2
ちりちり、りりり、と軽やかに鳥が歌う。
金属を打ち鳴らす音にも似た独特な囀りは、夏に現れるコヨシキリの声だ。涼しい空気を好む彼らは高原にとどまるから、海沿いにある幻乃の住まいでは、まず聞くことのない囀り声でもある。
どうやら馴染みのない場所にいるらしい。はて昨夜はどこに泊まったのだったかと記憶を探りかけて、幻乃は意識を失う直前の出来事を思い出した。
「ぅ……っ」
目を開けて、自分の居場所を確かめるより前に、幻乃は素早く己の刀を探し出す。幸いにして、身を起こすまでもなく、隣に慣れ親しんだ鞘を見つけた。手に愛刀を強く握り込み、幻乃はほっと息をつく。
周りを見渡せば、目に入ったのはふかふかの白い布団と、手入れの行き届いた美しい和室。掛け軸や生け花までも飾られているその部屋は、幻乃のような一介の勤め人にはまず縁のない、格の高い寝室だ。どこかの藩主の部屋だと言われても納得できる程度には、品が良い。
(なぜ生きている?)
幻乃の記憶がたしかなら、腹に受けた傷はたしかに致命傷だったはずだ。たとえば夜中、通りすがった酔狂な誰かがお節介にも手当てを施したとしても、助かる傷ではなかった。
それこそ、斬った直後に治療したのでもなければ。
身を起こした途端に、腹に激痛が走った。声を出さずに悶絶して、幻乃は手早く傷の状態を確かめる。
胸から腹にかけての、深い刀傷。斬られた場所は、幻乃の記憶どおりだ。きっちりと巻かれた包帯を解いてみれば、丁寧に縫われた傷口が現れた。
刀傷を糸で縫って閉ざすやり方は、外国から入ってきたばかりの最新の処置だと酒井家付きの医師に聞いた覚えがあった。そんな最新の術式を施せるものといったら、幻乃が聞いた医師と同じく、藩主お抱えの者くらいだろう。
はてさていったい誰に拾われたのか。
殺し合いに敗れた武士を拾って命を繋ぐなど、それこそ武士の情けもありやしない。物を知らない偽善者か。はたまた良家の子女の気まぐれか。
(余計なことを)
最悪の気分で舌打ちする。
意識を失う直前に受けた一撃は、敵ながら惚れ惚れするほどの剣筋だった。あれほどの強者と斬り合えた幸福を、そのまま抱えて逝けたならどれほど良かったことか。
かくなる上は、幻乃を連れ帰った無粋者の面を拝んで、悪態のひとつでもついてやらねば気が済まない。相手が女か子どもならば、懐柔して骨の髄まで利用しつくしてから手酷く捨ててやりたい気分だったし、男ならば、この場で斬り捨ててしまいたい気分だった。
重い手足を動かして、幻乃は掛け布の下から這いずり出る。しかし、立ちあがろうと足先に力を込めた瞬間、かすかな軋みが遠くから聞こえてきた。
足音の重さからして、大人の男だろう。床が軋む小さな音が、規則的に響いていた。
刀の柄に手を掛けつつ、幻乃は頭まで掛け布を被り直して横になる。目覚める前と同じ姿勢を偽装しながら息をひそめていると、床の軋む音はどんどんと近づいてきた。
やがて、足音は部屋の前でぴたりと止まる。
襖の間から朝日が差し込むと同時に、幻乃は飛び起き、侵入者に切り掛かろうとした。
「暴れるな。傷が開く」
しかし、不意をついたはずの幻乃の一撃を、侵入者は鞘から抜き切りもしない刀で、やすやすと防ぐ。
「……なぜ、あなたが!」
呆然と目を見開きながら、幻乃は呟く。
幻乃に前に立っていたのは、冷たく整った容貌を持つ男だった。濡羽色の黒髪は凛々しく結えられ、立ち姿には一分の隙もない。幻乃よりも頭一つは大きいだろう長身は、よく鍛えられた体格も相まって、腰に帯びた長刀がよく似合っていた。けれど、閉じた左目と、その上に走る縦一直線の醜い傷跡が、美しい容貌を痛々しく損なっている。
夜と朝とで印象がやや異なるとはいえ、その珍しい隻眼と目立つ容姿を見間違えるはずもない。
彦根藩の若き主・
「何の狙いが……、う、……っ!」
問いかけひとつ発せぬまま、腹に走った激痛に、幻乃はうめき、膝をつく。
「言わんことはない。起きて早々、元気なことだな」
呆れたように呟いて、土鍋を横に置いた直澄は、ひょいと幻乃の手から刀を取り上げていく。
「か、えして……いただけ、ますか?」
痛みに冷や汗を流しながらも、幻乃は直澄をきつく睨みつける。けれど、藍色の着流しを纏った直澄は、幻乃の抗議など聞こえぬとばかりに、取り上げた刀をさっさと鞘に納めて遠ざけてしまった。それどころか、土鍋の蓋をぱかりと開けて、湯気を立てるそれを「食え」と差し出してくる。
こちらの事情を一切合切無視した振る舞いに、こめかみがぴくりと引きつった。青筋を立てながらも、幻乃は必死で顔を上げ、笑みを張り付けて口を開く。
「……お戯れを。酒井家に仕える俺が、なぜあなた様の世話になれましょう。俺の記憶がたしかなら、我が主人とあなた様は、戦場で向き合う仲であったはずです」
彦根藩は国家の改革に賛同し、倒幕を押し進める勢力に与した。一方、幻乃が仕える小浜藩は、伝統的な藩制を支持する陣営に属する。
「あなたに切り殺される理由はあれど、食事を恵まれる理由はないはずです」
「くだらない。長々と藩主の寝床を占領しておいて、今さらいらぬ遠慮をする理由があるか?」
「恐れながら、俺も好き好んであなたの寝所に忍び込んだわけではありません」
「直澄」
「……はい?」
唐突に名乗りを上げた直澄を、幻乃は困惑しながら見つめ返す。子どもに言い聞かせるように、直澄は再度ゆっくりと繰り返した。
「
「はあ、これはご丁寧に。存じておりますが。何しろあなたとは――」
「酒井は家臣に礼儀を教えないのか?」
冷たく言葉を遮られ、思わず幻乃は口を閉ざす。直澄のとことん唯我独尊なふるまいが鼻にはつくが、なるほど名乗られておいて名乗り返さないのは、無作法には違いない。
居住まいを正して、幻乃は軽く頭を下げる。
「失礼いたしました。俺は、間宮幻乃と申します。どうぞ幻乃とお呼びください。三条殿」
「堅苦しい」
「直澄さま」
「『さま』はいらない」
――どうしろと?
ぴきぴきと見えぬところで青筋を立てながらも、忍耐強い幻乃は人当たりの良い笑みを崩さなかった。
「では、直澄さんと。……これまで何度も刀を交わしてきましたから、直澄さんのお姿もお名前も、もちろん存じておりますとも」
直澄さんが俺のことを覚えておられるかどうかは分かりませんが。
そう言い添えれば、「無論、覚えている」と一言で直澄は答えた。
認識されていたという事実に、わずかに胸が熱くなる。何しろ幻乃は、生まれてこの方、直澄ほど強い剣士を見たことがない。この男と斬り合うときが一番楽しく、興奮した。死線を挟んで向かい合うあの一秒の、あの幸福を、誰より近くで共有できた相手だとすら思っている。
その分、幻乃を生かして連れ帰ったのが直澄だという事実への、失望と怒りも大きかった。なぜあの瞬間に死なせてくれなかったのか。憎しみと呼んでもいいほど、ぐらぐらと煮詰まった感情を抱かずにはいられない。
「直澄さんとは何度も戦場でまみえたというのに、邪魔が入ってばかりでしたね。ずっと再戦を望んでいました。……ようやく決着がついたと思ったのですが、残念です。俺を生かした理由は何でしょう?」
恨みがましい気持ちで問いかける。ぴくりと唇の端を歪めた直澄の顔が、嘲りの色を含んでいるように見えるのは、幻乃の気のせいだろうか。
「理由、か」
「情報ですか? それとも俊一さまへの揺さぶりでしょうか? 我が主は家臣を大切にしてくださるお方ではありますが、ひとりふたり臣下を失ったところで、動揺するようなお方ではありませんよ」
「――敗者が理由を問えるとでも?」
今度こそ直澄は、まぎれもない冷笑を浮かべて言い捨てた。
かっと頭が熱くなる。辛うじて笑顔の裏に殺意を押し込めることはできたが、声が低まることは止められなかった。
「……そうですね。直澄さんのおっしゃる通りです」
ふらつく体をゆらりと起こし、幻乃は直澄を真っ向から睨みつける。
「ですが、聞かせていただけないというのなら、話したくなるようにするまで。今ここで、勝敗を覆してみましょうか? どのみち、小浜と彦根はまたぶつかります。わざわざ戦場に出る時を待つ必要もありますまい。路地で決したはずの勝敗を、汚したのはそちらなのですから」
切り捨てられる覚悟で、喧嘩を売った。藩主に利くには過ぎた口だと、自覚しながら言い募る。直澄に斬られた夜、本来ならば幻乃は死んでいたはずだったのだ。今こうして生き永らえていることの方が耐えがたい。
けれど、返ってきた言葉は、幻乃の想像の外にあるものだった。
「お前の知る小浜はもうない。正確には、酒井俊一殿はもういない、と言うべきか」
「……は?」
「お前の主人はもう死んだ、と言っているんだ。体が軋むだろう? 一週間、お前は昏睡状態だった。お前の主の首が飛ぶ瞬間を、お前は見逃したんだ。幻乃」
「な……っ! そんなこと、あるわけがない……!」
直澄が何を言っているのか理解できなかった。
三百年近く続いた泰平の世・
けれど、こんなにもいきなり衝突が起き、しかも寝ている間に終わるなど、そんな馬鹿げた話を信じられるはずもない。
「冗談、ですよね?」
からからに乾いた口で、どうにかこうにか言葉を紡ぐ。
直澄は答えなかった。代わりに、おもゆの入った土鍋を無造作に顎で指して、「食え」と再度繰り返す。
「お前が再戦を望むなら受け入れよう。ただし、個人としての話だがな。弱りきったお前を相手にしたところで、話にならない。まずは療養しろ」
頭の中が真っ白だった。傷が開いた痛みも相まって、冷や汗とともに視界が暗くなってくる。
「行動を制限はしない。部屋は好きに使え。身の振り方を考えるも、仕えた家のなりの果てを見に行くも、お前の自由にするといい」
幻乃、と囁く声には、奇妙な熱が感じられた。
一切合切、わけが分からなかった。夢であると思いたい。
くらりと体が傾いた。直澄の声が遠くなっていく。生死の境を抜け出たばかりの幻乃の体は、当然ながら、与えられた情報の奔流に耐えられるほどの強さを取り戻してはいなかったのだ。
考えることを放棄して、幻乃は意識を手放した。
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