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「ここで何をしている」


 振り返れば、貫禄ある顎髭を蓄えた壮年の男――酒井さかい 俊次としつぐが、共を引き連れ、厳しい顔で立っていた。並外れて分厚い体躯と、人を射殺さんばかりの鋭い眼光は、どちらかというと優男であった俊一の実弟だとはとても思えない。

 険しい顔をさらに険しくさせて、唸るように俊次は声を発する。


「去れ! ここは酒井の地であるぞ。どこから来たかも分からぬ茶髪の異人がいて良い場所ではない」

「恐れながら、俺は生まれも育ちもこの国です。生まれ自体はこの地ではありませんが、この地で仕えることは、我が主人にお許しいただいております」


 聞き慣れた難癖のつけ方に、幻乃はため息をつきたい気分を抑え込みつつ、言い返す。

 幻乃の髪は、黒よりわずかに明るい茶色をしている。先祖の誰かが外国の地を引いていたのかもしれないし、外に出る任務が多いせいで、日に晒され続けて髪色が抜けただけかもしれない。単なる個性でしかないそれは、しかし凝り固まった考えの者たちや、俊一をよく思わない者たちにとっては、格好の攻撃の種だった。


「主人だと? 酒井藩の主はこの俺だ。俺は、お前がこの地を踏むことを許した覚えはないぞ、幻乃。この裏切り者め」

「裏切り者、でございますか?」


 幻乃は困惑して眉根を寄せる。たしかに幻乃は口八丁手八丁で人を騙してきたし、いわゆる他の侍たちのように、主人に絶対の忠誠を誓っていたわけでもない。けれども俊一が幻乃の望みを叶えてくれる限り、幻乃もまた、俊一に対しては誠実に報いてきたつもりだ。裏切り者呼ばわりされる心当たりはなかった。


「どういうことでございましょう」

「とぼけるな。兄上は人斬りに殺された。彦根藩との戦が始まる直前に、屋敷の中で討たれておったのだぞ。手引きするものがおらねば、こうも易々と侵入されるものか! それに、いかに相手が彦根藩といえど、内通者でもおらぬ限り、こんなにも短期間で決着がつくはずがあるまい!」


 自信満々に言い切る俊次を、幻乃はぽかんと見返した。

 ――内通者? 決着がつくはずがない?

 元々、彦根藩と小浜藩では兵力が違う。革命を成し遂げた彦根藩では、民や兵たちの士気だってさぞ高かろう。まともにぶつかれば叩きのめされることが見えていたからこそ、俊一は幻乃をはじめとする家臣たちに、武力以外で彦根藩と渡り合える方法を探らせていたのだ。

 藩主の弟でありながら、そんなことも見えていないのだろうか。取り巻きの人間たちを眺めるも、誰も彼もが俊次と同じ考えなのか、疑問を口に浮かべることすらしていない。


「貴様は戦の直前、屋敷にいなかったな、幻乃」

「任務に出ておりましたゆえ」

「任務。任務か。便利な言葉よの。三条の地に行き、やすやすと主人を死なせて、戦が終わるまで帰ってこない。なんとも立派な『任務』だ。兄上もさぞや鼻が高かろうな」


 取り付く島もない。俊次は、はなから幻乃が三条に情報を横流ししたと決めつけているのだ。聞く耳を持たぬ人間に、何を言ったところで時間の無駄である。姿勢を正した幻乃は、笑みを張り付けて俊次を見上げる。


「何を仰りたいのですか」

「簡単なことだ。出て行け、幻乃。そして二度と戻ってくるな」

「おや、俺を裏切り者だと仰るのに、討たずともよろしいので?」


 冗談めかして呟きながら、そっと幻乃は刀の柄に手を掛けた。

 どうせ、仕えた主はもういないのだ。幻乃が何をしたところで、責任を問われる人間は幻乃ひとり。ならば気に入らないものすべて、切り捨ててしまえばいい。


「この、無礼者が……!」


 俊次の取り巻きたちが警戒を露わにする。しかし、意外にもそこで周囲の者を嗜めたのは、俊次その人だった。


「よせ。気に食わんやつだが、腕はたしかだ。手を出すな。これ以上戦力を散らすわけにはいかん。……貴様もとっとと去れ、幻乃。十年来の顔見知りのよしみだ。この場は見逃してやる」


 果たして見逃すのはどっちなのやら。腰が引けている取り巻きたちに吹き出しそうになりつつ、幻乃は「承知いたしました」と頭を下げた。


「酒井殿は、これからどうなさるのですか」

「三条の犬に話すことはない」

「俊一さまの墓は、どちらに?」

「よそ者は、知る必要のないことだ」

 険しい声音を受けて、幻乃は肩をすくめた。



 生死の境界線を踏み越え掛けて約ひと月。

 生き恥をさらすことを強いられた挙句、十五年仕えた家を家財もなしに追い出された幻乃は、はてさてどうしたものかと眉根を寄せながら、旅路につく。

 幻乃に帰る場所はない。頼れる者も、誰もいない。おまけ守る者もいなければ、仕える主人もないときた。ないない尽くしの中で、残ったものは刀だけ。その刀さえ、振るう大義がなければただの辻斬りで終わってしまうのだから、どうしようもない。

 どうしたものかと考えながら、夜となく朝となく、幻乃はひたすらに足を動かした。どうしてこんなことになってしまったのかと問われれば、答えはひとつしかない。

(すべて、俺を生かしたお方が悪いよなあ……!)

 行きは商人に同行させてもらった山道を、体力の戻りきらぬ体を抱えながら、孤独に歩く。八つ当たり交じりに石つぶてを蹴りながらたどり着いた先には、ここ二週間ですっかり見慣れた、佐和山城が建っていた。

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