8

 膝をついた幻乃は、痺れる手を握り込む。うなだれかけたそのとき、武骨な手がすっと視界に入り込んでくる。刹那の逡巡の後、幻乃は「参りました」と苦笑しながら、直澄の手を取った。


「また、俺の負けですね」

「ただの手合わせに勝ちも負けもあるものか。怪我もまだ治りきってはいまい」 

「おや。その分、手加減をしていただいていたようでしたが」

「人のことは言えまい。お前も左は狙わなかったろう」


 開かぬ左目を指さしながら直澄が言う。幻乃は肩をすくめて、「殺し合いなら狙います」と一言返した。


「弱みを突いて、持てる限りの力で向き合いますよ。そうしない方が無作法というものでしょう。追い込まれた者と斬り合うときが、一番楽しいですから」


 握り込んだ手のしびれに、愛おしむように意識を向ける。先ほどまで感じていた闘争の喜びの、余韻ともいうべきその感覚に浸っていると、高揚を押し殺したような直澄の声が耳に入り込んできた。


「同意しよう。くだらないしがらみも何もかも捨てて、高め合える。命を切り捨てるあの一瞬の感覚に、勝るものはない」


 顔を上げる。直澄は、無理やりに笑顔を抑えつけているかのような凶悪な顔で、まっすぐに幻乃を見つめていた。斬り合いの余韻か、ぎらぎらと輝く隻眼には、幻乃にも覚えのある暗い熱が宿っている。


「お前とのは楽しかったな、幻乃。またやりたいものだ」


 その言葉が指すものが、たった今終えたばかりの手合わせではないことは明白だった。


「……だから生かしたとは言いませんよね」 

「否。だが、これが真剣だったなら、と思わずにはいられない」

「藩主の言葉とは思えませんね。戦闘狂呼ばわりされませんか?」

「俺が求めているのは戦闘ではない。斬り合い、命を取り合う一瞬だ。強者と高め合う瞬間。弱者が死に物狂いで抗い燃やした命を喰らう、あの瞬間。別に、誰に理解してほしいとも思っていない」


 理性を宿した正気の目で、紡がれる言葉は狂気に満ちていた。直澄の言葉を聞いて、幻乃は笑い出したくなった。

 直澄と斬り合いたいと、どうしてあんなにも焦がれてきたのか。

 直澄が幻乃を生かしたことが、なぜこんなにも許しがたいのか。

 ――きっと自分たちは、似た者同士だからだ。

 幻乃も直澄も、立場は違えど刀を愛し、命の取り合いに魅了されている。


「分かりますよ。よく、分かりますとも」

「――酒井俊一殿の最期を知りたいか?」


 会話になっていない会話に、幻乃は軽く眉をひそめる。せっかく良い気晴らしができたというのに、小浜藩での出来事を思い出して胸が悪くなってきた。

 直澄は、返事を待つように幻乃をじっと見つめる。このままずっと、答えるまで待ち続ける気なのだろうか。そう思ったら、返事をもったいぶるのも馬鹿馬鹿しくなった。


「……いいえ、別に。たしかにもう生きてはいないと確かめました。それで十分ですよ」

「なぜ。仕えて長い主だったのではないのか」

「そうですね。俊一さまには、長くお世話になりました。高潔なお志も、尊敬しておりましたよ。ですが、死ねば皆、残るのは骨だけです。刻んだ結果だけが、その者を語るよすがとなるべきだ。死に際に興味はありません」


 俊一は幻乃に戦場を与えてくれた。幻乃はその対価として俊一に仕えた。忠誠というよりは、相互利益の上に成り立つ雇用関係に近かった。墓参りくらいはしたかったけれど、それも幻乃の感傷でしかない。

 言い切った幻乃を見て、直澄は理解できないとばかりに眉間に皺を寄せた。


「興味がない、だと……? お前は、小浜の下町を見てきたのではないのか」

「ええ。この目で確認しましたよ。直澄さんの言ったとおり、俺の知る小浜藩はなくなっていました。時代の移り変わりというものは、とかく無常で寂しいものですね」

「それだけか」

「はい。まあ、俺は元々流れ者ですから。ひとところで生まれ育った方ほど、土地への思い入れは強くないのでしょう。俊一さまにしたって、今にして思えば、元々お覚悟を決めておられた節があった。別にそのことで直澄さんを恨むつもりはありませんよ」


 表情を険しくした直澄を見て、幻乃は首を傾げる。薄情だと言われればそれまでだが、そんなにおかしなことを言ったつもりはなかった。誰も彼もが暑苦しい忠義を抱えて主人に仕えるわけではない。斬り合いを愛するという点では同じだというのに、直澄は見た目よりも情の深い人間なのだろうか。


(分からない人だな)


 肩をすくめた拍子に、乱れた髪が首元をくすぐった。解けかけた髪を雑に結い直すと、汗と泥と、何日も身を清められずに溜まった油のせいで、ごわついたひどい感触が伝わってきた。藩主の前に見せる姿ではなかったと今さらながら気がついて、きまり悪く幻乃は頭を下げる。


「……お見苦しい姿をお見せしました。何分、山道を歩き通しだったもので」

「構わない。誘ったのはこちらだ」

「水場をお借りしてもよろしいですか?」

「湯に浸かる方が早いだろう。離れに内湯があるから、使え。傷が閉じているのであれば、彦爺もとやかく言うまい」

「よろしいのですか?」


 直澄の言葉に、幻乃は目を輝かせた。彦根の地は、温泉が多く湧いていることでも名高いのだ。


「かたじけのうございます。……ああそうだ。大変厚かましいことをお聞きしますが、直澄さまのお言葉は、いつまで有効でしょう?」

「いつまで? 何の話だ」


 直澄が不機嫌そうに眉根を寄せる。手合わせが終わった直後は上機嫌に見えたのに、何がそんなにも琴線に触れたのだろうか。幻乃より二、三歳ほど年若かった記憶はあるが、こうも感情が表情に現れるのは、藩主として大丈夫なのかと他人事ながら心配になった。

 にこりと微笑み、幻乃は猫撫で声で口を開く。


「『療養しろ。行動を制限はしない。部屋は好きに使え』――俺が目を覚ましてすぐに、直澄さんが仰ったお言葉です」

「ああ……」

「お恥ずかしいことですが、金も仕事も住む場所も、すべて失くしてしまったようでして。腕っぷしだけが自慢だったのですが、それも腹をかっ捌かれた挙句、武士の情けもかけていただけなかった現状では、どうにもこうにもままならず……、いやはやまったく情けない。直澄さんの掛けてくださったご温情には痛み入るばかりでございます」


 笑顔の裏にささやかな毒を込めつつ、努めて明るく幻乃は話す。


「もちろんこの幻乃、いただいたご恩はお返しすると決めております。人と話すのは好きですし、花街の姐さま方ともお付き合いがありますよ。彦根の地では、まだまだ知り合いは少ないですが、ひと月もいただければ友人も増えましょう。見ての通り体格には恵まれなかったもので、地下でも屋根裏でも、潜り込むのはお手のものです。何分お屋敷というものは広いですから、何人清掃人がいても、損はありますまい」


 幻乃はぺらぺらと調子よく舌を回す。飾った言葉を削ぎ落とせば、要は『情報が欲しいなら集めてくるし、忍の真似事だってできる。だからここに住まわせろ』と、幻乃は直澄に己を売り込んでいるのだ。


「お望みならば、邪魔な鼠の首を落とすのも得意です。……ああ、もっともそれは直澄さんの方がかもしれませんね」


 あの日、幻乃がすべてを失うきっかけとなった雷雨の夜、直澄と邂逅したときのことを思い出しながら、声を落とす。

 藩主がいるはずのない、小汚い路地裏にいた直澄。あたりに散らばる、きれいに首を斬られた複数の死体。殺意と興奮で底光りする直澄の隻眼と、この身で受けた一閃の素晴らしさ。

 思い出すだけで、口角が自然と上がっていく。


「ご安心ください。口は固い方だと自負しております。あの日あなたがどこで何をしていたのか、誰にも言うつもりはありません。……だから、俺をここにいさせてはくださいませんか」


 俺を生かした責任を取ってください。

 愛を囁くように、幻乃はひそやかに言葉を紡ぐ。物言いたげに眉を寄せた直澄は、けれど言葉を飲み込むように視線を落とすと、「好きにしろ」と一言呟いた。


「言ったとおりだ。お前の行動を制限しはしない」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますね」


 言質は取った。「それでは、失礼いたします」と軽やかに告げて、幻乃はにこにこ微笑みながら踵を返す。

 去りゆくその背を、暗い熱を宿した瞳で直澄が見つめていたことには、気づかなかった。

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