第二章 秋月に戯れ

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 寝床と飯を三条家の世話になりながら療養する日々は、気付けば早二ヶ月を過ぎていた。

 季節は鮮やかな紅葉こうようと満月が眩しい、中秋を迎えていた。昼に山を見やれば、赤、黄、茶と色とりどりの葉が目を楽しませ、夜に空を見上げれば、一際明るさを増した月が、美しくきらめいている。


 幻乃はといえば、ひたすらに土地と人々を知ることに専念していた。彦丸の手伝いがてら屋敷を散策することもあれば、町に降りて人助けをして回ることもある。職業病とでもいうべきか、常に最新の情報を集めておかないことには、どうにも枕を高くして寝ることができないのだ。

 幻乃が彦根の地で暮らして二ヶ月――言いかえれば、幻乃と直澄が同じ部屋で、奇妙な共同生活を過ごして、それだけの時がすでに過ぎていた。腹の傷の赤みもおさまり、刀を振るたびに感じていた、引きつるような痛みもなくなって久しい。


 そんな幻乃の目下の悩みは、並んだふたつの布団にある。

 見慣れた上品な和室の中央には、距離を置いて敷かれた布団がきっちり二組。自分の寝室だというのに、布団すら敷かず、壁に寄りかかって寝ていたいつかの直澄を思えば、横になって眠るようになっただけ、まだいいのだろうか。一瞬そんなことを思いかけて、いやそもそも部屋が同じなのがおかしいのだと思い直す。

 横になっていようとも、直澄は幻乃が身動きすれば即座に目を覚ます程度の浅い睡眠しか取っていない。幻乃とて人のことは言えないけれど、他人の気配のある場所では眠れないというのなら、それこそ幻乃を他所よそに移せばいいのにと思う。監視のためだとしても、どうせ昼には幻乃を放置しているのだから、直澄自ら幻乃と寝食を共にする意味はまったくもってないはずだ。


(まあ、この部屋にそもそもいないことも多いけど……)


 何をしに行っているのか、直澄は時折ふらりと姿を消しては、日が昇ってから何食わぬ顔をして帰ってくることがある。

 そういうときの直澄は、決まってどれだけ洗っても落としきれない血の匂いと、甘ったるい香油の匂いを身に纏わせていた。


(人を斬っているんだろうな)


 なぜ藩主自ら人斬りに出かける必要があるのかは知らないが、誰かと殺し合いをしてきた後、収まらない興奮を処理するために、馴染みの陰茶屋にでも行っているのだろう。それこそ幻乃を他所へ移して、自分の部屋で色小姓に相手をさせれば済むことだと思うのだが、幻乃には直澄の思考がさっぱり理解できなかった。


「直澄さんは難しいですよね」


 机に向かい、何やら書き物に精を出している直澄を眺めながら、ぼそりと幻乃は呟いた。寝巻きがわりの着流しに身を包んだ直澄は、筆を丁寧に置くと、ちらりと幻乃に視線を寄越す。


「何がだ」

「色々とです。刀を取り上げもせずに俺を隣に置く不遜さといい、藩主なのにおひとりでどこぞへと行く自由さといい、掴めないお方だ。何をやらせても嫌味なくらいにお上手なのも、不思議です」

「意味が分からん」


 ぶっきらぼうながら、幻乃の暇に飽かした雑談にまでいちいち付き合ってくれるのだから、律儀な男である。

 手慰みにと研いだばかりのクナイを手でもてあそびながら、幻乃はこれまでの聞き込みの成果をつらつらと挙げていく。


「腕っぷしは言うまでもなく、実務能力も優秀。寝る間も惜しんで仕事をする仕事中毒ぶりは家老泣かせながら、年配の家臣からの評価も高い。出入りする商人たちと直接話す姿勢が好感を集めている上、後ろ暗い取り引きを未然に防ぐ効果もある。お若い藩主なのに家臣に舐められるでもなく、かといって偉ぶったところもなく、話をよく聞いてくれると評判ですよ。あなたを悪く言う町人を見たことがありません。不気味なくらいにね」


 一気に言い切った後で、怪訝そうな顔を向ける直澄に、幻乃はにこりと微笑みかけた。


「良い藩主ですね、直澄さん」

「礼を言えばいいのか? それとも、この短期間で家老にまで顔を繋ぐお前の手腕を恐れた方がいいのか。……幻乃。俺の背後で忍具をいじくり回すなと何度言えば分かる。落ち着かない」

「別に後ろから切り掛かりやしませんよ。斬り合いは正面からやってこそでしょう?」

「そう言ってお前はこの間もそれを投げつけてきただろうが」

「暇だったんです。どうせ当たらないんだからいいじゃないですか」

「そういう問題ではない」


 直澄の文句を聞き流し、幻乃は「まあそれはともかく」と肩をすくめた。


「直澄さんが町人の皆さんに向ける顔の一割くらい、俺にも優しくしてくださってもいいんですよ。外向けの顔とおひとりでいるときの顔が違いすぎると、疲れませんか」


 直澄がお鶴や彦丸と話すときの、いかにも頼りがいのある好青年ぶりを思い出しながらそう言えば、直澄は皮肉げに唇をつり上げて言い返してきた。


「お前の胡散臭い言葉回しほどは疲れないだろうよ」

「俺はいつでもこの通りです。直澄さんと違って、相手を見て変えるわけじゃありませんから、いいんですよ」

「榊殿にそうしろと言われたのか。聞くに耐えない悪どい口を隠すために?」

「さすが、ご慧眼でいらっしゃる。お偉方と話す機会もないので必要ないとは言ったのですが、主人手ずから指導してくださるとなれば、お断りするわけにもいかないでしょう? ああ見えて俊一さまは厳しかったもので」

「主のかがみだな。余計なことをしてくれた。口の利き方を知らないままだったのなら、ここまでやかましくはならなかったろうに」

「ええまったく。頭が上がりませんね。……あれ。もうお仕事はいいんですか、直澄さん?」


 机の上をさっと片付けたかと思えば、刀を掴んで立ち上がった直澄を見て、はてと幻乃は首を傾げた。普段の直澄であれば、丑三つ時まで淡々と書物を読み書きしていることが多い。ところが今は、せいぜい亥の刻を回ったばかりだ。寝るにはいくらか早すぎる。


「また、お出かけですか?」

「掃除に出る」

「藩主ともあろうお方が自らなさることでもありますまい。俺に命じてくだされば、片付けてきますよ」

「必要ない。気晴らしだ」


 掃除と言っても、夜中に掃き掃除をするわけもない。直澄の険しい顔つきを見れば、夜半に訪ねてくる無礼者のであることは明白だ。外からちらちらとこちらを伺う気配があることは、クナイを手の中で回していたときから幻乃も気づいていた。


「相手は八人。家老の方が知ったら、胃痛で泣きますね」


 幻乃の言葉に、凶悪に笑うことで応えた直澄は、飢えた獣のような目をぎらりと輝かせる。


「なに、俺も一城の主だ。こんなにも月の美しい夜に、家臣たちの手を煩わせるのも気が引ける」

「……破天荒な主を持った家臣の皆さまの、ご心労が偲ばれます」

「気づかれなければ、どうということもあるまい」


 そううそぶいた直澄は、止める間もなく外履きを履くと、外へと飛び出していってしまう。

 相手に心当たりでもあるのか、はたまたここのところ『外出』していなかったせいで鬱憤が溜まっているのか。いずれにしても、嬉々として刺客に向かっていくとは、どうしようもない藩主である。年の割には老け込みの進んだ家老の顔を思い出して、幻乃はひとり黙祷した。


「さてと」


 軽やかに声を出しながら、幻乃は天井裏に潜む気配目掛けて、無造作にクナイを投げつけた。

 うめき声が上がる。転げ落ちるように外へ出てきた黒装束の忍が、脱兎のごとく逃げ出していく姿が見えた。

 にこやかにその背を見送った幻乃は、愛刀を腰に差しながらのんびりと呟く。


「俺も行くか」


 いくら直澄だろうと、せっかくの実戦の機会を独り占めするのは許せない。逸る心を抑えつけ、幻乃は直澄の背を追うように、ふらりと森へと飛び込んだ。

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