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 一週間もすると、幻乃は彦丸から寝床を抜け出す許可をもらった。

 二週間経つころには、腹の傷を縫い合わせていた糸も抜いてもらえた。彦丸に驚かれる程度には、元々傷の治りが早い体質ではあるが、ああもばっさりと切られた傷がぴたりとくっついている様子を見ると、医術の進歩の目覚ましさを感じずにはいられない。 

 赤く盛り上がった腹の傷跡を物珍しく眺めていると、釘を刺すように彦丸が「見かけはくっついていても、まだ治りきっているわけではないぞ」と声を掛けてきた。


「分かってますよ、彦先生。もうしばらくは、真剣での斬り合いはやめておきます」

「誰も斬り合いの話はしておらんわ。こそこそ散策をしたり素振りをしたりするのも、控えるべきだと言っておるのだ」

「目こぼししてくれてるじゃないですか」

「無茶したところで痛い目を見るのは幻乃さんだからな。大の大人の子守りなんぞしておられるか。儂は知らんからの!」


 幻乃の傷から抜いた糸をまとめながら、彦丸は苦々しい声で吐き捨てる。あの日以来、ろくに会話もしていない直澄よりもよほど、幻乃はこの口うるさくも優しい医師に親しみを覚えていた。

 何しろ直澄はといえば、数日おきにふらりと屋敷を空けては、幻乃が薬で眠り込んでいるときを見計らうかのように、血の匂いを纏わり付かせて帰ってくるのだ。部屋の隅で座って目を閉じている直澄を見つけるたび、自分の部屋なのだから堂々と寝ればいいのに、となんとも言えない気分になる。

 はあ、と深いため息をついて、彦丸は「お主に限らず、ここのところ、仕事が多くて敵わんわい」とぼやき出す。


「そんなに怪我人が多いんですか」

「まあの。侍というものはまこと分からんな。こちらが繋いだ命を、なぜわざわざ捨てにいくのやら」


 彦丸の口ぶりに引っかかるものを感じて、幻乃は首を傾げる。


「直澄さんも、命を捨てに行ってるんですか。よく出かけているみたいですけど」

「仕事じゃ、仕事。藩主たる者、時代の変わり目に遊んでいる余裕などあるはずがあるか」

「仕事? 藩主自らこんな頻度で出向かなければならないなんて、どのようなお仕事なんでしょう」

「さあな。何度も言うが、直澄さまのことは直澄さまご本人に聞いとくれ。言っていいのかどうか分からんことは、儂は言わんことにしておるものでね」


 つれなく会話を切った彦丸は、てきぱきと荷物をまとめると、仕事は終わったとばかりに立ち上がる。いつも通りの疲れた顔をしているが、彦丸の目は気遣いに満ちていた。


「ではな、幻乃。毎日の診察も今日でしまいじゃ。傷が閉じたとはいえ、あまり無茶をするでないぞ。何かあれば言いなさい。お主の体は癖が強いようだから、他所よその医師に見せるのは気の毒だ」

「ひどいなあ。でも、ありがとうございます。お世話になりました」


 彦丸を見送った幻乃は、さて、と伸びをすると、下ろしていた髪を後頭部の上側でひとくくりにした。結った髪が馬の尾のように揺れる束ね方は、何かと古風な主人に見られれば眉を顰められるだろうが、ひとりで動く分には関係ない。

 傷口にはまだ違和感こそあるが、痛みは消えた。鈍った体を本調子に戻すには時間が必要だろうが、情報収集をするのに支障はないだろう。

 直澄の袴をひとつ拝借して、幻乃は街歩きのための身だしなみを整える。長身の直澄の服を着こなすには、少々幻乃は小柄すぎたが、不格好な仕上がりには目を瞑る。外に出られればそれで良いのだ。

 腰帯に刀を差し込んで、幻乃は軽やかに屋敷を出た。

 隣接しているとはいえ、彦根藩から小浜藩に渡るには、山を越える必要がある。


(山下りはともかくとして、そこから先をどうしたものか)


 下町を歩きながら、幻乃は細い目をさらに細めて頭を悩ませる。

 徒歩でもいけない距離ではない。実際、直澄に斬られるきっかけとなった任務のときには、幻乃は徒歩で彦根藩までやってきた。とはいえ、大怪我から回復した直後であることを踏まえると、積極的に選びたい手段ではなかった。行商人に相乗りさせてもらうか、可能なら馬の一頭でも使いたいところだ。

 そんなことを考えながら歩いていると、大通りを歩く人々の中に、ここ最近知り合ったばかりの顔を運よく見つけた。

 くすんだ橙の小袖に身を包んだ、十代後半の若い女性。豆腐屋の娘、お鶴である。荷車を引きながら、こちらへと向かってくる彼女に目を止めて、幻乃は口角をつり上げる。


 ――ちょうどいい。

 にこやかな笑みを浮かべた幻乃は、お鶴に向けて手を振った。


「お鶴さん。配達ですか?」


 声を掛けると、お鶴はぱっと笑顔を浮かべて、幻乃の近くに駆け寄ってきた。


「幻乃さん! お怪我はもういいの? また勝手に出歩いて、彦先生にどやされるんじゃないの?」


 荷車を止め、口を開くや否や、お鶴はまくし立てるように喋り出す。苦笑しながら幻乃は降参の意を示すように両手を掲げた。


「大丈夫です。彦先生からはもう好きにしていいとお許しをいただきましたから」

「本当に? 幻乃さんたら、平気な顔して無茶するんだもの。また青い顔して倒れちゃうんじゃないかって心配になっちゃう」

「あはは……、その節はお恥ずかしいところをお見せしました」


 お鶴と知り合ったのは、幻乃が目覚めてから数日経った後のことだ。

 彦丸から絶対安静と言われてはいたものの、その日幻乃は、一向に姿を見せない直澄の同行が気に掛かって、寝室を抜け出していた。敷地を散策していた最中、たまたま細腕の女性が大きな荷台を引いているところを見かけたものだから、「お手伝いしましょうか?」と、声を掛けた。それがお鶴だ。

 五割は善意で、残り五割は打算である。

 情報はいつだって商人から入ってくる。たとえそれが女子供だろうとも、城に出入りできるほどの商人ならば恩を売っておいて損はないのだ。


「細っこく見えるのに力持ちだから、あのときは驚いちゃった」

「これでも鍛えていますから」

「あたしは助かりましたけどね。でも、包帯まるけの大怪我人だったんだって、後から知ったときはびっくりしましたよ。彦先生が『何をやっとるんだー!』って雷落とすから、幻乃さん、本気で焦ってましたもんね」

「彦先生が腹の傷をつついてきたからですよ」


 絶対安静の言いつけを守っていなかったことを、どういうわけか彦丸は即座に嗅ぎつけて、「儂を打ち首にする気か!」と雷を落としてきたのだ。彦丸の声真似をしながら話せば、お鶴はころころと笑って、「それは幻乃さんが悪いです」と控えめにたしなめた。


「彦先生は幻乃さんのこと、心配してるんですよ。幻乃さんは、直澄さまの大切なお友達なんでしょう? 直澄さまは、幻乃さんが寝込んでいた間、毎日幻乃さんの看病をしていたって彦先生が言っていたじゃないの。そんな大事なご客人がどこかに消えたとなったら、彦先生だってそりゃあ気を揉むでしょうよ」


――この傷を作ったのは、その『お友達』ご本人ですけどね。

 心の中で突っ込みはすれど、口には出さない。幻乃自身、なぜ生かされたのかも分かっていないのだ。直澄と戦場で顔を合わせた回数は片手の指の数を越えるとはいえ、いわゆる友誼を結ぶほど、互いのことを知ってもいない。

 答えにくい言葉を笑ってごまかし、幻乃は気を取り直して、「荷運びは、お屋敷までですか? お手伝いしましょうか」とお鶴に尋ねた。


「あら、ありがとうございます。でも、お気持ちだけで十分ですよ。お出掛けするところだったんでしょう? どちらに行かれるんです?」


 ――来た。

 幻乃はにいと唇の端をつり上げた。

 お鶴は聞いてほしいことを聞いてくれる、良い娘だ。悪どく笑いそうになるところをぐっと堪えて、眉尻を下げた幻乃は、困ったような笑顔を作ってみせる。


「実は、小浜藩の方の様子を見に行きたくて」

「まあ、小浜藩ですか?」


 お鶴は心配そうに唇に手を添えた。


「つい最近、戦が起こったばかりの場所ですよ? 街の様子もよくないと聞きますし、お怪我がしっかり治ってからにした方がいいんじゃない?」

「知り合いがそこで商売をしているもので、どうにも心配で。いてもたってもいられないんです」

「それは、お気の毒に……。でも、ここから小浜藩に行くとなると、山を越えるのも大変ですし、街道は長いし……、歩いて行ったら、元気な人だって結構な負担になりますよ」

「承知の上です。ひと目会えれば、それだけで良いのです」

「そうですか。でも、直澄さまは、ご存知なんですか?」

「それは、その……」


 言葉を切った幻乃は、意味ありげに視線を落とす。


「……直澄さんが出掛けておられる、今しかないのです。直澄さんには、お世話になりました。あの方のお気持ちに報いたいとは思っていますし、で恩を返したいとも思っています。だからこそ、けじめをつけなければ、あのお方には向き合えないのです」


 わざと含みを持たせて呟けば、「まあ……!」とお鶴は頬に朱を上らせた。別に嘘はついていない。直澄には、生死の境をさまようほど手厚くになった礼参りをしなければいけないと、幻乃は常々思っている。


「そういうことなら分かりました!」


 どん、と胸を叩いたお鶴は、善意と好奇心で目を輝かせながら、溌剌と宣言した。


「幻乃さんには、前回手伝っていただいた借りもありますものね。あたしも商人の端くれです。借りっぱなしにはしませんよ! ……ちょうど知り合いが、市に干物を仕入れに行く準備をしていたはずです。一緒に行けるよう、頼んでみますよ」

「それは……助かりますが、本当にいいんですか? お鶴さんの迷惑になってしまうかも」

「いやだ、水くさい。良いと言ったら良いんです。あたしに任せてくださいな」

「ありがとう、お鶴さん」


 お鶴の両手をそっと握って、幻乃はにこりと微笑みかける。途端に照れたようにお鶴は頬を赤く染めた。本当に、素直で善良で、かわいらしい娘である。あともう五年ほどお鶴が年を重ねていたのなら、ぜひとも口説いてみたかった。


「い、いいですよ。そんな、気にしないでください。困ったときは、お互い様じゃないですか」

「恩に着ます。……さ、行きましょう」


 お鶴の隣にあった荷車に手をかけて、幻乃はそれをさっと引く。


「あっ! あたしが引きますよ」

「いいえ。こんなことしかできませんが、せめて、お屋敷までは手伝わせてください。お鶴さん」


 人の良い笑みを浮かべながら、幻乃はお鶴を促した。隣の藩への足を用意してもらう恩に比べたら、荷物運びくらいなんでもない。

 その後、しばしお鶴の仕事に付き合った幻乃は、無事にお鶴の知り合いの商人と顔合わせを果たし、旅路に同行させてもらう許可を得た。旅慣れた壮年の商人と談笑しながら山を下り、馬を使えば、街道を進むのはあっという間のことだった。

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