第三章 冬暁に旅立つ
1
吐き出した息が白い雲を作る。空を見上げれば、重苦しい灰色の雲が一面に広がっていた。
標高が高いせいなのか、彦根藩の寒さは海沿いの小浜藩よりも身に染みる。はじめこそひやりとした風を心地良いと感じていたものの、日に日に温度を下げていく空気は、元々彦根藩の民ではない幻乃には、厳しいものがあった。
雪も降らぬうちからこの寒さとは、本格的な冬が到来したらどうなってしまうのか。店先の桶に張った薄氷をそら恐ろしい気持ちで眺めながら、幻乃は彦丸に視線を戻す。
「彦先生、そろそろ行きませんか?」
「まだじゃ。
そう言いながら、彦丸は幻乃が背負う竹編みの
ただでさえ店中に広がっている薬草の香りが、余計に強くなる。身震いするような寒さも相まって、これ以上ここに立っていたら頭が痛くなりそうだ。どんどんと重くなっていく行李を背負い直して、幻乃は彦丸の隣を、寒さに震える手で指し示す。
「これじゃありませんか? いくつ入れましょう?」
「馬鹿者、それは
「……いつもお世話になります」
間髪入れずに飛んできた叱責に、幻乃はしおしおと項垂れる。彦丸が満足するまで付き合うほか、選択肢はなさそうだ。
「いいかね幻乃さん、これが
(ああ、始まってしまった)
生薬を手に取りながら解説する彦丸に相槌を打って、幻乃は顔馴染みとなった薬屋『青吹屋』の店主とひっそり苦笑を交わし合う。彦丸は独自に薬の調合を研究していることもあってか、生薬について語らせると長いのだ。
薬の材料を仕入れにいくから手伝えと、彦丸に声を掛けられたのは朝一番のことだった。
直澄は飢えた獣に餌やりをするかのように、時折幻乃を後ろ暗い夜の斬り合いにこそ連れ出してくれるものの、昼の真っ当な仕事はひとつも与えてくれた試しがない。元は敵方の人間だったことを思えば仕方のないことではあるが、怪我も治ったのに働きもしない『ただ飯ぐらいの居候』という不名誉な肩書きには、幻乃自身、思うところがあった。
幻乃にも人並みの常識というものはあるのだ。
生かした責任を取れとは言ったが、犬猫のように飼って欲しいと言った覚えはない。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。その日限りの仕事を求めてあちらこちらに顔を出していた幻乃を見兼ねてか、三条家のお抱え医師である彦丸は、荷物運びや力仕事の手伝いという名目で、不定期ながら幻乃に仕事を与えてくれるようになった。
「――とまあこんな具合に、青吹屋さんの生薬は質が良いが、専門店以外で買うときは、自分の目と鼻で、色と鮮度をしっかりと確かめるのだぞ」
「はい、彦先生」
「返事だけは立派だがね、本当に覚えとるんだかどうなんだか……。あんたも毒は使うんだろう、幻乃さん。毒も薬も、量がちいっとばかし違うだけで、基本的には同じもんじゃ。身を入れて覚えなさい」
「大丈夫です。ゆっくりですが、教わったことは覚えていますから」
「ならいいがね」
ひとしきり生薬の講義を終えた彦丸は、ようやく満足したらしい。青吹屋と二言、三言話して幻乃に会計を任せると、老体とは思えぬ軽い足取りで店の外へと出て行った。
青吹屋の次は、越後屋で調合器具を買うのだったか。来る前に聞いた予定を思い出しつつ、彦丸の背を追おうとしたその時、「あっ」と思い出したように青吹屋が声を上げた。棚の奥をごそごそと探ったかと思えば、何やら葉と思わしきものが詰まった瓶を取り出して、頭を抱えている。
「やっちまった……。
「渡しておきますよ。おいくらですか?」
「ああ、いいんです。代金は、直澄さまから前にいただいてますんで。ほら、弟君の発作、冬になるといつもひどくなるでしょう? その薬を作るのに使うんですよ」
直澄には年の離れた弟がいると聞いたことがある。目通りする機会も理由もなかったので会ったことはないが、この口ぶりだと体が強くはないのだろう。
瓶詰めの生薬を幻乃に手渡しつつ、青吹屋は「それにしても――」と苦笑した。
「彦先生ったらはしゃいじまってまあ。幻乃さんみたいな若いお弟子さんができて、よっぽど嬉しいんでしょうねえ」
思いもかけない言葉に、幻乃はぴたりと行李を開ける手を止める。
「弟子、ですか? いえ、違います。そもそもそこまで若くもないですから」
「私らみたいな爺からみりゃ、幻乃さんも藩主さまも、みーんな若いですよ。それに、何かを学ぶのに、遅いも早いもありますめえ」
私だってこの歳ですが、西洋から来る薬を毎日勉強してますからね。そう言った青吹屋は、皺だらけの顔を指差して自慢げに笑った。
「お武家さまが薬屋になることだって、そう珍しいことでもないでしょう? 命を張る仕事をずっと続けるのは、誰だってどこかで限界がくるもんです。心が先か、体が先か分かりませんがね。せっかく手伝いをしてるんですから、このまま弟子になっちまったらどうです?」
「いくら彦先生がお優しいからって、そこまでご厚意に甘えるわけにもいきませんよ。それに……俺はもうずっと刀だけで生きてきたものですから、今さら他の生き方はできません」
「嫌になることはねえんですかい。怖いと思うことは?」
「ないですね。自分より強い誰かに斬られて終わるのなら、剣士の端くれとして、本望ですよ」
「はあ、そういうものですか。でも、それだってあと何年かしたら――」
そこで、言い淀むように青吹屋は目を泳がせた。いつも歯切れの良いこの店主にしては珍しい。首を傾げつつ、幻乃は話の先を促した。
「何年かしたら、なんでしょう?」
「ああ、いえ……。まだ、噂ですがね。ほら最近、色々と慌ただしいでしょう? やれ王政復古だ、やれ維新だと」
数日前には王政復古の大号令なんていうお触れまで出たというじゃないありませんか。興奮と恐怖が混ぜこぜになったような落ち着きのない様子で、店主は語る。
ここ数年というもの、いつ争いに火がついてもおかしくない不安定な情勢ではあったが、討幕を主導していた薩摩藩を中心に、雄藩たちの動きがいよいよ本格的になってきたとは、幻乃も耳にしていた。
「新政府は、お国にとことん革命を起こすつもりらしいですよ。すぐにとは行かずとも、お侍さんから刀を取り上げようって腹だって、噂を聞きました」
「……刀を?」
無意識に、幻乃は腰に差した刀の柄に触れていた。
幻乃は物心ついたときからずっと、刀を振ってきた。刀を持たぬ自分は、自分ではない。それくらい、刀は幻乃と深く結びついているものだ。取り上げる、という言葉の響きだけで、ぞわりと神経を逆撫でされるような心地がした。
「それは……、困りますね」
幻乃はどんな顔をしていたというのだろう。青吹屋はぎょっとしたように目を見開いて、忙しなく視線を泳がせ始めた。
「ほ、本当かどうかは分かりませんよ。まさか軍や町奉行からも武器を取り上げるってことはあるめえし、どこまで対象になるのかも分かりませんから。そもそも江戸の方が今どうなってるのかも分かりませんしね。でも、人斬りみたいなおっかねえお方たちもこれでいなくなると思うと、維新ってのも悪いことばかりじゃないんじゃねえと思うんです」
「そう、ですね。人斬りなんて、いないに越したことはない。もしも改革が成し遂げられて、平和な時代が本当に来るとしたら……血気盛んな者たちなんて、害にしかならないでしょうね」
「ええ、ええ。その通りです。……あっ! も、もちろん、幻乃さんみてえな真っ当なお侍さんは違いますよ! でもねえ、危ねえやつが危ねえことをできねえように武器を取り上げておくっていうのは、いい考えだと思います。お侍さんたちは身の振り方に悩むかもしれませんが、私らみたいな非力な人間からしたら、その方が安心できるってのも、本当なんです。……幻乃さんはまだお若い。これから先の人生も長いでしょう。これからお国がどう変わるにせよ、手に職つけといて、損はねえと思いますよ」
「……そうですね。おっしゃる通りです。俺も、身の振り方を考えないといけませんね」
相槌こそ打ったものの、その言葉の空虚さと言ったら、幻乃自身どころか青吹屋にまで伝わってしまうほどだったのだろう。ますます顔色を悪くして、青吹屋は身を縮こまらせてしまった。
「そのう……気を悪くしちまったかな。申し訳ねえ。年寄りのお節介と思って、聞き流してくだせえ」
「いいえ、とんでもない。面白いお話、ありがとうございました。それでは、俺はこれで」
おどおどと幻乃の顔色を窺う青吹屋に軽く頭を下げて、幻乃は店を後にした。
「……毎度あり」
店先の
「おっかねえ。優しく見えても、お武家さまはやっぱり、お武家さまだな」
廃刀令の話を出したときの、あの温度のない眼光と言ったら、生きた心地がしなかった。
「余所者だって言ってたしなあ……。堅気じゃ、ねえのかもな。ああ、嫌だ嫌だ」
刀も無礼討ちもない平和な世の中が、早く来てほしいものである。
青吹屋はもう一度ため息をついて、店の奥へと戻っていった。
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