10
引きつるような痛みでさえ、興奮しきった今の体には、快楽としか感じられない。
わずかに開いた扉の隙間から、強い視線を感じた。こちらの一挙一動までもを見透かすような、幻乃を捕らえて離さない、あの鋭い眼差しだ。
視線が絡み合った瞬間、目の前が真っ白に染まる。きつく目を閉じた幻乃は、俯いて息を整えた。
熱に浮かされた頭が、わずかばかりの冷静さを取り戻したころ、幻乃はさっと自慰の痕跡を片付けて、口を開く。
「……どうぞ。湯浴みにいらっしゃったんでしょう、直澄さん」
ためらうように数秒の間を置いて、直澄が洗い場に姿を現した。現れた直澄を見て、幻乃は軽く目を見開く。
「おや、そういう装いは、初めてですね」
「……風呂場で装いも何もあるか」
直澄が総髪を解いているところは初めて見た。
体は男のものでしかないのに、濡れ羽色の長髪と、整った顔立ちだけを見ていると、性別が分からなくなりそうな妙な色気があった。女にも男にも人気があるというのも頷ける。
ちらりと幻乃に視線を向けた直澄は、そのまま人三人分ほど置けそうな距離を開けて腰を下ろすと、頭から勢いよく湯を被った。
さも何事もありませんでしたとばかりの直澄の無表情に吹き出しそうになりながら、幻乃は意地悪く口角をつり上げる。気遣ってもらったところ申し訳ないが、そういう顔をされればされるほど、幻乃は人をからかいたくなる性分なのだ。
「直澄さんも好き者ですね。男の手淫なんて、覗いたところで面白いものでもないでしょうに」
「別に、覗きたくて覗いたわけではない」
間髪入れずに返ってきた返事は、直澄らしくもなく憮然とした響きを帯びていた。気付いた瞬間に立ち去ることもできたのに、息を殺して眺めていた時点で、その言葉は嘘になる。けれど幻乃はあえて指摘することはしなかった。元はと言えば自分のものでもない湯殿で事に及んだ幻乃が悪い。
「それは失礼しました」と笑い混じりに呟きながら、幻乃は直澄の後ろでそっと膝をついた。
裸でも警戒を解かない直澄の姿勢に惚れ惚れする。鍛え上げられた背をじっくりと眺めながら、幻乃は垢すりを手に取った。
「お背中をお流ししましょうか」
「何の真似だ」
「何の、と申されましても」
藩主ともあろうものが小姓ひとりも付けずに風呂場に来たものだから、現状ただ飯食らいの幻乃としては、一応の気を遣っただけだ。そんな旨を答えながらも、湯殿に入る前、下男に色小姓と勘違いされたことを思い出して、なんとも言えない気分になった。
複雑な気持ちは飲み込んで、一宿一飯の恩義にとごり押せば、直澄はあえて幻乃の申し出を固辞することはしなかった。
「傷が多いんですね」
「他人のことが言えるのか」
「俺はまあ、荒事が本業なので。直澄さんとは違います」
直澄の背にこそ傷はないものの、腹や腕、腿には無数の傷がついていた。幻乃の体とそう変わらないというのは、地位を考えるとおかしなことのようにも思える。
「しかも最近のものばかりでもなさそうですし……。直澄さんは、謎めいたお方ですね」
背を洗いながらそう呟けば、直澄はなぜか困惑したような目を幻乃に向けてくる。そういう顔をされるとますます構いたくなってきた。
「目の傷が、一番深い古傷でしょうか?」
額から顎まで走る、直澄の左目を潰した深い傷を見ながら、幻乃は首を傾げた。
がたがたと引きつった古い傷跡は、刀で斬られたというよりは、切れ味の悪い何かで押し切られた跡のように見える。投擲用のクナイで人を斬れば、こんな切り口になるかもしれない。生い立ちゆえ幻乃も時折クナイを使うことはあるが、そうでもなければ、クナイを使うのなど忍くらいだ。誰かに暗殺でもされかけたのだろうか。
「いつ受けた傷です?」
「……十年前」
「と言いますと、直澄さんは元服したてですよね? どこの誰に受けたものなんですか?」
「『誰に』だと……?」
直澄は、どこか恨みがましい目で幻乃を睨みつけてきた。聞いてはまずいことだったのか、と幻乃は取り繕うように早口でまくしたてる。
「いえ、ただの好奇心です。いくら幼いころとはいえ、直澄さんともあろうお方がそんな深手を負うなんて、相手は相当な手練れだったのだろうなと思いまして。失明するほどの傷を負わされて、よくお命は無事でしたね」
「…………。『生かされた』んだ。本気で言っているなら、大した煽りだな」
「え? どういう意味ですか?」
そんなに聞かれたくないことなのかと思うと、余計に好奇心をそそられた。けれど幻乃が踏み込むより前に、それ以上の問いを拒むように直澄が口を開く。
「お前はどんな神経をしているのか、理解に苦しむ」
憮然と吐き捨てられたものの、幻乃には本気で心当たりがなかった。幻乃の困惑に気付いたのか、直澄は嫌そうに言葉を足す。
「ぺちゃくちゃと喋り続けて、気負いのひとつも感じやしない」
「おや、気負いが必要でしたか? 今さらかと思いましたが」
何しろ直澄とは命を賭けて斬り合った仲であるし、あの夜に直澄と遭遇したことで、幻乃はある意味、彼の秘密を共有している。加えてこのひと月もの間、動けなかったとはいえ幻乃は我が物顔で直澄の寝床を占領してきたのだ。言葉だけは一応の敬意を表すようにしているが、遠慮も緊張も、今さらあろうはずもない。
「お望みでしたら、節度を持った振る舞いを心掛けますが」
「いらん」
ぎろりと睨みつけられる。こんなにも良い湯殿だというのに、直澄は何をそんなにかっかとしているのだろう。宥めるように擦り加減を強めてみたが、直澄は幻乃を手で押しのけるだけだった。
「……手淫を見られた直後に、よくもそう平然としていられるものだ」
「だって、溜まれば誰だってするでしょう。見た側はまた別でしょうが、別に俺は見られたところで困るわけでもないですし。直澄さんも湯殿にいらっしゃると知っていたら、控えましたがね。竹刀とはいえ、久しぶりに刀を振るえたものだから、すっかり昂ってしまいました」
いやはやお恥ずかしい、と思ってもないことを呟けば、不機嫌を表すように直澄の眉間の皺が深まった。仏頂面かと思いきや、意外にも直澄は表情豊かで面白い。
「直澄さんは興奮しないんですか。あれだけ激しくしたのに」
「妙な言い方をするな」
打てば響くように反応してくるところなんて、からかいがいがあるにもほどがある。
「抜かなければ収まらないほど昂るのは、血を浴びたときだけだ」
その上、嫌そうな顔をしながらも律儀に答えるものだから、もはや幻乃は笑いを堪えるので必死だった。
「ふ、ふふ……っ、な……、なるほど。ええ、分かりますよ。斬り合いはまた格別に、刺激的ですからね。小姓をおつけにならないのは、そのせいですか? 返り血で濡れた姿を見せたくないから?」
「違う。いちいち動きを制限されるのが煩わしいから、つけないだけだ」
「色小姓はおつけになるのに?」
「……つけなくて済むならつけていない。その分の手当ては渡しているし、向こうから望んできた者だけだ。人を斬ると、肌を合わせなければ収まらない。女では、相手が先にへばってしまう」
「それはそれは……」
面白くもなさそうに語る直澄の声は、心底辟易しているとばかりに沈んでいた。なるほどあのおしゃべりな下男の勘繰りも、丸ごとただの下世話な想像というわけでもないらしい。幻乃のからかいにも律儀に答える性格からして、直澄が閨の相手に好んで無体を強いるとも思えない。単純に、並の者では相手が務まらないほどに精力が強いのだろう。
人は見た目によらないと言うべきか。直澄の美貌は精悍というよりは、刀のような鋭い美しさに近いから、劣情に悩まされる直澄というものはどうにも想像しにくかった。
疲れたように目を伏せた直澄は、「その傷」と幻乃の腹を指差しながらぽつりと呟く。
「ああ、おかげさまで、もう塞がってはいますよ。治りきってはいないので、まだ痛みますけどね」
「そんなことは聞いていない」
ばさりと直澄は言い捨てた。会話というものをする気はないのだろうか。
背に湯を掛けようとした幻乃を制して、直澄はさっさと湯に向かっていく。湯に体を沈める水音が、静かに響いた。
行灯の頼りない光が、湯に濡れた直澄の体を淡く照らし出す。濡れ髪をまとめて肩に流す仕草といい、肩を回すたびに見え隠れする筋肉の線といい、直澄の後ろ姿には、しなやかな獣のような、えも言われぬ艶があった。
「――幻乃」
「……っ! はい、なんでしょうか」
頬を叩かれた気分だった。声を掛けられてはじめて、自分が直澄に見惚れていたのだと知る。慌てて取り繕いながら返事をすれば、振り返らぬまま直澄は言葉を紡いだ。
「時折、疑わしくなる。お前が俺に切り掛かかってきたのは一度だけ。それ以外は借りてきた猫のように行儀よくして、牙を見せない。お前は、俺に殺されかけたことを忘れたのではあるまいな」
「まさか。忘れようにも忘れられませんよ」
「ならばなぜそうもへらへらとしていられる? 理解できない」
「それはまあ、職業柄といいますか」
にこにこと微笑みながら、幻乃は雑に束ね上げていた髪に手を伸ばす。仕込んでいた長針を、前動作なしに抜き取り、幻乃は直澄の首筋目掛けて瞬時に投擲した。
振り返りもせずに、直澄は首をわずかに傾ける。
肩をすくめて、幻乃は笑う。
「――とまあ、こんな具合に。こちらが友好的な態度を取れば取るほど、油断してくれる方が多いもので、都合がいいんです。でもさすが、直澄さんには通用しませんね」
「小姓の真似事も、そのためか」
「いえ、それは別に。直澄さんの反応が面白かったので、つい」
でも、忘れたわけではないですよ、と腹の傷跡を指でなぞりながら付け足せば、いよいよ疲れ果てたとばかりに直澄は眉間に深い皺を刻みこんだ。
「本当に、理解できない」
「分からない方が好奇心がそそられるでしょう。人生には刺激と面白みがなくては」
「求めていない」
「残念です」
深々とため息をついた直澄は、そう浸かってもいないだろうに、さっさと湯を上ると扉をくぐっていってしまった。
「忘れてなんて、いませんよ」
くすくすと笑いながら、幻乃はひとり呟いた。
いつか絶対に殺してやる。そのために今は、傷を治し、力を蓄えなくては。
「ああ、でもさすが、お強い方だ……」
ほう、とため息がこぼれ落ちた。恋しい人を想うような眼差しで、幻乃はうっとりと、直澄が出て行ったばかりの扉を見つめる。
くしゅん、と控えめにくしゃみをする音が、外から聞こえてきた。直澄の図体に似合わぬかわいらしいくしゃみに、吹き出すように幻乃は笑い出す。
傷ひとつない背中は強さの証。あの美しい背に傷を刻んでやった日には、さぞかし気分がいいことだろう。
機嫌良く鼻歌を歌いながら、幻乃もまた、直澄を追うように扉をくぐり抜けた。
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