3
断末魔はひとつでは終わらない。立て続けに響く凄惨な声は、慣れぬ者が聞けば一生を悪夢に悩まされるだろう、恐ろしい響きを帯びていた。逃げ惑う町民たちの悲鳴と混乱が、辺り一体に伝染するように広がっていく。
周囲の恐慌に流されるように駆け出そうとしたお鶴とおりんを、幻乃はそっと手のひらで制止した。
「通りの皆さんは、周りを見る余裕もないようです。あの中に混ざる方が危ないですよ」
「でも――!」
「避難するなら、店の中へ。近くにいてくれれば、守れますから」
その言葉に、お鶴たちは幻乃が刀を持つ武士であることを思い出したらしい。わずかながら、娘たちの目に冷静さが戻ってくる。
土埃の向こう側に目を凝らすと、閃く刃が複数見えた。
「辻斬り――でしょうか。このご時世に、珍しいことだ」
幻乃が呟く間にも、またひとり、誰かが凶刃に倒れていく。血の海に沈んだ男がびくびくと痙攣する様を見て、おりんは恐怖に堪えきれなくなったらしい。小さく悲鳴を上げると、へなへなと腰を抜かして座り込んだ。慌てたようにお鶴と彦丸が手を伸ばすが、おりんは血の気の引いた顔をして、唇を震わせるばかりだった。
「おりんちゃん! しっかりして!」
「ご、ごめ、ごめん、なさい……足が……」
「奴ら、こっちに向かってきとるぞ。ほら、つかまりなさい。早く中へ……!」
お鶴と彦丸が二人がかりでおりんの両脇を支えたそのとき、人々の怒声と悲鳴をかき消すように、爆音が響いた。
「ひいぃ!」
「なんだ、この音は!」
鼓膜を殴りつけるような轟音に、町人たちは怯えきった様子で背を丸める。血の匂いに混ざって、つんと鼻を刺すような火薬と煙の匂いが漂ってきた。
「……爆薬?」
びりびりと震える空気に眉を顰めつつ、幻乃は彦丸たちを背に庇うように、一歩前に踏み出す。先の爆発で半壊した建物からは、炎が燃え広がる兆候が見えていた。早いところ消し止めなければ、被害は広がるばかりだろう。
惨状を作り出した武士は全部で五人。男たちの袴の小紋には、いずれも見覚えがあった。ひとりは小浜藩の者で、残りは小浜藩と親交のあった藩――いずれも、佐幕派の者だ。幻乃は片眉をぴくりと上げて、口の中だけでぼそりと呟く。
「おやおや……。何が目的で潜り込んできたのやら」
攻め入りにしては人数が少なすぎるが、単なる辻斬りにしては、誰も彼もが不自然なほど覚悟の決まった顔をしていた。まるで、命を捨てに来たかのようだ。
強い者を斬るのは楽しいけれど、抵抗ひとつろくにできない商人を手にかけたところで、何の意味があるというのだろう。どういう意図があるにせよ、敵方の心理は、幻乃には一生理解できそうになかった。
「狙われたのは、きっと越後屋さんです」
幻乃の独り言が聞こえたかのように、震える指でお鶴が通りの奥を指し示す。
「外国の物を仕入れるようになってから、たちの悪い人たちに嫌がらせをされるようになったって言ってました。あの人たちがさっきから斬っているのも、商家の方ばかりです。……大通りの店は大体、越後屋さんにお世話になってます。全部、壊すつもりなのかも」
か細い声で、お鶴が呟いた。青ざめながらも、冷静に状況を見極めようとする気概のある少女は、この先歳を重ねれば、さぞや立派な商人になることだろう。身を寄せ合う少女たちに視線を向けて、幻乃は安心させるように微笑みかける。
「なら、待っていても状況が悪くなるだけですね。物陰に隠れていてください」
「まさか、出ていくおつもりですか? 危ないですよ!」
「大丈夫ですよ。これ以上町を壊されたら困るでしょう? 店がなければ、買い付けひとつできません。せっかく慣れぬ早起きまでしたのに、無駄になってしまいます」
怯える娘たちが気の毒に思えて、あえて普段通りに茶化して言えば、幻乃の意図を汲んだように、お鶴はぎこちなく微笑んだ。
「……幻乃さんったら、困った人ですね。お買い物なら、後でうちにも寄っていってくださいな。お安くしますから」
「おや、それはありがたい」
「怪我をしないでくださいね。せっかく治ったのにまた寝込んだら、直澄さまも悲しまれますよ」
「気をつけます」
言いながら鯉口を切った幻乃を横目で見て、不安そうに彦丸が顔を引き攣らせる。
「幻乃さん、本当にあの人数を相手にできるのかい。城から人が来るのを待った方が良いんじゃないのかい」
「待つだけ被害が広がります。それに、せっかくの機会なのに、人に譲るなんてもったいないじゃないですか」
「はあ?」
彦丸の素っ頓狂な声を背に、幻乃は走り出した。
意気揚々と地を蹴って、一番近くにいた武士へと切り掛かる。男は驚いたように目を見開いたが、即座に反応し、幻乃の刀を正面から受け止めた。にい、と幻乃は歯を剥いて笑う。
(反応が良い。当たりだ)
死ぬのが目に見えている自殺行為を馬鹿真面目にこなしに来るような武士たちなのだ。腕に覚えがある連中だろうとは思っていたが、期待以上だった。楽しめそうだ、と幻乃はうきうきと刀を振る。
「貴様、何者だ!」
「こちらの台詞ですね。随分と派手に暴れていらっしゃるよう――で!」
反撃する間を与えずに、幻乃は攻め続ける。はじめは凌げていた男も、二度目で体勢を崩し、三度目は、とうとう幻乃の刀を受け止めることが叶わなくなった。
剣先が男の柔らかい肉を捉える。男が顔を顰めた次の瞬間、骨もろとも断ち切る感触が幻乃の手に伝わってきた。うわ言を呟くように、男の唇が最後に声なき言葉を紡ぐ。主人の名前か、あるいは愛する家族の名だろうか。なんとも美しい最期ではないか。男が剣の道で積み重ねた年月を思って、幻乃はぶるりと身震いする。
斬られていたのは幻乃だったかもしれない。けれど生き残ったのは何も持たない幻乃であって、死の際にあってさえ誰かを想った彼ではないのだ。残酷で無情で、強さだけがすべての一瞬は、だからこそ美しく愛おしい。
心が躍る。生きていると実感できる。幻乃は込み上げる衝動のまま、唇を笑みの形に歪めた。
頬に飛んだ生温かい血を感じながらも、幻乃は足を止めない。背後で刀を振り上げていた別の男を、振り返りざまに切り捨てる。二人切られてようやく、残りの武士全員が幻乃を脅威と認めたらしい。町人を追うのをやめた男たちは、さっと目配せをする。
「三条の家臣か。来るのが早い……!」
「有力な商人どもは殺したはずだ。十分だろう。引き上げるぞ」
「――おっと。それは困ります」
耳聡く男たちの会話を聞き取った幻乃は、牽制代わりにクナイを投げつつ、逃げ道を塞ぐように通りの真ん中に陣取ってみせる。
「藩主の留守を狙って町を荒らしておいて、事が済んだら逃げるだなんて、虫が良すぎやしませんか?」
警戒も露わに身構える男たちは、しかし、幻乃の言葉に何の反応も示さなかった。
(やっぱり。知っていて攻めてきたのか)
直澄はここ数日というもの、屋敷を開けていた。他所の藩との交渉に出掛けているのか、はたまた先ほど聞いたばかりの縁談の話でも進めているのか知らないが、主が不在となれば、不測の事態への対処は往々にして遅れるものだ。辻斬りじみた挑発行為を仕掛けるにはお誂え向きだったことだろう。
直澄はどんな顔をするだろう。
留守に好き勝手されたことを怒るだろうか。お優しい藩主の仮面を被って、失われた命を嘆いてみせるのだろうか。どんな報復に出るのだろう。
さて、生かすのがいいか、殺すのがいいか。別に幻乃は直澄の家臣ではないのだから、直澄のために働く義理はないけれど――。
――戦闘も謀略も色ごとも、いつだって余裕綽々で、嫌味な笑みを崩しもしない、名高い『狐』。
いつか耳元で囁かれた賛辞を思い出し、幻乃は刀を握り直す。
あの強く美しい男に、そこまでの評価を受けているのだ。現場に居合わせておいて逃がしましたと口にするのは、幻乃の矜持が許さない。
「逃がしませんよ。所属と目的を吐いて、全員ここで死んでください」
「……若造が。大口を叩くな!」
残る剣士は大男がひとりと、壮年の男がひとり。そして、やや距離を空けて、榊藩の小紋を纏ったざんばら髪の男が、戸惑うように幻乃を見つめていた。
雄たけびを上げて切りかかってくる大男の一閃を受け流し、返す刀で斬り上げる。けれど、腹をかっ捌くはずだった幻乃の一撃は、寸でのところで届かない。大男の力任せの蹴りを跳ぶようにかわした幻乃は、代わりのように、逆手に握り直した刀で背後の剣士を突き刺した。くぐもった声を聞きながら、落ちてくる刀をひょいと避けて、幻乃は笑う。
「あは。……あはは!」
強い。決死の覚悟で来るものは皆、太刀筋に執念が感じられて良い。なんて贅沢な時間だろう。今日はいい一日だなあ、と晴れやかな気持ちになる。
「狂人め。何がおかしい」
「え? だって、楽しくはありませんか」
「何を――っ」
大男が口を開くと同時に、瞬時に幻乃は距離を詰める。こちらをじっと見つめていた大男からすれば、幻乃が一瞬消えたように見えたことだろう。視線が逸れた隙を逃さずに、幻乃はくるりと刀を回すように握り直して、大男の首を一太刀で刎ねた。
「こんなに強い方々と、命の取り合いができるなんて……! 久しぶりで、涙が出そうです」
直澄と出かける夜の散歩も悪くはないが、やはり斬り合いはこうでなくては。
本気で命を賭けている者たちと向き合って、生きるか死ぬかの瀬戸際に立ってこそ、一瞬の重みが際立つというものだ。
「お話する間もありませんでしたね。あなたには、話していただかなくては」
最後に残ったひとりに刀を向けて、にこやかに幻乃は話しかける。強張った顔をしたざんばら髪の剣士は、覚悟を決めたように刀を抜いた。ためらうように何度か口を開閉した後で、ざんばら髪の剣士は幻乃に向かってくる。舌なめずりをしながら迎え撃とうとしたところで、感じ取った違和感に、幻乃は眉を顰めた。
殺気がないのだ。
振り下ろされた刀を受け止める。まるで力のこもっていない太刀筋だった。立ち姿からはそれなりに腕が立ちそうに見えたのに、と内心で首を傾げたその時、囁くようにざんばら髪の剣士が口を開いた。
「生きていたのか。『狐』」
稽古でもするかのように打ち合いながら、幻乃は男の声に耳を傾ける。目の前の男自体には興味も関心もなかったが、ほっとしたようにこちらを見る目が気になったのだ。敵意や恐れを向けられることは多くとも、戦場で幻乃に親しみを持って接してくるものは多くはない。何より、柔らかなその声音に、どこか聞き覚えがある気がした。
「……知り合いでしたか?」
「戦狂いの『狐』には借りがある。あんたほどの人が、なぜこんなところで油を売っている?」
「あなたには関係ないでしょう」
鍔迫り合いになった拍子に、男はぐっと身を乗り出した。鼻先がぶつかりそうなほど近くで、ざんばら髪の剣士は、幻乃の目をのぞき込みながらそっと囁く。
「平和な世はさぞ生きづらかろうな、『狐』。だから今、そんな風に笑ってる。斬り合いは楽しいよな。あんたは戦場で生きる人。血に濡れてそんな風に笑う人なんて、あんたくらいだ」
「……何?」
「女でもできたか。それとも、主を乗り換えた?」
「……」
「無理だよ、『狐』。あんたには、今さら常人のふりなんてできない。周りがあんたをどう見るかなんて、とっくに知ってるだろう?」
きぃん、と一際大きな音を立てて刀を打ち合わせて、男は飛びのくように距離を取る。声を出さないまま、男は唇を動かした。
「明日の夜、ここで待つ」
唇を読みながら、幻乃は眉根を寄せる。
「新時代に少しでも違和感があるのなら、来るといい」
待て、と言う間もなく、男は幻乃に向けて何かを放り投げる。
反射的に切り捨てて、吹き出した白い煙に、幻乃は顔を歪めて舌打ちをした。真っ白に遮られた視界の中で、声が響く。
「待っている。俊一さまへの忠義を、ともに果たそう。『狐』」
耳を優しく撫でるような声。ああ、と幻乃は嘆息する。聞き覚えがあるはずだ。無謀な剣士の声は、亡き主の声によく似ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます