む生徒達の姿があった。放課後にも関わらず、そこに疲れは見えない。汗を弾くような爽やかな夏服姿には若さゆえの活力が感じられる。そのひたむきさを発揮する場が失われてしまう可能性を思って建岸はやるせなさを覚えた。

「建岸。しゃんとしろ」

 建岸の機微に目敏く気づいたように昌岡が言う。

「生徒さんを不安がらせるぞ」

「すみません」

 建岸はピンと姿勢を正すように背筋せすじに力を入れた。すると、生徒達の頭越しに廊下の突き当たりから次々と出てくる教員達が視界に入る。廊下の反対側にはどうやら職員室があるらしいと建岸は頭の校内図に書き加えた。

「教室に戻って」

 隠しきれない緊張が教員の声に表れていた。その強張こわばりが徐々に生徒の間にも広がっていくようだった。その様子を横目に見ながら確認した教室へと建岸達は渡り廊下を進む。廊下の中程を過ぎた辺りで校内放送のアナウンスが入った。

〈校内に残っている生徒は至急、所属するクラスの教室に戻りなさい。教室に戻り次第、担当教員から説明があります。繰り返します。校内に残っている生徒は――〉

 廊下や中庭にいた生徒達はその放送を聞き怪訝けげんな顔を浮かべていた。そして、そのいぶかるような視線を廊下を渡る建岸や昌岡に向けてくる者もいる。しかし、視線は送っても声を掛けてくることまではしてこなかった。そんな生徒達の間を縫って建岸は三階の教室へ向かう。

 二年四組の教室へと。

 建岸達が階段に差し掛かったところで上階から担架に乗せられた生徒と救急隊員が下りてきた。それに少し遅れて教員らしい男性がその後を追う。建岸は彼らに道を譲りながら擦れ違いざまにその様子を観察する。

 確認できたのは担架に乗せられていたのが男子生徒だということ。肌がこんがりと焼けていて上背がある。おそらく運動部の生徒だろう、と建岸は見当をつけた。 

 そして、もう一つ。探すまでもなく男子生徒の腹部にそれはあった。白い半袖のシャツに落ちた真っ赤な染み。

 数分前に受けた無線の内容からそれは予想できたものだった。

〈律調高校で生徒同士の暴行、傷害事案が発生したとの通報。また、少なくとも生徒一人が刃物によって傷を負った模様。至急、現場に向かわれたし〉

 そこから先で目にする生徒達は目を丸くして何事かを囁きあったり顔を青くしている様子が多く見受けられた。

 運ばれていく男子生徒を直に見たのだろう。無理もないことだと建岸は思う。

 ようやく辿りついた二年四組の教室は喧噪の中にあった。

 いち早く臨場していた警察官や教員達は落ち着かない生徒達を必死になだめながら廊下に並ぶよう指示を出している。生徒を移動させるのは現場保全と生徒達の精神的なケアのため。そうでなくても傷害事件の起きた現場に耐性のない十代の生徒を残すのは酷に過ぎる。

 生徒の引率か現場の保全。後発組の建岸はどちらに加わるべきだろうか悩んでいると昌岡から肩を軽く叩かれた。

「建岸。お前はあの子を頼む」

 昌岡が示したのは教室の中で動けなくなっている女子生徒だった。

 女子生徒の前の床には運ばれた男子生徒のものであろう血液が点々と赤く滲んでいる。それを見て彼女はパニックを起こして動けなくなってしまったらしかった。

 素早い周囲の状況把握と適切な人員配置は昌岡の経験の成せる業。新米の建岸には及びもつかない。しかし、指示からの逆算は建岸にも出来る。

 この場にいる女性警察官は建岸一人。動けなくなっている生徒はもう一人いるが、そちらは男子生徒。そして、男女問わず異性の警察官が対応した場合に後から問題視されることは多い。そこで昌岡は建岸に女子生徒への対応を指示したというわけだった。当然、昌岡が残った男子生徒の担当となる。指示内容の根拠に納得したところで建岸は教室の中へ足を向けた。

 二年四組も文化祭に向けた準備を進めていたらしいと建岸は思う。机や椅子は心持ち前方に寄せられ、その上には衣装や小道具などが無造作に置かれていた。どうやら演劇を予定しているらしいこのクラスの黒板には作業内容や所要時間、稽古場所などが丸く可愛らしい文字で綴られていた。

 建岸が対応する女子生徒はそんな教室の後方、備え付けられたスチール製のロッカーの近くで身を固くしている。女子生徒近くのロッカーは腰上ほどの高さがあり、そこには工具箱と幾つかの木材が重ねられていた。文化祭の演目には大道具も使われるらしく、ロッカーは格好の物置として重宝されているようだった。

 建岸は現場を荒らさないよう慎重に女子生徒の傍に駆け寄ると、膝をついて視線を合わせるように顔を近づけた。

 綺麗な子だ、と建岸は思った。こんな現場には似合わない子だ、と。すぐさま傷害の現場に似合う子がいてたまるか、と馬鹿な考えを頭から追い出す。

 自分を落ち着かせてから建岸は女子生徒にゆっくりと声を掛ける。汗の滲むような暑さの中でその女子生徒は半袖から伸びる細い腕を震わせていた。

「もう大丈夫ですよ。警察です。立てますか?」

 女子生徒は建岸の声が聞こえていないのか返事をしない。

 もう一度、声を掛けようとして、何かに祈るようにしてきつく組まれた女子生徒の指先を建岸は見た。

 青白いほど透き通る肌に赤い血がこびりついている。

 まさか、と建岸は女子生徒の顔にさっと視線を戻す。

 女子生徒は身体を小刻みに震わせながら建岸とは一向に視線を合わせようとしない。その合わない視線が何かを見つめているように建岸は感じた。女子生徒の視線を追うように建岸が振り返ると運ばれた男子生徒のものであろう血が床に垂れている。その傍で鑑識が錆び付いた刃先に血の滴るきり状の刃物を回収していた。

 血のついた指先。凶器。まさか。この子が?

 思わず説明を求めて辺りを見回すが、頼みの綱の昌岡は男子生徒を連れて教室を出るところだった。それを見て建岸は頭に浮かんだ疑念を後回しにする。

 今はいい。まずはこの子を現場から遠ざけるのが先決。パニックを起こしているのに変わりはない。そう決めて、建岸は肩を貸すようにして半ば無理矢理に女子生徒を立ち上がらせる。そうして上がった建岸の視界に妙なものが入った。

 黒板の左隅に授業の板書の消し残しのような文字が残っている。

 馬かれぬ。 

 作業行程の文字に隠れるように残されていたのはそんな文字だった。薄く消えかかってはっきりとは見えない文字に建岸は目をらす。

 言葉使いからして古文か何かだろうか。高校卒業以来ノータッチの分野だ。

 建岸の頭に思い浮かぶものはなかった。そうして思考が明後日の方向に飛びかけた時、外から唸るサイレンの音が聞こえた。その音でハッと建岸は我に返る。

 担架で運ばれた男子生徒の受け入れ先が決まったのだろう、と建岸は推測する。けれど、黒板の文字は何のことだかさっぱり分からなかった。

 分からないなら今は考えても仕方がない。今はやるべきことが他にある。考えをまとめる時間は後でいくらでもあるはず。その前に今はこの女子生徒を落ち着かせなくては、と建岸は気持ちを切り替えた。

 肩に人一人分の重みを感じる。

 建岸は女子生徒の身体を支えながら、一歩ずつ教室の外へと向かった。

 ようやく教室の扉を越えて建岸が廊下に出ると、二年四組の生徒達は窓に張り付くように並んで一点を見つめていた。その視線の先には彼らの同級生を乗せた救急車がある。並んだ生徒達に建岸が目を向けると、よほどショックだったのか口元に手を当てながら肩を震わせている生徒の姿があった。その生徒は恐怖のためか背中が丸まっている。それでも救急車の行方を追う視線はきっと運ばれた生徒を心配しているのだろうと、建岸は思った。

 不安げな彼等を残して救急車のサイレンが少しずつ遠ざかっていく。

「建岸、こっちだ」

 廊下の先にある教室から昌岡が手招きをしていた。そこでは一時的に空き教室を解放しているようだった。昌岡の誘導に従って建岸は女子生徒を抱えるようにしてその教室へと向かう。

 並んだ生徒達を追い越した時、その中から小さな、それでいて感情の籠もった呟きが建岸の耳に届いた。

「――ざまあみろ」

 その呟きはすぐに周囲の喧噪に紛れた。

 背後から聞こえたその言葉を誰が発したのか、女子生徒を支えていた建岸には確認することが出来なかった。

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