7
刀以外のすべてを失くした幻乃が行ける場所といったら、自由に使っていいと言われた直澄の部屋だけだった。元よりあの男が意味も分からず幻乃を生かさなければ、こんなことにはなっていないのだ。
(療養しろと言ったのはあの人だ。居着けるだけ居着いてやる……!)
顔馴染みの門番に挨拶をして、幻乃は夕焼けに照らされた門をくぐる。療養していたときから客人扱いをされているからか、屋敷の奥へと早足に進む幻乃を見ても、誰も止めようとはしなかった。己の居場所であったはずの街からは追い出されたというのに、敵地であったはずの場所には当たり前のように受け入れられるというのだから、皮肉なものだ。
静謐な美をたたえる石庭を横目に、幻乃はずんずんと廊下を進む。探し人の姿は、寝室にたどり着く直前で見つかった。
彦丸と立ち話をしていたらしい直澄は、幻乃に気付くとぱっと口を閉ざした。対照的に、目を見開いた彦丸は、皺の多い顔をさらに皺だらけにして、「幻乃さん! あんたという人はまったく!」と呆れたような声を上げる。
「やーっと戻ってきおったか! 幻乃さん、あんた、療養の意味が分かっとるのかね。何も言わずに出てったと思ったら、三日経っても戻ってこないとは何事じゃ! 隣の藩に出掛けて行ったとお鶴ちゃんから聞いて、儂がどれだけ肝を冷やしたことか!」
ぷりぷりと怒る彦丸は、本気で幻乃を案じてくれていたのだろう。その優しさが眩しく思えて、幻乃は思わず唇を綻ばせる。
「ご心配をおかけしたようですみません。でも、無茶はしていませんから」
「腹をぱっくり斬られた者が、ひと月もせんと山越えするのは無茶っちゅうんじゃ、この阿呆! ちょっと自分の体が強いからって、侍というのはどいつもこいつも!」
宥めるつもりで声をかけたが、火に油を注いでしまったらしい。かんかんになって怒る彦丸の勢いにたじろいでいると、それまで口を閉ざしていた直澄が、取りなすように「彦爺」と間に入ってくれる。
「そこまでにしておけ。世の情勢を幻乃に伝えたのは俺だ。縁ある地が戦火に呑まれたと聞けば、気になりもするだろうさ」
「儂は、患者を興奮させるようなことを伝えるのは控えていただきたいと再三進言しましたぞ、直澄さま。大体、あなた様もあなた様です。ここのところ生傷が多すぎます。藩主はあなた様おひとりなのですから、お体をもっと大切にですな――」
「分かった、分かった。そう興奮するな、彦爺」
控えめながら、直澄は紛れもない笑みを唇に浮かべて彦丸を宥める。その人間味あふれた柔らかい表情を見て、幻乃は思わず硬直した。
笑えるのか。――と言うのもおかしな話だが、こういう人間らしい顔もできるのかと驚いたのだ。
何しろこれまで幻乃が見たことのある直澄の表情といえば、せいぜい冷笑か仏頂面くらいだ。ともすれば、凶悪な笑みを浮かべて人を斬っているところしか印象に残っていない。てっきり氷のように冷酷な、血の通わない人間かと思っていた。
幻乃が固まっている間にも、好青年然とした笑みを浮かべた直澄は、困ったように彦丸と言葉を交わし続ける。
「彦爺が俺を気にかけてくれていることは嬉しく思うが、今は状況が状況だ。藩主とはいえ……いや、藩主だからこそ、動かなければならないこともある。許せ」
「む……、直澄さまがお決めになられたことに、反対するつもりはないのです。ただ、心配している者は儂だけではないのですぞ。どうか、お忘れなきよう」
「分かっているとも。……さあ、そろそろ夕餉どきだ。行くと良い。引き止めてすまなかったな。手当てをしてくれて、ありがとう」
その言葉に直澄の体をざっと眺めれば、なるほど腕に軟膏を塗ったばかりと思わしき、細かい傷がいくつも伺えた。ちょうど手当てを受けていたところだったらしい。
「薬はこまめに塗り直してくだされ。では、儂はこれで」
「ああ、よく休んでくれ。……幻乃」
名を呼ばれて、ぴくりと幻乃は肩を揺らした。彦丸に向けていた穏やかな顔とは打って変わった仏頂面で、ついて来いとばかりに直澄は顎をしゃくる。
彦丸に会釈をしながらその場を辞し、幻乃は無言のまま、直澄の背を追いかけた。屋敷の裏口と思わしき場所で竹刀を二本取り上げて、直澄はそのまま森の中へと足を伸ばす。どこまで行く気かと眉を顰めたそのとき、周囲と比べて開けた場所で、ぴたりと直澄は足を止めた。
竹刀を一本放られて、反射的に受け取った後で、幻乃は口元を引きつらせる。
「何のおつもりですか?」
「気晴らしだ。付き合え、幻乃」
「直澄さんは、真剣しか握らないのかと思っていましたよ」
「普段はな。今は別だ。勝負の見える斬り合いをしても、昂らない」
「……なるほど?」
要は、幻乃は直澄より弱いと言っているのだ。あからさまな挑発だが、幻乃は乗ることにした。小浜藩での出来事のせいで、内心穏やかではなかったし、いい加減斬り合いに飢えていたというのもある。練習用の竹刀を使ったお遊びでも、ないよりはましだ。
「いいですよ。気晴らしをしましょう――か!」
言うが早いか、幻乃は膝が地面につくほど低く踏み込んで、下からななめに切り上げる。一歩足を引いてそれを受け止めた直澄は、足を引いたことを恥じるように、上段に大きく竹刀を構えて、ぐっと顎を引いた。
「待てもできないのか?」
「主人には教わっておりません」
言葉を交わした直後、ふたりは同時に動き出す。
互いの太刀筋を確かめるように、受け流しては攻め込んで、何度も竹刀を合わせた。真剣とは違う軽さが物足りないが、鈍った体を解すのには悪くない。
直澄の大柄な体を生かした広い間合いと剛剣は、剣士としてかくあるべしという正統派の強さを有していた。対する幻乃は、小柄な体ゆえの速さと身軽さを生かした、絡め手を得意とする。互いに好む戦法が真逆だからこそ、自分にとっては当たり前の一手が、相手にとっては意表をつく手となるのが、刺激的だった。
「さすが、お強いですね」
「そちらこそ」
「羨ましいですよ、その体格」
「思ってもいないくせに」
「あは。そうです、ね!」
夕焼けに照らされて、散った汗がきらめく。
ひと振り、またひと振りと打ち合いを続けるうちに、いつしか周囲の音が聞こえなくなるほど、幻乃は直澄との手合わせにのめり込んでいた。竹刀の切っ先で、直澄の間合いにわずかに触れる。すると、驚くほどの繊細さで、直澄はそれに反応し、応えるように幻乃に竹刀を向けてくれた。
絡み合う視線に、熱が籠る。気づけば、辺りはすっかりと暗くなっていた。
言葉などいらない。同じ熱意を持ち、同じ高みに至るまで、真摯に剣の腕を磨いてきた者なのだと、斬り合えばよく分かる。
いつしか幻乃の唇には、作り物ではない笑みが浮かんでいた。対する直澄もまた、先ほどまでの藩主の顔をすっかり脱ぎ捨て、獣のごとき笑みを浮かべている。その獰猛な視線を向けられると、肌という肌がちりちりと疼くようだった。やけっぱちになっていた気分などすっかり忘れて、幻乃は刀の世界に思う存分身を浸す。
永遠にこうしていたいと思う反面、なぜ今この手が握っているのは真剣ではないのだろうと、心の底から惜しく思う。明日も次回も存在しない、何より恋しい最後の一秒が今でないことが、もどかしくてならなかった。
「く……っ」
打ち合いのさなか、直澄の上段切りをまともに受け止めた瞬間、思い出したように腹の傷がずきりと痛んだ。幻乃の動きが鈍ったその一瞬を逃さずに、直澄は竹刀を横薙ぎに一閃する。
「――はあっ!」
「……っ」
直澄の裂ぱくの気合いとともに、幻乃の竹刀が打ち上げられる。木に向かって真っ直ぐに飛んでいった幻乃の竹刀は、真っ二つにへし折られていた。
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