9

 すっかりと日の落ちた森の中、鈴虫の鳴き声が静かに響く。

 離れにあるひのき造りの湯殿は、藩主とその家族のために、何代か前の当主が建設したものらしい。奉公人たちは下町の銭湯や本邸の大風呂を使うので、内風呂を使う者はほとんどいないのだとか。幻乃を案内しながら、おしゃべりな下男はそう教えてくれた。


「とは言っても、直澄さまには奥方もお子様もいらっしゃらねえし、残るご家族と言ったら年の離れた弟君くらいだが、あの方はお体が弱くていらっしゃる。直澄さま以外にここを使うのなんて、あんたみたいな色小姓くらいじゃねえかな」

「……い、色小姓?」


 さすがに笑顔が引きつった。童顔の自覚はあれど、幻乃は小姓と呼ばれるほど若くはない。まして衆道の相手を務める色小姓と勘違いされるとは、人生で初めての経験だ。

 幻乃の素っ頓狂な声を聞いて、下男はぱちくりと目をしばたたかせる。


「違うのかい。あんたが怪我をして寝込んでいた間、直澄さまはそれはそれは甲斐甲斐しく通ってたって聞いたよ。その格好だし、てっきりお相手を務めたあとなのかと思ったが」


 だってそれ、直澄さまのお着物だろう。

 腫れ物を見るような目と気遣わしげな声音を向けられて、幻乃は意識を飛ばしたくなった。直澄の服を勝手に拝借していったツケが、こんなところで来るとは予想もしていなかった。


「……あのお方は、これまでそんなに何人もの色小姓をつけてこられたので?」


 尋ねれば、困ったような顔で下男は頬をかいた。


「なんだ、悋気りんきかい? 余計なことを言っちまったかな。怒らないどくれよ」

「断じて違います、好奇心です」

「そうかい。まあ、なんでもいいさね。ええと、色小姓の話だったな。何しろ直澄さまはあの美丈夫だろ? おまけに俺たちみたいな下男にも優しい人格者ときた。つまるところ、完璧な藩主さまなわけよ」


 夢見るように瞳をきらきらと輝かせて、下男は語る。直澄に人格者の面など本当にあるのだろうか。疑わしくは思ったが、空気の読める幻乃は口を挟まないでおいた。


「女にはもちろん、男にも好かれる。若ぇやつらは特にそうじゃねえかなあ。俺だって、直澄さまに声を掛けられたら舞い上がっちまうもん。小姓も色小姓も、なりたがるやつは多いよ。一時期は、よく寝室に出入りするやつらを見かけたっけなあ……」


 下男は思い出すように目線を上にやった後、「あー……」となぜだか困ったような顔をして幻乃を見つめてきた。


「何ですか?」

「いや、色小姓って言ったら、普通は美少年だと思うだろう? ところがどっこい、あんたくらいの小柄でパッとしない男が多かったんだよな……。直澄さまの好みは分からねえなあと思った覚えがある。どいつもこいつも一回限りで、長続きはしなかったから、よっぽどご無体を強いるのかと噂になってた時があったなあ。あ、これ、言わないでくれよ!」


 言うだけ言って、口から生まれてきたようなその下男は幻乃を湯殿に届けると、そそくさとその場を離れていく。残された幻乃といえば、笑顔の裏で頬を引きつらせることしかできなかった。


(色小姓を取っ替え引っ替えか……。そう好色そうにも見えなかったが、人は見かけによらないな)


 首を振って、幻乃は湯殿へと足を踏み入れた。


 

 汗と泥とを洗い流して身を清めると、疲労も悩みも、何もかもが雪がれていくような心地がする。

 温泉らしくとろみのある湯は、隅に置かれた行灯に照らしてみると、わずかに白く濁って見えた。肩まで浸かると、ぴりぴりと沁み入るような独特の刺激が感じられて、なんとも言えず心地良い。


「……痛」


 体を伸ばした拍子に、腹の傷がズキリと痛んだ。視線を落とせば、赤く盛り上がった大きな刀傷が目に入る。

 傷跡は、幻乃の肩から太腿までを一直線に結ぶように、深く刻み込まれていた。ぷくりと膨らんだその跡をそっと撫でると、痛みとも痒みともつかない奇妙な感覚が広がっていく。


(あの一撃は、見事だったな)


 幻乃が磨いてきた技を真っ向からねじ伏せる、直澄の力強い剣筋。思い出しながら傷跡をたどるだけで、あの夜の興奮と、負けた悔しさに勝る感動を思い出す。

 今日だって、切れもしない竹刀だというのに、直澄に剣先を向けられるだけで、首の後ろの毛が逆立つような感覚に襲われた。あの鋭い眼光を向けられると、戦意をかき立てられてたまらなくなる。

 直澄の傲慢な態度をねじ伏せることができたら、どれほど気分が良いことだろう。袈裟斬りにしてやったとしたら、どんな顔をして苦しむのだろうか。

 知らず、息が荒くなっていた。ぞくりと全身が粟立つ感覚に、まずいと思ったときにはもう遅い。

 精神の興奮は、そのまま耐えがたい肉体の興奮へと置き換わっていた。


(気が緩みすぎた)


 幻乃は顔を覆って天を仰ぐ。

 気を逸らそうにも、一度思考がそちらに向いてしまうと、止めようがない。そういえばここひと月というもの、傷の療養に榊藩の情報集めにと忙しくて、欲の処理どころではなかった。

 のろのろと湯から上がって、幻乃は洗い場に座り込む。人を斬ってこうなることは珍しくもないけれど、たかだか手合わせで昂ってしまうとは思わなかった。我がことながらうんざりする。

 足の間に手を伸ばし、硬く屹立したそれを握り込む。ゆっくりと手を動かすと、久方ぶりに感じる感覚に息が詰まった。立てた膝に片腕をだらりとついて、幻乃は顔を隠すように俯く。別に誰が見ているわけでもないけれど、晒して嬉しい顔ではない。


 衆道にこそ手を出したことはないけれど、幻乃とて性欲は人並みにあるし、馴染みの女たちと駆け引きじみた遊びを楽しみもしてきた。けれど、異性の柔らかな肌よりも、ねやで聞くみだらな声よりも、何より幻乃を昂らせてくれるのは、命をかけた争いだ。

 目を閉じ、瞼の裏に思い浮かべるのは、つい先ほどの直澄との立ち合いだった。

 振り下ろされる竹刀の、惚れ惚れするような軌跡。目にも止まらぬ刺突の鋭さ。いくら打ち込んでもぐらつかない、大木を相手取っているかのような安定感。

 己の小柄な体格を疎んでいるわけでは決してないけれど、それはそれ。直澄の鍛え上げられた肉体と技には、同じ剣士として羨望と憧憬を抱かずにはいられない。

 こちらを射殺さんばかりの鋭い視線を思い出した瞬間、幻乃の脳裏に浮かぶ景色は、あの夜の路地裏での斬り合いに変わっていた。浅く上がり始めた息を殺すように、幻乃は額を己の腕に強く押し付け、唇をぺろりと舐める。

 一手間違えば死ぬからこその緊張感は、幻乃の知るどんな娯楽よりも刺激的だ。麻薬に手を出したことはないけれど、脳を馬鹿にするようなあの興奮と依存性は、禁じられた薬物よりもよほど効くのではないかとすら思う。


 ――ああ、斬りたい。


 直澄を斬ったら、どんな顔をするのだろう。信じられないものでも見るかのように、間抜けに呆けた顔をするのだろうか。それとも、最後の最後まで斬り合いを楽しんで、獰猛な笑顔を浮かべるのだろうか。

 見てみたい。直澄のお高くとまった表情を、乱して引きずり落として踏みにじってやりたかった。

 自分を斬った男を想って己を慰めるだなんて、自分でも気が触れているのではないかと思ったけれど、それが最も興奮するのだから仕方がない。湯けむりから身を隠すように背を丸めながら、幻乃は己の手で生み出す快楽に、しばし耽った。

 不意に、かたりと扉の外で音が響いた。幻乃はぴくりと肩を揺らして、顔を上げる。

 誰の姿も見えない。けれど、湯殿の外に、たしかに気配を感じる。聞こえてきた音は、動揺から立てられた音か、はたまた幻乃に存在を知らせるためにわざと鳴らした音なのか。


(……どっちでもいいか。見られたのなら、今さらだ)


 疲労と興奮で馬鹿になった頭で、ぼんやりと考える。

 壁の裏で息をひそめている『誰か』に見せつけるように、幻乃は腹の傷跡に爪を立てた。

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