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 幻乃は夜目が利く方だ。けれど、こうも月が明るい夜ならば、たとえ夜目が利かなくとも問題はなかっただろう。それくらい、敵の一挙一動までが、はっきりと見えた。

 複数人が草木をかき分け走る音がした。しかしその音は、幻乃が追いつくよりも前に、くぐもった声と、何かが崩れ落ちる重い音だけを残して次々に消えていく。先行する直澄がやったのだろう。

 散開する刺客を両端から追い込むように、幻乃は直澄の逆側に陣取りながら走っていた。今のところ、幻乃のところへ向かってきたのはひとりだけ。それも、先ほど逃してやった手負いの忍だったので、およそ斬りがいというものが感じられない相手だった。

 そして今また、もうひとり。


「何が天誅、何が維新だ! この、卑怯者が!」


 木の影から、ひとりの武士が声を上げながら姿を現した。くたびれた袴を履いた壮年の男は、親の仇とばかりに幻乃を睨みつけながら抜刀すると、名乗りを上げる。


「我が名は山本源三。参る!」


 ぴっちり固められた丁髷ちょんまげといい、生まれる時代を間違えたのかと思うような名乗り上げといい、いちいち古風な男だった。ぽかんとしながら、幻乃は足を止める。


「……ご丁寧にどうも。命を狙いにきておいて、馬鹿正直に名乗るお方は初めて見ました。あなた方は、どちらの手の者ですか?」

「志を同じくするものの集まりだ。闇討ちを天誅と称する卑怯者どもには、覚えもあろう。三条め……!」


 口ぶりから察するに、旧幕府の信奉者あたりだろうか。


「俺はたしかにこちらの藩にお世話になっていますけど、別に三条の者ではないですよ」

「問答無用!」


 名乗るだけ名乗った山本は、雄叫びを上げながら幻乃に切り掛かってきた。洗練された太刀筋とは言いがたい刀の振り方ではあるが、力だけは有りそうだ。

 舌舐めずりをしながら山本の攻めを受け流した幻乃は、返す刀で、まずは小手調べとばかりに腕を狙って切り掛かる。


「よっ、と――、あれ?」

「ぐあぁっ!」


 浅く切るだけで留めようと思っていたのに、一秒後には、山本の腕が宙を舞っていた。


「おや。斬ってしまった」


 途切れた片腕を押さえ、苦悶の声を上げた山本は、崩れ落ちるように膝をつく。

 幻乃はしまった、と眉尻を下げた。猪みたいに飛び込んでくるものだから、うっかり腕を切り飛ばしてしまった。斬り合いをしたかったのに、これではまともに打ち合うこともできやしない。


「久しぶりだと、加減が効かないな。小手打ちくらい受けてくださいよ」

「何を……、貴様!」


 男の腕から吹き出る血を眺めながら、幻乃は深くため息をつく。


「……いいや、もう。興醒めだ。弱いやつは死ね」


 がっかりしながら刀を振り上げた瞬間、男が血走った目で幻乃を睨み上げてきた。


「暴力ですべてを踏みにじって、楽しいか……!」


 震える声で紡がれた言葉があまりに馬鹿馬鹿しいものだったから、幻乃は思わず手を止める。


「刀を持っているくせに、おかしなことを言うんですね」

「どういう意味だ」

「どういう意味も何も……」


 失笑しながら、幻乃は大袈裟に肩をすくめてみせる。言葉を飾るのも億劫になって、幻乃は吐き捨てるように口を開いた。


「刀は武器だ。敵を斬るためにある。そして武士おれたちは、敵を斬るためにいる。そうだろう? 勝った方が正義で、強い方が意見を通せる。暴力で全部をねじ伏せることこそ、俺たちの仕事じゃないか」

「――黙れ、若造が!」


 びりびりと腹の底が震えるような、魂のこもった怒声だった。真夜中にこっそり動いているというのに、こうも敵を騒がせるのは直澄の本意ではないはずだ。


 ――黙らせなければ。


 そう思うのに、山本の勢いに押されるように、ついつい幻乃は口を閉ざしてしまう。


「侍とは、主人の意志と理念を体現する刀だ。そこに大義があってはじめて、意見の決着を争いの結果に委ねることができる。技と技のぶつかり合いを、剣の高みで楽しむことが叶うのだ!」


 山本の瞳には、燃えるような怒りがあった。何を古臭いことを、と思うのに、耳を傾けずにはいられない、命懸けの叫びがそこにあった。


「貴様らのどこが侍だ? 卑怯にも影から人を斬り、暴力で代々続いた制度を壊して、国まで壊して……! 新時代とやらには、侍が持つべき誇りも忠義も存在しないではないか!」


 ――戦なんて、起こらないに越したことはないんだよ。あんなもの、対話の放棄でしかない。


 憤死しそうなほどの怒りを見せる山本の顔に、一瞬だけ、悲しげに呟く俊一の姿が重なって見えた。

 武力で改革を成し遂げれば、必ずや反発を招くと俊一はよく言っていた。時代の流れを押し止めることは誰にもできやしないけれど、切り捨てられるものは少ないに越したことはないはずだ――、と。

 為政者としての俊一の考え方も、旧時代を生きた山本の言葉も、理想としては正しいのだろう。

 ――けれど。

 刀を握り直して、幻乃は山本をせせら笑う。


「そんなもの、俺の知ったことじゃない。お偉方がそうすべきだと言うのなら、維新も新時代も、必要なことなんだろうよ。世間がどう変わろうが、俺が求めるものは強さだけだ」

「強さがすべてだと言うのなら、なぜ貴様は銃を使わない」

「……っ」


 山本は瞬きすら許さぬほどの鋭い視線で、幻乃を射抜いた。


「外国を見るのが新時代なのだろう。古きを捨てて、新しい技術に染まるのが維新なのだろう。人を殺す力を強さと呼ぶなら、引き金ひとつ引くだけで、人が殺せる銃を使えば良い。誇りも忠義も気にかけぬと言うなら、なぜ貴様は銃を使わず、刀を握る? 矛盾しているではないか」


 刀と銃は違う。どちらも腕を磨かなければ使えやしない。武器を変えればそれで済むなど、そんな単純な話ではないのだ。そんなことは自明の理のはずなのに、答える己の声は、なぜかわずかに震えていた。


「当然だろう、そんなこと。銃には魅力を感じないものでね。使わないことにしているんだ」

「嘘だな。使わないのではなく、使えないのだ。。新しいものは恐ろしかろう。生まれたときから慣れ親しみ、磨き上げてきた力と技術を、今さら捨てることなどできなかろう。それ以外に生きる方法を知らぬから、貴様は刀に固執する。違うか」

「……っ」

「時代を変えたいのなら、人斬りなどせず、緩やかに改革を進めるべきだった。何が必要で、何を諦めるべきか、どんな時代を目指し、どんな国を目指すのか、議論すべきだった。間違った方法で作られた時代が、正しく在れるはずもない」


 否定できるだけの意見を、幻乃は持たなかった。

 維新は幻乃の為したことではない。人を斬ったのだって、すべて主人の命令だ。時代の有りようなど、たかだかひとりの武士でしかない幻乃に聞かれても困る。そんなものは俊一や直澄のような上の身分の者たちが決めることであって、幻乃が考えなければいけないことではないのだ。

 幻乃は脳たる主人の手足として、ただ求められる仕事をすればいい。己の欲を満たし、主人の願いを叶えるための働きさえすればいいのだ。


(でも、俊一さまは、もういない)


 気付いた瞬間、足元が抜けるような心地に襲われた。とっくに知っていたことなのに、今になって、その事実が幻乃にとってどういう意味を持つのかを、改めて悟る。

 幻乃は斬り合いを愛している。けれど、俊一亡き今、誰のために、何のために刀を振るえばいいというのだろう。

 幻乃の手の震えを感じ取ったように、握る刀がカタカタとわずかな音を立てた。幻乃の動揺を見て取って、山本は憐れむように声を落とす。


「……哀れなものよ。己の心さえ分からぬまま、刀を振っているのか」


 憐憫の情を浮かべた瞳が、ただただ不愉快だった。堪えきれず幻乃は刀の切っ先を山本の喉元に突きつける。


「たったの八人。無駄と知りながら命を捨てに来た弱者に、憐れまれる筋合いはない」

 脅しつけても、山本は止まらなかった。脂汗の浮いた顔に、嘲るような笑みを浮かべてゆらりと立ち上がる。

「弱者。弱者か……。そぐわぬ時代に己を歪めて生き永らえるくらいなら、無駄と知れども抗えるだけ抗って、朽ちていく方を選ぶまで。それとも、それすら空虚な刀を振るうだけの貴様には分からんか」

「……遺言はそれだけか」


 苛立ちに、声が低くなる。死にかけの弱者の戯言だ。分かっているのに、気に食わない。幻乃を見透かすような目で見てくる山本も、そのくだらない言葉に心を波立てる己自身も、気に食わなかった。


「時代に取り残された死に損ないの話なんて、聞くものじゃないな。時間を無駄にした」

「己の理念さえ持たぬというのなら、貴様も遠からず辿る道だ。時代に流されることしかできぬ、戦狂いの若造よ」


 残る片手だけで刀を握った山本は、鬼気迫った顔で幻乃に突進する。受けるまでもない不恰好な刺突をひらりと交わして、幻乃は山本の胴を容赦なく切りつけた。ぱっくりと裂けた切り口から、ずるりと山本の上半身と下半身が分かれていく。吹き出す血を認めた瞬間、吐息のような声が幻乃の耳に届いた。


「無念――」


 どさりと山本の体が地に落ちる。

 目を見開いたまま事切れている山本の体をしばし眺めて、幻乃は刀を鞘に収めた。そのまま踵を返そうとして、思い直して幻乃は死体のそばにしゃがみ込む。


「遠からず辿る道、か」


(縁起でもない。胸糞悪い遺言だ)


 舌打ちしながらも、幻乃はまだあたたかい山本の瞼の上に手を被せて、そっと目を閉じさせてやった。

 久方ぶりの心踊る斬り合いのはずだったのに、残ったものはと言えば、なんとも言えない後味の悪さだけだった。その苦みをすべて山本の弱さのせいにして、幻乃は森の奥へと足を向ける。

 城の逆側、血のにおいの濃い方へ。

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