4

 煙が晴れる頃には、男の姿は消えていた。こほ、と咳をしながら、幻乃はざっと辺りを確認する。

 落ちているのは死体だけ。斬られた商人たちと、暴れ回っていた他領の武士たち、そして、爆発に巻き込まれたのだろう町人たちが、半壊した建物の下で炎に炙られていた。他に敵が潜んでいる気配もなければ、増援が来る様子もない。カンカンと忙しなく叩かれる半鐘の音を聞きながら、幻乃は刀を振って血を払う。

 じきに火消しも来るだろうが、火が回る前に避難した方がよさそうだ。逃げ遅れた者がいるのなら、人手を集めて助けなければ。そう思いつつ踵を返したその時、不自然なほどに周囲の空気が静まり返っていることに、ようやく幻乃は気が付いた。


 やかましく鳴らされる鐘の音が、奇妙なほどに大きく響く。

 誰一人として、口を開く者はいなかった。親は子を抱き、夫は妻の前に立ち、少女たちは怯えるように身を寄せ合う。誰も彼もが、息をひそめてこちらを見ていた。息の音ひとつ立てれば殺されるとばかりに、恐怖に顔を引きつらせながら、まっすぐに。

 辻斬りは排除した。何をそうも怯えているのかと内心で首を傾げながらも、幻乃は身に染み付いた動きで刀を鞘に納める。チン、と納刀する音が響くと、それだけで町人たちは体をびくつかせた。猛獣にでもなった気分だ。

 お鶴たちは大丈夫だっただろうか。身を隠すようにと言った通り、三人とも物陰に身を潜めているらしい。身にまとわりつく居心地の悪い視線を感じながらも、ゆっくりと幻乃は歩を進めていく。

 街角の酒屋の前には、人ひとり分ほどの大きさを持つタヌキの置物が置かれている。でっぷりと太った置物の背に隠れるようにして、身を寄せ合う娘たちの姿が見えた。

 大丈夫でしたか、と声を掛ける直前で、「ひっ」と引きつった声が聞こえた。がくがくと震えて、立つこともできぬ様子のおりんが、必死で幻乃から距離を取ろうと身を縮こまらせていた。


「お、お許し、くだ、さい……っ」


 哀れなほどに怯え切っているせいで、おりんの呼吸は乱れ切り、唇の色が紫色に変わっていた。息の吸い過ぎだ。倒れそうになるおりんに、幻乃が咄嗟に手を伸ばした瞬間、彼女は堪えきれなくなったかのように涙をこぼした。

 化け物でも見るような、恐怖に染まった瞳。見開かれた瞳には、血に濡れた己の姿が映っていた。その目を見て、おりんや周りの町人が怯えていたのは、あの武士たち相手ではないのだと悟る。

 幻乃が怖いのだ。


「……おりんちゃん。幻乃さんは、助けてくれたのよ」


 おりんの態度を非難するようにお鶴がたしなめるが、そのお鶴の声もまた、震え、強張る気配を隠せていなかった。

 ぽたりと何かが滴り落ちる。なんとなしに手を上げれば、真っ赤な血に染まった己の手が見えた。相手が複数だったこともあり、返り血を避けるだけの余裕はなかった。全身が血に濡れていることに、遅れて気が付く。なるほど、これでは怯えられるのも当然だ。


「……鬼よ」


 お鶴の声など耳に入らぬ様子で、喘ぐようにおりんが言った。震える指で幻乃を指して、彼女は幼子のように顔を歪める。


「ひ、人を、殺して……笑ってた。鬼よ……!」


 ――周りがあんたをどう見るかなんて、とっくに知ってるだろう?

 おりんの涙声に重なるように、ざんばら髪の剣士の優しげな声が聞こえた気がした。


(そうか。そうだった)


 幻乃が曲がりなりにも普通に生きることができていたのは、俊一が幻乃を使ってくれたからだ。戦場で自由に息ができるように、周囲に排斥されぬように、主人が優しく上手に幻乃を飼いならしてくれた。常人に混ざって生きられるように、人当たりの良い言葉と所作を仕込んでくれた。

 ここに来てからだって、人を斬るときにはいつも、直澄がそばにいた。同じように斬り合いを楽しむ人が隣にいたから、自分の考えがどれほど他者にとっては受け入れがたいものなのか、きっと幻乃は、忘れかけていた。


「……怪我はしとらんのかい、幻乃さん」


 気遣うように声を掛けてくれる彦丸の顔もまた、青ざめていた。いくら血を見慣れた医者とはいえ、人が人を斬り殺すところを目の当たりにする機会は多くはないのだろう。恐怖の気配が、瞳の奥に潜んでいる。


「あ、そ、そうですよ。血が……!」


 慌てたように駆け寄ろうとするお鶴を、そっと幻乃は手で制した。気遣いはありがたいが、がくがくと震える少女の手を見ているだけで、気の毒になってくる。


「汚れます。近づかないで」

「でも」

「俺の血ではないですから」

「……っ、あ、そっか……、そうですよね。なら、良かった……んですよね」 

「どうでしょう。聞き出す前に全員斬ってしまいましたから、良くはないかもしれません」


 ぽたり、とまたひとつ、己のものではない血が頬を伝って、顎先から滴り落ちていく。地面に染みこんでいく赤黒い血を眺めていたそのとき、何人もの足音が背後から聞こえてきた。

 駆けつけてきたのは、刀を帯びた武士たちだった。知らせを受けて走って来たらしい直澄の家臣たちが、訝しげに辺りを見渡している。


「――おい、あれは……」


 死体を確認し、壊された店を見て回っていた武士たちは、返り血に染まった幻乃に目を止めた。


「ただ飯ぐらいの余所者ではないか。この死体、あの男がやったのか?」

「あやつ、直澄さまの小姓ではなかったのか」

「内輪揉めではなかろうな。身元も知れぬ余所者を、ああもおそばに置くこと自体、どうかと思っていたのだ。これまでこんなことは一度もなかったぞ! あの者が招き寄せた害意ではないのか」

「……前から気になっていたのだ。あれは、酒井の家臣だ。あの男、戦場で見かけた覚えがある。思えばここ数月というもの、こそこそと町も歩き回っておったし……」


 雲行きが怪しくなってきた。目配せをした彦根藩の武士たちは、じりじりと円を作るようにして幻乃を囲み出す。武士たちの姿が先ほどの惨状を思い起こさせるのか、おりんが恐慌したように泣き出した。


「もういや。いやあ……っ! 家に帰して!」

「おりんちゃん。大丈夫だから……!」


 泣き喚くおりんを守るように抱きしめながら、お鶴と彦丸は困惑したように顔を見合わせた。敵意をむき出しにしている武士たちを見渡して、意を決したようにお鶴が口を開く。


「あの! 何か誤解してませんか? 幻乃さんは……!」

「小娘が口を出すな。それとも、その余所者の仲間なのか?」

「ひ……っ」


 ぎろりと睨まれ、お鶴が怯えたように身を竦めた。顔を顰めた彦丸が、聞いていられないとばかりに拳を振り上げ、前に一歩踏み出す。


「さっきから聞いていれば、居合わせただけの者をさらし上げ、女子どもを威圧するのがお侍さんのやることかね! 全部終わった後に来ておいて偉そうに……! 間に合わなかったなら間に合わなかったで、ほかにやることがあるじゃろうが!」

「先生のお話は、あとでお聞きしましょう。我々はそこの男に用がある。話を聞かせてもらおうか、余所者」


 話を聞くという割には、全員がすでに鯉口を斬っていた。肩をすくめて、幻乃は男たちを取りまとめているらしき武士と目を合わせる。


「穏便ではないですね」 

「悪く思うな。貴様が真実小浜藩の者だというなら、放っておくわけにはいかん。直澄さまの留守を預かっておきながら、死体だけを見つけたと報告するわけにもいかんのでな」


 わけも分からないまま他領の辻斬りたちの死体を見つけましたと言うよりは、幻乃を内通者に仕立て上げ、討ち取ったと報告する方が、彼らにとっては都合が良いのだろう。元々、真っ当な家臣である彼らにしてみれば、家臣でもない幻乃が直澄の隣で大きな顔をしていること自体、反感しか抱かなかったはずだ。


「そんな勝手なことって!」

「いい加減にせいよ、お主ら――!」


 堪えかねたようにお鶴たちが声を上げる。


「いいんです。ありがとう」


 なおも口を開こうとする彦丸とお鶴に、幻乃はそっと微笑みかけた。


「どの道、ずっとここにいられるとは思っていませんでした。直澄さんにご挨拶ができないのは残念ですが、潮時というものでしょう」


 刀の柄に手を掛ける。向かい合う男たちが、さっと表情を険しくした。


「……抵抗せぬならば、命までは取らぬぞ」

「お優しいことで。俺だったら取りますけどね。得体の知れない輩を、主のそばに置いておきたくはないでしょう? 閨の中まで入りこんでいるとなれば、特にね」

「厚顔無恥も甚だしい! 凡庸な男の身で、よくも恥ずかしげもなく言えたものだ。どんな手管で直澄さまに取り入った? 直澄さまが藩を留守にする日取りを流したのは、貴様ではないのか?」

「自分で手引きして、自分で斬り捨てるんですか? 大した自作自演だ」

「そうして成果を上げて、直澄さまに取り入るつもりだったのではないのか」


 言いながら、そうに違いないと男たちは声を上げた。小浜藩といい彦根藩といい、どうして自分は、こうも敵意を買ってしまうのだろう。呪われている。


「町人の皆さんとは、それなりに仲良くなれるんですけどねえ……。同業者だと、何か感じるところがあるんでしょうか」

「ごちゃごちゃと……! この人数差で勝てると思うのか、愚か者」

「さて、どうでしょう? やるならさっさとやりましょう。口で語るより、こっちで語る方が早いでしょう?」


 刀を抜いて、身を低く構える。応えるように抜刀した武士たちを眺めて、幻乃は獰猛に笑った。


「今日は本当にいい日ですね。――斬りがいがありそうだ」

「気が触れているのか。異常者め……!」 


 殺意を向けられ、刀の切っ先を向けられて初めて、深く息ができる気がした。周りが幻乃をどう見ようが、知ったことではない。どう足掻こうとも、己はこういう風にしか生きられないのだと、強く実感する。

 刀を両手で強く握り込む。地を蹴ろうとしたその瞬間――。


「全員動くな」


 涼やかな声が、場の全員を支配した。

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