5

 一晩の野宿を挟みつつ、翌日の夕方には、幻乃を含めた一行は、海沿いの街へと足を踏み入れていた。

 慣れ親しんだ浜風を吸い込むと、わずかな郷愁に襲われる。けれど、感傷に浸る余裕もない。街に足を踏み入れるや否や、幻乃は強烈な違和感を覚えた。

 人が少ない。漂う雰囲気がおかしい。壊れて燃えた建物が、いくつもある。人々の間にも活気がなく、誰も彼もが下を向いて、目を合わせることさえ避けるように早足で歩いていた。


「もし、そこの方」


 半壊した建物の前で掃き掃除をしている茶屋の女将に、幻乃はそっと声を掛ける。気だるげに顔を上げた彼女の顔には、濃い隈が刻まれていた。


「お忙しいところ、申し訳ありません。しばらくこの街を離れていたもので、状況がよく掴めませんで……。差し支えなければ、ここ最近何があったか、目ぼしいところを教えていただけませんか」


 なけなしの小銭を握らせながら尋ねれば、女将はさっと幻乃の腰元に視線を走らせながら、「お侍さんですか」と警戒するように呟いた。


「はい。酒井俊一さまの命で、しばらく外に出ておりました。帰ってきてみれば、ずいぶんと街が荒れているので、驚いてしまって」

「そうですか。ご当主さまにお仕えしていた方ですか」


 俊一の名を出すと、あからさまに女将はほっとして、体の強張りをといたようだった。


「前の、とは?」

「ひと月近く前になりますかね、よその藩がいきなり攻めてきたんですよ。うちのお侍さんたちが彦根の町に火をつけたから、その報復だって言ってね……。だいぶ直ってきたとはいえ、ご覧の通り、被害を受けた建物も、巻き込まれた人も多くて、酷いものですよ。何が何だか分からないうちに終わったのはいいんですけど、その戦いの最中に、前のご当主さまが亡くなったと聞きました」


 亡くなったという言葉に、ぴくりと幻乃は肩を揺らす。しかし、女将は気付かず話し続けた。


「そこからがまた、ひどくてねえ……」


 茶屋の女将曰く、俊一亡き後、俊一の息子が形式的に後を継いだらしい。しかし齢五つにもならぬ嫡男に何ができるはずもない。実質的な当主はまず間違いなく俊一の弟・俊次としつぐだろう。問題は、その家臣の振る舞いにあるのだという。


「荒くれ者の集まりですよ、あんなもの。まともなお侍さんたちは皆、戦いで死んでしまったんでしょうね。揉め事は起こすし、ツケばかり溜まっていくしで、今じゃお侍さんを見ると体がすくむようになってしまって……散々ですよ」


 疲れ切った声音で吐き捨てて、女将はうんざりとしたように眉を顰めた。

 ある程度は彦根の下町でも話を聞いていたものの、幻乃が仕えていた家そのものも、随分とひどいことになっているらしい。たった一月の間にこうも状況が変わっているのは、幻乃としても予想外だった。


(じゃあやっぱり、俊一さまは、本当に――)


 現実味を帯びてきた焦燥感を、ゆっくりと飲み下す。

 気分を切り替えるように首を振り、幻乃は軽く女将に頭を下げた。


「そうですか、そんなことがあったとは……言葉もありません。お話を聞かせてくださって、ありがとうございます」

「いいえ、とんでもない」


 ぎこちない笑みを返した後で、女将はひとりごとのような呟きをこぼした。


「……お若いのに、きちんとしたお方ですね。こんなことを言ったらいけないけれど、俊一さまがご当主さまだったころが懐かしいですよ。皆、あなたのように気のいいお侍さんばかりでした。やれ戦だ、やれ大義だ、って皆おかしくなったみたいに戦いばかりしますけど……、あたしには何がそんなに欲しいのか、さっぱり分かりません。知り合いは知らない間に死んでしまうし、街は壊れてしまうし……。新時代でもなんでもいいから、早く平和な毎日が戻ってきてほしいものですよ」

「平和な毎日、ですか。……そうですね」


 同意の言葉は、幻乃が意図したよりも薄っぺらく響いた。

 争いと混乱に満ちた日々は、幻乃にとってはなくてはならない望ましいものだ。仕える主人がいなくなってしまったとなれば身の振り方には悩むけれど、戦場自体がなくなってほしいとは思わない。犠牲者を思って涙ぐむ女将の気持ちは、幻乃の理解の外にあった。


「お侍さん、新しいご当主さまをお探しなら、お城の方に行ってみるといいですよ。よく集まっているのを見かけますから」


 女将の助言に礼を告げて、幻乃は壊れかけた茶屋を後にする。その後も何人かに話を聞きながら、幻乃は酒井家の城へと足を伸ばした。――正確には、城があったはずの場所へと。


 

 重苦しい空気に満ちた下町を通り抜けた先には、焼け落ち、変わり果てた姿になった城の跡だけが残されていた。


「これは……」


 眉をひそめて、幻乃は立ち尽くす。

 目の前に広がっているのは、炭と瓦の成れの果て。元は、彦根藩の佐和山城ほど立派ではなくとも、あたたかみを感じさせる歴史ある城があったはずの場所だ。

 海鳥の声が、いやに大きく耳に響く。

 直澄に聞かされた言葉で、覚悟はできていたはずだった。彦根藩と小浜藩が争ったことも、それがたったの三日で決着してしまったことも、城が原型をとどめていないことも、道中で話を聞いて知っていた。

 それでも、実際に自分の目で見ると、衝撃が大きかった。


 狐、とからかうように幻乃を呼ぶ主人の声を思い出す。高い位置でまとめた茶髪と糸目を茶化して、主は幻乃を『狐』と呼んだ。

 俊一に拾われ、はじめて屋敷に足を踏み入れた日の感動。

 柔和な顔で、えげつない命令を振られた瞬間の焦り。

 ここで過ごした十五年間の思い出が、ぽつぽつと思い浮かんでは消えていく。

 幻乃の主人たる俊一は、新時代の到来があまりにも早く、武力によって為されることを憂いていた。幻乃に彦根藩での任務を命じたあの日も、そうだった。


『三条の動向を探ってきてくれるかい、狐』

『三条、ですか? それはもちろん、構いませんが……、なぜ今なのかとお聞きしても?』

『三条は維新の立役者、新政府の番犬だ。逆らうものを斬って回る彼らが、どうにも最近きな臭い』

『というと、戦ですか? 予定はいつになるのでしょう。三条といえば、あのお若い藩主も出てくるでしょうか。あのお方と斬り合えるかと思うと、ぞくぞくしますね』


 争いごとの気配にあからさまに声を弾ませる幻乃を、俊一は無駄と知っていながらたしなめたものだった。


『お前は本当にそればかりだね。戦なんて、起こらないに越したことはないんだよ。あんなもの、対話の放棄でしかない』

『武士に斬り合うなと仰るのは酷なことです』

『……仕方のない子だ。ならばそのときはまた、お前に任せようか。斬りたいだけ斬ればいいさ。戦場は私が用意する』

『さすがは俊一さま。感謝いたします』


 俊一は、出自も知れない幻乃をためらいなく臣下に据えた。同じ武士でも理解してくれない、幻乃の斬り合いへの異常なこだわりを、懐の深い俊一は認めて好きにさせてくれた。


『これでもね、私はお前を戦狂いにしてしまったことを悔いているんだよ。今は良くても、きっとお前は平和な時代では生きていけない。そんな気がするんだ。誰彼構わず切り掛かるようになってしまったらどうしようね』

『人を殺人鬼みたいに仰らないでください』

『子飼いが悪さをしたらと心配するのは当然だろう? 自分がそう育てたとなれば、尚更だ』

『元から俺はこうでしたよ。俊一さまのせいではありません。それに、今が良ければ、それで良いではありませんか』

『お前には先が見えていないんだよ、可哀想な狐。私が生きている間は、お前に生きがいを与えてやれるけれど、この先はどうなっていくのだろうね。私が死んだ後、誰かお前を飼い慣らしてくれる人がいればいいのだけれど……』

『縁起でもないことを仰らないでください、俊一さま』


 困ったように微笑む主人の顔を思い出す。思えば幻乃に最後の任務を命じたときから、俊一は己の運命を悟っていたのかもしれない。

 生きている以上は皆いつかは死ぬ。この激動の時代ならなおのことだ。他人の生き死ににいちいち心を痛めていては生きていけない。そうは思っても、世話になった主人の死には、幻乃もほんのわずか、感傷的な気分を覚えずにはいられなかった。


「『首を落とした』と言っていましたっけ」


 直澄の言葉を思い出し、ぽつりと呟いたそのとき、険しい声が背後から聞こえてきた。

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