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先に通りを歩いていったはずの彦丸は、青吹屋からそう遠くもない場所で足を止めていた。街角で何をしているのかと思えば、お鶴ともうひとり、見知らぬ若い娘と輪を作って談笑しているらしい。
「……そうかい。良い相手が見つかって良かったねえ、おりんちゃん」
「ありがとうございます、彦先生。火傷の跡があるのに、あのお方はそんなの気にしないって笑ってくれたんですよ」
「彦先生が治してくれたんだから、跡なんて元々ほとんどないじゃない。気にしすぎよ。おりんちゃんみたいな気立ての良い女、男が放っておくはずないんだから!」
「やだ、お鶴ちゃんったら。でも、ありがとう」
きゃらきゃらと楽しげな笑い声が聞こえてくる。漏れ聞こえてくる会話の内容からすると、おりんと呼ばれた娘の縁談がちょうどまとまったところなのだろう。
頬を赤く染めて未来の夫の良さを語るおりんの顔と言ったら、事情も何も知らぬのに、見ているだけで幸せが伝わってくるかのようだった。若さに目が眩みそうだ、などと青吹屋が聞けばまた突っ込みをいれそうなことを考えながら、幻乃は三人の元へと足を向ける。
「あら、幻乃さん」
いち早くこちらに気づいたお鶴が、朗らかに声を掛けてきた。
「いつも昼過ぎからしか出てこないのに、朝から見かけるなんて珍しいですね!」
「お鶴さん、しーっ! 彦先生に、自堕落がばれてしまいます。ただでさえ厳しいのに、朝のお叱りがこれ以上早くなるようなことは、内緒にしておいてください……!」
「うふふ、ごめんなさい」
「聞こえとるわ、馬鹿者」
大袈裟に渋面を作る彦丸を見て、お鶴とおりんがくすくす笑う。
追加で受け取った生薬を彦丸に渡した後で、おりんと軽く言葉を交わす。彼女は今出てきたばかりの青吹屋の孫娘に当たるのだと誇らしげに語った。
「その桑白皮、あたしがもらってきたものなんですよ」とはにかみながら彦丸と生薬談義をする様子は、たしかな教養を感じさせた。
「たまたまとはいえ、彦先生に会えて良かったです。いつもお世話になってるから、一番に伝えたかったの」
「教えてくれて嬉しいよ。めでたいのう。あのおりんちゃんが嫁ぐとは。この前まで赤ん坊だったというのに、まこと時が経つのは早いものじゃ」
しみじみと彦丸が呟く。照れたように、おりんは「ありがとうございます」と頬を赤くした。
「縁談がまとまったのが今となると、祝言は春になるのかい」
「はい。桜が咲くころに。今のご時世だと、どうなるかは分かりませんけど……。祝言と言えば、藩主さまのご婚礼も、その頃になるんでしたっけ?」
「ああ、見合いが上手くいけばの話だがの。たしか、そのようなことを――……ん? 幻乃さん?」
つい数秒前まで笑み崩れていた彦丸が、幻乃に視線を向けるなり、心配そうに眉根を落とした。
「どうしたんだね。顔色が悪いぞ。あんた、また傷を隠しとりゃせんだろうな。それとも、立ち話をしすぎたかい」
「あら本当。大丈夫ですか?」
「いやだ、あたしったらつい浮かれてて……! 外から来たなら、ここの寒さには慣れてませんよね。温かいお茶でも、飲んで行かれます?」
三方から視線を向けられて、慌てて幻乃は取り繕うように笑みを作った。
「いえ、その……そうかもしれません。すみません。寒さには、慣れていなくて。大丈夫ですから、お気遣いなく」
「そうですか……? 無理はしないでくださいね。この間もたしか、外の藩から移り住んできた方が霜焼けをひどくしてしまったとかって言って――」
おりんたちの会話にぼんやりと耳を傾けながらも、幻乃の思考は、先ほど耳にしたばかりの言葉で占められていた。
(婚礼?)
そんな話は聞いていない。別に言ってもらう必要もないけれど、直澄の婚礼という言葉に、幻乃は思いのほか衝撃を受けていた。あるいは、衝撃を受けた自分自身に、驚愕していた。
男盛りの藩主ともなれば、見合う身分の者から嫁取りをするのは当然のことだ。間もなくして藩そのものがなくなるという話も出ているくらいだから、直澄の立場ならば、地盤を盤石にするという意味でも早めに身を固めておきたいところだろう。
(直澄さんは俊一さまと同じ、藩主だものな)
妻を迎えて、子を育んで、民とともに生きていく。そういう立場にある人で、そうあるべく育ってきた人間だ。領地の民にも好かれている直澄ならば、たとえ藩が廃止されたとしても、どこに行ったって快く受け入れられるだろう。
(俺とは違う)
行き場もなく、新時代に置いていかれるしかない己とは。
青吹屋でそうしたように、幻乃は強く、刀の柄を握りしめた。幻乃が持つものは刀だけ。刀さえあれば、それでいい。
「さてと。待たせてすまなんだな、幻乃さん。そろそろ――」
話に一区切りついたらしい彦丸が、幻乃に声を掛けようと口を開く。けれど最後まで言い切らないままに言葉を止めると、訝しげに眉を顰めた。
「……なんじゃ? 騒がしいな。誰ぞ喧嘩でもしとるのか?」
「いえ、違います。これは……」
人の流れがおかしかった。にわかにざわめきが広がったかと思えば、何人もの人間が、足を絡ませそうな勢いで走ってくる。
その表情は、何かから死に物狂いで逃げているかのように、切羽詰まっていた。
お鶴が表情を険しくし、おりんが怯えたように身を縮こませる。何事かと身構えた瞬間――。
「ぎゃあああぁ!」
金切り声が響いた。
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