5

 刃を恐れる様子ひとつなく、堂々と場に踏み入ってきたのは、彦根藩の主たる直澄だった。旅装のままであるところを見るに、たった今戻ってきたところなのだろう。戸惑うように剣先を泳がせる男たちを一瞥して、直澄は鋭く命じる。


「双方刀を納めよ」


 その声を聞くや否や、武士たちは弾けるような動きで刀を納め、一斉に膝をついた。数秒迷った後で、幻乃も彼らに倣って直澄の前に跪く。


「お、お屋形さま。お帰りなさいませ。予定よりも早いお戻りでございましたな……!」

「なんだ。戻らぬ方が良かったか? 何やら邪魔をしたようだが」

「いえ……! 決して、そのようなことは……!」


 慌てて弁解する家臣をからかうように、直澄は「冗談だ」と微笑した。その柔らかな表情に、家臣たちは目に見えて安堵する。先ほどまで漂っていた一触即発の空気は、あっという間に霧散していった。


「予定よりも早く会談が済んだものでな。戻ってみれば、町の様子がおかしかったものだから、先行した」


 その言葉に背後を見れば、焦り切った顔で駆け寄ってくる男たちが見えた。

 何が起きているかも分からぬ場所に、真っ先に走り出す主人を持った家臣の心労はいかほどか。遅れて辿り着いた直澄の臣下たちは、血の海と壊れた家屋を目にして、ただでさえ疲れの滲んだ顔をさらに青くする。


「な、なんじゃこりゃ……!」と慌てふためく様といったら、はたで見ている幻乃の心には同情しか浮かばなかった。一方の直澄といえば、目を回している家老たちの顔には目もくれず、辺りを見渡している。


「襲撃か」

「は……、はい。そのようで……。情けない話ではございますが、我々もつい先ほど、駆けつけたところでございます。お屋形さまの留守にこのような凶行を許してしまったこと、まこと、申し訳なく……!」

「お前たちの責任ではない。誰がこのような残虐な行為を予想できるものか。亡くなった者たちには気の毒だが、町すべてを焼かれる前に止められたことを、せめてもの幸いと思うべきだろう」

「は。……ですが、この者は……」


 言葉を濁した男の目には、隠そうともしない幻乃への敵意が滲んでいた。ひとつ頷いた直澄は、一太刀で葬られた他領の武士たちを一瞥した後で、短く幻乃に問いかける。


「止めたのはお前か、幻乃」

「はい。たまたま居合わせたもので、やむを得ず手出しいたしました。……差し出がましい真似をいたしました」

「そうか。お前のように腕の立つ者をとして迎えられたことを、幸運に思う。――よくやった」


 あえて周囲に聞かせるように、直澄はゆっくりと賛辞の言葉を口にした。

 俯けた顔が、なんとも言えない居心地の悪さで引きつるのが分かる。寝食を世話になってはいるし、誰とも知れぬ相手を与えられるがままに斬ってはいるので、完全な嘘ではない。かといって直澄のために働いたわけでもないし、正式に食客として迎えられた覚えもないが。

 けれど、幻乃は元々直澄の手の者だと宣言してしまえば、争いの火種がひとつ減るのも確かだった。直澄が食客だと言う相手を、家臣たちが証拠もなしに糾弾するわけにはいかないからだ。

 ちらりと見上げれば、直澄は腹の読めない穏やかな笑みを浮かべて、言葉を待つように幻乃を見つめていた。


「……身に余るお言葉にございます。直澄


 幻乃が殊更に従順にこうべを垂れて礼を尽くせば、不満げだった武士たちも、それ以上の口出しはできないようだった。

 諍いを手早く収めた直澄は、そのまま幻乃たちの前を横切ると、血溜まりへと足を踏み入れた。争いの跡を辿りつつ、事切れた町人たちの顔をひとりひとり確かめては眉根を寄せる様は、まさに民思いの藩主そのものである。


「……守ってやれず、すまなかった」


 切り捨てられた商人たちの遺体を痛ましげに眺めながら、直澄は黙祷するように目を伏せる。凛とした美貌の藩主が祈りを捧げる様は、こんな状況だというのに、見惚れるほどに美しかった。

 幸いというべきか、直澄の一挙一動に目を奪われていたのは、幻乃だけではないらしい。直澄の家臣たちも、あれほど怯えていた町人たちも、皆揃って魂を奪われたかのように直澄に視線を吸い寄せられていた。

 伏せられていた瞼がゆっくりと上がっていく。気づけば、誰もが直澄の言葉を待ち望むように、息をひそめていた。


「皆、さぞや恐ろしい思いをしたことだろう。遅くなってすまなかった。もう、大丈夫だ」


 声を張っているわけでもないのに、耳に沁み込んでくるような、心地よい声。今の今まで幻乃を支配していた怒りも諦めもすべてが萎んで、気持ちが静かに凪いでいく。恐怖と緊張で立ち竦むことしかできなかった町人たちも、同じなのだろう。泣きじゃくっていたおりんまでもが、引き寄せられるように顔を上げ、じっと直澄を見つめていた。

 この声を聞いていたい。この人についていけば恐れることは何もないのだと、そう思わせるような力が、直澄の声にはあった。


「失われた命への報復は、我々が皆に代わって必ず果たそう。今は、これ以上の被害が出ぬよう、皆の協力が必要だ」


 直澄が、ぐるりと辺りを見渡す。目が合った瞬間、ぞくりと体中が歓喜するように震えた。家臣たちはもちろんのこと、町人たちもまた、直澄の視線を受けて、身を乗り出すように直澄の言葉を待っている。


「狙われたのが一ヶ所とは限らない。留守を守っていた御家人たちは他の地区に被害がないか、速やかに確認せよ。潜伏する敵がいた場合、ひとり残して後は斬り捨てろ。指揮は半蔵に任せる」

「はっ! 行くぞ、お前たち!」


 先ほど真っ先に幻乃に刀を向けた威勢の良い武士は、半蔵と言うらしい。誇らしげに声を上げると、他の武士を率いて意気揚々と駆け出していった。


「他の者たちは現場の整理を。怪我人は彦丸の元へ。襲われた者たちの遺体は、ひとまず通りの両脇に移動させよ。火消しに巻き込まれないように、火元からは十分に距離を取れ」

「はい」


 先ほどまでの疲労が嘘のようにてきぱきと、直澄の供をしていた家臣たちは動き出す。


「男たちは酒樽をできる限り火元から離せ。引火すると一気に燃え広がる。手が空いている者たちは、水瓶や桶――空の容器に水を汲んで、纏持ちの到着に備えよ」

「は、はい! みんな、行くぞ!」


 直澄の言葉ひとつで、町中に血が巡り出すかのようだった。町人たちが声を掛け合い動き出す。誰も彼も皆、直澄の言葉に突き動かされたように生き生きと目を輝かせていた。

 先ほどまでの危うい混乱が、言葉ひとつで見事なまでに統制されていく。

 同じ土地に生きる者たちが協力し合う姿の、なんと眩しいことだろう。

 嘘のような光景に、幻乃は目を瞬かせながら、ふらりと立ち上がる。目まぐるしく動く民たちの一員になりたいのか、心に湧いた孤独感に耐えかねて逃げ出したくなったのか、自分でも分からなかった。


(でも、今なら。混乱に紛れてしまえば――)


 寄る辺ない気持ちで足を踏み出し掛けたその時、ぐっと腕を掴まれた。


「お前はこちらだ、幻乃」

「え――」


 忙しなく動く民衆たちを置き去りにして、直澄は幻乃の腕をきつく掴んだまま、ぐいぐいと引っ張っていく。

 血に慣れていない町人たちを慮ってか、途中で直澄は自らの旅装を脱ぐと、返り血に濡れた幻乃の姿を隠すように、頭からそれを被せた。狭まった視界に映るものは、直澄に掴まれたままの腕と、悠々と歩く直澄の足、そして、もつれかけた己の足元だけ。混乱しながらも、幻乃はただ導かれるがまま、直澄の背を追った。

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