10
「復讐?」
「人生を変えられたと、そう思う出来事を経験したことはあるか」
「……すぐには思いつきませんね」
「だろうよ。俺は、お前のそういうところが憎らしくてたまらない。だから俺は、こうしているんだ。お前にはなくとも、俺にはある。俺はお前に、人生を根本から変えられた」
さっぱり意味が分からなかった。自嘲するように唇を歪めた直澄をぽかんと見上げて、幻乃は思いつくままに口を開く。
「直澄さんの女をどこかで寝取りましたか」
「お前と穴兄弟になった覚えはない」
「仕事で邪魔をしましたか」
「お前の立場では、しない方が難しかっただろう。酒井家とは三代前から揉めている」
「俺は、あなたから何かを奪いましたか? それか、壊した?」
話しながらも、互いに互いの体をゆるゆると高め合う。
「奪われたし、壊されたな」
「そうですか。よくあることなので、覚えがないです。申し訳ありません」
我ながら空虚な謝罪だと思いながらも口にすれば、弾けるように直澄は笑った。
「思ってもいないくせに」
「よくご存じで」
「知っているとも。お前はそういう人間だ、幻乃。だから俺はお前からも、思いつく限りのものを奪うことにしたんだ」
緩やかな快楽に目を閉じかけて、聞こえてきた物騒な言葉に、思い直して目を開く。首を傾げれば、直澄は面倒くさそうに言葉を足した。
「主。住処。仕事。体」
「はあ」
劣勢の幕府側についた時点で、俊一の死は遅かれ早かれ免れなかっただろうし、幻乃から住処を奪ったのは直澄というより俊次である。仕事は彦丸たちがほどほどに回してくれるし、体に至っては、すべて完全なる合意の上での行為だ。
「どれも直澄さんに奪われたとは、思っていませんが」
「度し難い男だな。あと何を奪えばお前のその胡散臭い笑顔を剥がせるのかと、俺はそればかりを考えているというのに」
「怖いですねえ。……でもまたどうして、そんなに恨まれているんでしょう? 本当に心当たりがないんですけど……」
他人に恨まれている覚えは数多くあれど、直澄に絞れば思い当たる節はなかった。うんうんと唸りながら記憶を探っていた幻乃は、ふと思い出した出来事に、「あ」と声を上げる。
「お父上を殺した敵討ち、でしょうか」
正確には幻乃が討ったわけではないが、彦根の前藩主が亡くなるきっかけとなった戦に、幻乃は出ていた。俊一の下で情報の撹乱を担当していたことを思えば、間接的な死の要因には違いない。
直澄はぴくりと片眉を上げる。当たりか、と思った直後に、心底失望したとばかりに直澄はため息をついた。
「あのとき父上を手に掛けたのはお前ではない」
「……? 直澄さんも、あの戦にいらっしゃったのですか? 見た記憶はありませんが」
直澄は答えなかった。言葉を忘れてしまったかのように、がじがじと熱心に幻乃の首に歯を立てている。そのどこか子どもっぽい、拗ねたような顔を見ていられなくなって、幻乃はそっと目を伏せた。
そんな顔を見せてくれるな、と思った。直澄には、誰より強い、得体の知れない男のままでいて欲しい。この硬質な男の内面にも、かわいげのある柔らかさが確かに存在するのだと認めてしまえば、覗き込んでかき乱して揶揄って――うっかりすると自分のものにしたいと願ってしまいそうになるから。
これ以上何かがおかしくなる前に、時代の流れに押し流されてしまう前に、直澄との関係にも、蹴りをつけるべきなのだろう。
「斬り合いをしませんか」
努めて軽く、幻乃は言った。体をまさぐっていた手を、直澄はぴたりと止める。
「何?」
「竹刀ではない真剣で、あなたと斬り合いたいと言ったのです。直澄さん」
直澄が俯く。耳から落ちた髪が、直澄の表情を隠すようにはらりと顔にかかった。
「まだ早い」
「そうでしょうか。傷はもう塞がりましたよ。命の取り合いは、お好きでしょう? 俺と直澄さん、ふたりで命の取り合いをしませんか。もう一度、あの夜をやり直しましょう。……きっと、楽しいですよ」
「楽しいだろうな。だが、一度しか楽しめない」
「だから良いのではありませんか。あなたを斬ったら、気持ちが良いでしょうね。直澄さん」
「お前の死に顔は、さぞ美しいことだろうな、幻乃。……だが、駄目だ。今は、できない」
「藩主としてのお仕事があるから?」
直澄が幻乃の首元に顔を埋めた。幻乃もまた、直澄を見る代わりに、月明かりも見えぬ障子をぼんやりと眺めていた。表情もはっきりと見えぬほどの暗さと、自他の境界線もあやしくなる心地よい体温は、常であればきっちりと閉ざしているはずの心の
「直澄さんの敵は、幕府ですか。それとも、味方面をする邪魔者ですか? 藩主のお立場は、時に足枷にもなりましょう。俺と斬り合ってくれないのなら、俺を使ってはみませんか」
冗談めかして言ったつもりが、うっかり声が震えかけた。
ここにいてもいいのだと、自分が必要なのだと言ってほしい。誰かに、思考を放棄する言い訳を与えて欲しかった。
「使える駒は、多いに越したことはないのでは?」
「俺は、お前の『俊一さま』の代わりになる気はない」
淡々と告げられた言葉は、思いのほか幻乃の心にぐさりと刺さった。別に幻乃は、嘘くさい藩主の笑みを向けて欲しいわけでも、直澄に主になって欲しいわけでもない。たしかにそう思っているはずなのに、突き放されると胸が痛むのだから、心というものはままならない。
「つれないお方だ」
「お前は俺の家臣でもなければ、彦根の者でもない。余計なことは何も考えなくていいのだと、以前も言った。藩の問題に、お前は関係ない。誰を使うかも、どう動くかも、すべて俺が決める。お前はただ、好きに生きればいい。幻乃」
「……あはは! 相変わらず勝手な人だ。斬り合いも駄目。駒になるのも駄目。俺を住まわせるだけ住まわせておいて、働かせてもくれないとは。……関係だなんだと言うのなら、この趣味の悪い遊びも、いい加減やめた方がいいような気もしますけどね。俺で間に合わせてないで、縁談とやらでさっさと奥方を娶るなり、小姓をつけるなり――」
続く言葉は、乱暴な口付けで封じ込められた。息もできないほどの深い口付けは、表情よりもよほど雄弁に、直澄の怒りを伝えてくる。言いたいことはまだいくつもあったというのに、直澄の熱に煽られて、思考することさえままならなくなってしまった。
喘ぐように息をする。呼吸の合間に身じろぎすることさえも、直澄は許してくれなかった。
「もう黙れ、幻乃」
再度名を呼ばれると同時に、幻乃は諸手を挙げて降伏した。もとより焦らす意味もない。互いの体の相性は抜群で、数月もの間、丹念に抱かれ続けた体は、すっかりと男を受け入れる快楽を覚え込まされている。焦点が合わぬほど近くで目を合わせて、幻乃はふっと力を抜く。
「いいですよ。一緒に、気持ちよくなりましょうか」
上に覆い被さる体に手を回す。その瞬間、直澄は飢えた獣のように唇を歪めた。恐怖さえ感じさせる、その獰猛な表情に、腰の奥がずくりと疼く。
障子越しに、白く滲む景色がちらりと見えた。夜明けが近いのだ。夜通し降り続いた雪は、どれくらい積もっただろうか。
(夜までに、多少は溶ければいいが。雪が降り積もったままだと、動きにくい)
「何を考えている?」
「ん? 何でもありませんよ」
瞳を覗き込んでくる直澄の視線を受け止めて、幻乃はからかうように口角をつり上げる。
「困ったお方ですね、直澄さん。生活の場にしたって斬り合いの場にしたって、あなたがいなければ俺は生きることもできないというのに。頭の中まで欲しいんですか?」
「暇を与えると、ろくなことを考えないだろう。お前は」
「さて、どうでしょう」
けたけたと笑ってやれば、視線ひとつ自由にさせてくれない直澄の手が、すっぽりと幻乃の両目を覆い隠してしまう。慣れ親しんでしまった肌の香りに名残惜しさを感じながらも、幻乃は夜明けまで、くだらない遊びに身を浸し続けた。
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