人斬り狐の狂い愛

あかいあとり

第一章 夏夜の邂逅

1

 間宮まみや幻乃げんのは刀が好きだ。

 何十年もの歳月を費やし磨き上げた剣術を、たった一秒間の命のやり取りに捧げるあの瞬間。敵と己が向き合って、死線の上で刀を交わす、あのひりつくような感覚を、何より愛していると言っても過言ではない。

 いつからそうだったのかは覚えていない。生まれつきそうだったのかもしれないし、酒井さかい俊一としかずという若き藩主の下で働く中で、獲得していった性質なのかもしれない。


 兎にも角にも、幻乃にとって大切なのは、趣味と実益を兼ねた仕事の中で、戦場に立ち、強者と向き合い、心震える一秒間を楽しむこと。それだけだった。

 幸いにも、時代は国の覇権を巡る革命の真っ最中。争いの場には事欠かない。

 刀を振るう戦場を与えてもらうのと引き換えに、幻乃は主が命じるがまま、り好みせず人を斬ってきた。他人がいとう汚れ仕事だって、ためらうことなく引き受けた。張り付けた笑顔で人を騙すのも、後ろ暗い手段で情報を集めるのも、お手のものだ。


 たった一秒間の快楽を手に入れるためならば、狂人と蔑まれても、裏切り者と罵声を浴びせかけられても、構いやしない。敵地に潜入する危険な任務に送り込まれても文句はないし、――たとえ、前準備ひとつできずに命の危機に直面することになっているとしても、誰を恨む気もなかった。


「狐! 狐はどこだ! 人斬り狐め……! あの野郎、よくもやりやがったなぁ!」


 雨風の吹き荒ぶ夜、誰かが狂乱しながら泣き叫ぶ。けれどもその声に構う余裕は、幻乃には残っていなかった。

 生きるか死ぬかの瀬戸際で、どうして他人を気に掛けられようか。

 狐のようだと親しまれた茶色の髪を振り乱し、細い目を裂けそうなほどに見開いて、幻乃は全力で路地裏を駆け抜ける。背後から追いかけてくる足音はひとつ。彼我の距離は刻一刻と詰まるばかりで、これ以上場所を移すことさえ難しそうだ。


(逃げきれないな)


 元より、逃げる気もないが。

 弾む息を飲み込みながら、幻乃は唇の端をつり上げる。

 刀を存分に振るえるだけの、開けた場所にさえ出られれば良い。せっかくの強者と斬り合う機会を、無駄にはしたくなかった。

 真っ暗な路地の先に、行灯の赤い光がゆらりと揺らめく。昼は人通りの多かった大路地も、土砂降りの夜ともなれば寂しいものだ。たとえ侍ひとり死のうとも、誰も朝になるまで気付きやしないだろう。肩越しに背後を伺えば、殺気を隠そうともしない男が、物言わず刀を構えるのが見えた。覚悟を決めた幻乃は、腰に吊るした鞘を片手で強く握り込む。

 狭い路地から、大通りへと抜け出た直後――振り向き様に、幻乃は刀を一閃した。


「……っ!」


 キィン、と甲高い音が耳を突き刺す。剣線のきらめきが見えたと思ったのも束の間のこと。幻乃と相手の剣士は、そのまま激しい斬り合いへと突入した。

 視線を読み合い、意図を読み合い、踊るように刀を合わせるひと時のなんと甘美なことだろう。一秒一秒が長く感じられ、五感のすべてが鋭敏になったようだった。ずっとこうしていたいと心から願ったけれど、悲しいかな、勝負が決するのはいつも一瞬だ。


「……遅い」


 唸るような呟きが聞こえたときには、相手の刃は幻乃の攻めをかいくぐり、容赦なく幻乃の腹を切り裂いていた。


「ぐ……っ」


 斬られる衝撃に、幻乃は一歩、二歩とよろめきながら、刀を手放す。

 絵の具をぶちまけたかのような真っ赤な血が、腹から流れ出していた。胸から腹にかけて、ばっさりと斬られた前面が、炎で焼かれているかのように熱かった。


(遅い、か。慣れぬ長羽織など、着るものではないな) 


 傷口を押さえながら、幻乃は苦笑する。

 なんてことはない。主人に命じられ、町人に扮して情報を探っていた最中に、幻乃は人斬りの現場に出くわした。そして口封じに殺される。それだけだ。

 人生の大半を剣に捧げた者たちの命を喰らって、これまで幻乃は生きてきた。だから、己もまた、いつかは誰かに斬られて死ぬのだろうと思っていた。刀に生きた二十五年の歳月を、誰かの糧として奪われるだけの覚悟は、できていた。


(斬られるならまあ、この人だろうなとは思ってたけど……、今日だったか)


 視界が霞み、雨音がいやに大きく聞こえる。手足の感覚はもはやなく、血が吹き出すのに合わせて、体中から急激に力が抜けていくようだった。


 ――俊一さまは、怒るだろうか。


 必要な情報を手に入れたらすぐに帰ると豪語したのに、情けない。穏やかだけれど人使いの荒い主人の顔を思い出しつつ、幻乃は血溜まりへと崩れ落ちていく。 

 狭まる視界に、大きな足が映り込む。目だけで足の持ち主を見上げた瞬間、稲光がぴしゃりと辺りを照らし出した。


 血の滴る刀をだらりと下げて立つのは、二十代前半と思わしき長身の美丈夫だった。迫力ある隻眼が印象的なその男――三条さんじょう直澄なおすみとは、これまで何度も戦場で刀を交わした覚えがある。藩主でありながら戦場の最前線に立つ奇特な男だとは知っていたが、こんな路地裏で巡り合うとは、奇妙な縁もあったものだ。

 数年前、直澄とはじめて刀を交わしたときには、つば迫り合いの間に言葉を交わすほどの余裕があった。前回斬り合ったときにはすでに、幻乃が本気で斬りかかっても仕留められないほど、実力が拮抗していた。そんな才能に溢れた成長目覚ましい男は、しばらく会わぬ間に、さらに高みへと昇っていたらしい。

 幻乃が小柄な体格を生かして懐に切り込んだというのに、こちらの攻めを易々と凌いだ挙句、袈裟斬りにしてみせるこの腕といったら、まさに剣の道の最高峰だ。


 ――お見事。 


 賞賛の言葉をかけたかったのに、口から出るものといえば血の塊だけだった。手足が冷たくなっていき、視界が急速に暗さを増していく。


「……やっと……、やっと届いた。『狐』」 


 押し殺された呟きと哄笑を聞いたのを最後に、幻乃の意識はぷつりと途切れる。最後に幻乃の視界に映ったものは、地に落ちた白い面と、愉悦もあらわに嗤う隻眼の男の顔だけだった。

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