3

 薬草の匂いがつんと鼻をつく。二度目の目覚めは、絡みつく泥の中から這い上がるような意志の強さを必要とした。

 うめきながら目を開くと、霞む視界に、背の曲がった男の姿がうつり込む。先ほど起きたときには上がっていたはずの日は、すっかりと沈んでしまったらしく、蝋燭の頼りない火が暗い室内をぼんやりと照らしていた。


「起き上がりなさんなよ。開いちまった傷を、さっきようやく閉じたばっかりなんだ」


 幻乃の隣で何やら薬と思わしきものを調合していた男は、幻乃が身じろぎすると同時に、釘を刺すように声を掛けてきた。その声が直澄のものでないことに、ほっとする。


「どれ……、気分はどうかね、お客人」


 幻乃をのぞき込んできたのは、白髪を後ろできっちりとひとつ結びにした老人だった。当然ながら、見覚えはない。


「ぁ、……ごほっ」


 答えようにも、喉が渇ききっており、声が出ない。幻乃の状態を察したのか、さっと水差しが口元に当てられた。緩やかに注がれるぬるい水を、嚥下していいものかどうか一瞬迷う。

 幻乃の心を読んだかのように、老年の医師は優しく告げた。


「……ただの水だ。安心せい。儂は三条家付きの医師の彦丸という。皆は彦先生と呼ぶがね。あんたらお侍さんと違って、情けだなんだ、仕えるお家がなんだで区別はせんよ」


 皺だらけの顔は見るからに温和で、小さな瞳に浮かぶのは幻乃を案じる色だけだった。ゆっくりと幻乃が水を飲み下すと、ほっとしたように彦丸は唇をほころばせる。かと思えば、思い出したように顔をしかめて文句を言い出した。


「まったく、直澄さまにも困ったもんだ。こんな怪我人に無茶させおって……。あんた、知ってるかい。儂はな、何日か前、夜中にいきなり叩き起こされたと思ったら、血まみれのお侍さんを見せられて、『生かせ』と命じられたんだよ」


 まず間違いなく幻乃のことだろう。


「直澄さまったらまあ、毎日毎日鬱陶しいくらい通ってくるわ、ようやく起きそうな気配があるってなった途端にあんたの寝床に張り付くわで、参ったよ。親しい仲なのかい」

「いえ……。知り合いではありますが、特に親交はありませんでしたね」

「そうかい。まあ、儂には関係のないことだがね。体力が戻るまで待つようにと進言したのに、怪我人が興奮するようなことをわざわざ言って……、おかげであんたの傷は開くし、下がった熱はぶり返してるしで、生かしたいのか死なせたいのかどっちなんだって話だよ」


 ため息をついて、彦丸は疲れきった様子で項垂れた。「頼むから安静にしておくれよ」ともう一度念押しした後で、水差しを置いた彦丸は、てきぱきと幻乃の腹の包帯を取り替えにかかる。


「あんた――幻乃さんと言うたかいの。忍かい」


 尋ねているというよりは、ほとんど確信しているような声音だった。目をしばたたかせながらも、幻乃は頷く。


「生まれは、そうですね。今は武士として、主人に仕えておりますが」

「やっぱりな。どおりで薬が効きにくいと思った。こういうのは子どものころに決まるもんだから」


 幻乃の両親は忍だった――らしい。どういう事情があったのかは知らないが、両親は幻乃を連れて、ひとところにとどまることなく生きてきた。幻乃が十になるころには両親揃って命を落としてしまったため、詳しいことは聞けずじまいであるが、おそらくは抜け忍だったのだろうと推測している。

 幼いころに両親に仕込まれた情報収集の技能や暗殺技術、丈夫な体質は、酒井家に拾われてからも幻乃を助けてくれていた。


「痛み止めを強めに調合しておくよ。しばらくは眠りを深める薬も混ぜさせてもらう。動かれてまた傷が開いちゃたまらんし、寝なきゃ治るもんも治らんからね。儂が良いと言うまで絶対安静だ。いいね」

「はい」


 言うが早いか、彦丸は粉薬を水に溶かし、幻乃の口に流し込んできた。咽せそうなほど苦い薬を涙目で飲み下しつつ、幻乃は薬箱を片付ける彦丸の背中に、「あの」と声をかける。


「直澄さんは、なんで俺をここに連れてきたんでしょう」

「儂が知るもんかい。本人に聞いとくれ。直澄さまは良い藩主だが、変わり者でね。何を考えとるのかよく分からん。……子どものころは、素直で分かりやすいお方だったんだがね。戦場で片目を失ってからは、すっかり変わっちまったなあ……」


 懐かしむように呟いて、挨拶もそこそこに彦丸は部屋を出ていった。

 飲ませられた薬のせいか、はたまた重い怪我のせいか、眠くてたまらない。まどろみに身を任せながら、幻乃は天井の木目をぼんやりと眺める。

 藩主の寝室、と直澄は言っていた。つまり幻乃が寝かされているこの部屋は、直澄の部屋なのだろうが、当の部屋の主はいったいどこへ消えたのか。


(いや、隣で寝られても困るけど)


 朝に聞かされた情報の真偽を確かめるにしても、体が治らないことには話にならない。直澄の言葉に従うのも癪だが、ひとまずは怪我の療養に専念せねば。生かされたという事実を直視すると憤死しそうな気分にはなるが、生きている以上は命を有効に使うべきだろう。

 気合いも新たに、幻乃は深い眠りへと落ちていった。

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