6

 いつかもこうして腕を引かれたことがあった。彦根藩に連れてこられたばかりの頃は、この傲慢さが鼻についてならなかったというのに、その強引さを嫌ではないと感じる今の己は、やはりどこかがおかしくなっているのかもしれない。

 ぼんやりと足元を見ていると、己の歩いた跡に沿うように、点々と血痕が落ちていた。慌てて幻乃は「あの……!」と声を掛ける。


「何だ」

「お召しものが汚れます。お放しください」


 直澄は旅装とは言え、手合わせするときに纏っている服と比べると、仕立ての良さがひと目で分かる装いをしていた。血まみれの自分が触れていい相手ではないのだと、今さらながら焦りが湧いてくる。


「……? 傷を受けたのか」

「いえ。ですが、全身血まみれですから。それに、今は状況が状況です。こんな格好の余所者を城に連れて帰っては、皆さん、きっと怯えてしまわれます。川で身なりを整えてから、襲撃を受けたときの状況の報告に参りたく存じます」

「すべて無用な心配だ。湯殿で落とせ」


 何を言っているのか分からないとばかりに顔を顰めた直澄は、幻乃の気遣いを一言で切って捨てた。

 事件のあった場所に人が集まっているとはいえ、通りを歩く町人がいないわけではない。すれ違う者は皆、直澄に頭を下げては、隣の幻乃を見てぎょっとしたように顔色を変える。その度に直澄は、あの上に立つ者特有の頼りがいある声で、にこやかに民を宥めて屋敷へと進んでいった。

 居心地が悪かった。

 振り解こうにも振り解けぬほど強く握られた腕が、妙に熱く感じる。落ち着かない幻乃の内心とは裏腹に、二十五年間生きてきた経験は、ぺらぺらと普段通りの調子を装って勝手に口を回し始めていた。


「襲撃者は、佐幕派の者だと思われます」

「見れば分かる」

「爆薬を使っていました。あの者たち単独で手に入るものとは思えません」

「だろうな。詳しい話は、ほかの者からの話も合わせて後で聞く」

「爆破されたのは越後屋です。悲鳴が上がってから爆発音が響くまでは、そう間がありませんでした。襲撃の狙いは――」

「先ほどからよく回る口だな。何をそうも焦っている?」


 感情ひとつ取り繕えもしていないのだと突きつけられることほど、恥ずかしいことはない。ぐうの音も出ないとはこのことだ。


「……いえ。失礼しました」


 辛うじて搾り出した謝罪の言葉をひとつ残して、幻乃は大人しく口を閉ざしたまま、粛々と歩くことに専念した。

 直澄に手を引かれるがまま屋敷の門をくぐり、見慣れた湯殿へと連行される。痛かったはずの腕も、解放されてみればすうすうとして落ち着かない。ここまでのこのこと来てしまったが、何のために自分はここにいるのだろう。なんとなく直澄の顔を直視することができなくて、幻乃は俯いたまま、頭を下げた。


「お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」

「謝罪されることではない」

「襲撃の経緯については、彦先生とお鶴さんがはじめの悲鳴から耳にしています。維新絡みで、以前からいざこざがあったとも聞いています。恐れながら、町人からも話を聞く方がよろしいかと存じます」

「そうだな」

「身を清めたら、すぐに参りますので――」


 言い終わる前に、直澄の両手が幻乃の頬へと伸ばされる。そのまま、有無を言わさず首をぐいと上向けられた。無理矢理に視線を合わせられ、追い詰められた気分になる。


「先ほどから、なぜ目を合わせない?」

「……っ、あの、直澄さま」

「『さま』? 誰も見ていないのに、飾りだけの敬意を払う意味はあるのか」

「ですが」


 先ほどまでの直澄は、まるで別人のようだった。藩主としての顔を見たことは何度もあるけれど、あんな風に自分から膝をつきたくなるような威厳ある振る舞いは、初めてだった。あるいは幻乃が今まで見てきた姿の方が偽物だったのではないかと思うほど、藩主としての直澄は、民を導く者として完璧な男に見えたのだ。


「……直澄さんのあれは、演技では、ありませんよね」

「どういう意味だ」

「知らぬお方のように見えました。夜に人斬りをするあなたに、勝手ながら親しみを覚えていたことを申し訳なく思う程度には、ご立派なお姿でした。俺は……あなたのことを、何も知らないのですね」


 言葉にして初めて、自分は直澄に裏切られたような、子どもじみた寂しさを感じているのだと気付く。元より生きる世界が違う人に、勝手に仲間意識を持って、勝手に裏切られた気分になるなんて、独りよがりにもほどがある。しかし、何を馬鹿なことを言っているのかと自嘲する間もなく、至極真面目に直澄は頷いた。


「立派。立派か……。俺はそうあるべくして育てられたのだから、当然だ。誰しもおおやけの姿と私的な姿くらい、持つものだろう。お前とて、敵と向かえ合えば自然に女子どもを背に守るし、主人の盾となることも厭うまい」


「それは……、そうですが……」


 幻乃の言いたいことはそういうことではないのだが、皮肉を言えば皮肉で返し、答えられる問いには極めて律儀に答えを返すのが直澄という男だ。

 この人らしい、と苦笑が滲む。翻って自分はどうだろうと考えたら、唇に浮かべた笑みは、いつしか自嘲へと変わっていた。


「俺は……、違います。直澄さんのようには生きられません。自分では器用な方だと思っていたんですが、どうやらそうでもないようです。刀を振るうのが楽しくて、それしか考えていませんでした。皆さんを、怯えさせてしまったようです」


 幻乃は命の取り合いを心から愛している。けれど周囲の人間は、そうではないのだ。

 血を厭い、死を厭い、殺し合いを嫌悪する。きっとそれが普通なのだろう。おりんの、お鶴の、彦丸の――周りを囲む町人たちの、異常者を見る怯えた目つきが、瞼の裏にこびりついて離れない。


「俺は、こういう風にしか生きられないんでしょうね。……よく分かりました」


 血に濡れた己の腕に視線を落とす。

 新時代。平和な時代。刀を取り上げられる時代。

 身の振り方を考えろと言われても、これ以外の生き方は幻乃にはできない。

 平和を待ち望む人々とは真逆に、制度の改革が進むのだと耳にするたび、幻乃の居心地の悪さは増していく。彦丸やお鶴が気にかけてくれればくれるほど、自分のいるべき場所はここではないのだと、ひしひしと肌で感じるのだ。

 そもそも、他に行く宛もなかったとはいえ、ここに居着いてしまったこと自体が間違いだったのかもしれない。


「直澄さん。食客などと勿体無いことを言っていただきましたが、俺は――……って、なんですかその顔」


 伏せていた目線を上げた瞬間、目に飛び込んできた直澄の表情が見たこともないほど引きつっていたものだから、幻乃は思わず突っ込んでしまった。

 カメムシでも間違って食べてしまったかのような、ひどい顔。涼やかな美貌が台無しだ。


「人の顔を掴んでおいてなんて顔してるんですか」

「いや……。まさか今まで自分が常識人だとでも思って生きてきたのかと思ったら、信じがたくてな……」

「他人に理解されないということは、さすがに分かっていましたよ。今までだったらそれで、問題なかったんです」

「ならばそれで良いだろう。余計なことなど考えるから、せっかくの楽しみに水を差されるのだ」

「楽しみ?」


 乾きかけた返り血を落とすように、直澄は幻乃の頬を親指で柔らかく撫でていく。くすぐったさに目を細めれば、ますます勢いがついたように直澄は幻乃の頬をこね始めた。 


「斬って、斬られて、たった一秒間の生死の境で、相手の命をこの手で奪う。あの瞬間以上に楽しいことは、この世にはない。――だろう?」


 内緒話をするように声をひそめて、直澄は語る。その目に浮かぶ暗い熱は、斬り合いに出掛ける夜に見せる顔そのものだった。皆が慕う藩主ではなく、幻乃のよく知る、幻乃だけが知っている直澄の顔だ。


「楽しかったろう。今なお幕府側で生き残っている者は、強者揃いだから」

「は、い……。はい……!」


 鼻の奥がつんと痛くなる。喉の奥が詰まって、声がうまく出ない。


「皆さん、お強かった。俺ひとりでもらってしまうのが、申し訳なくなるくらいでした」

「お前は、どんな顔をして奴らを斬ったのだろうな。見ていたかった」

「いつものように、ですか? 直澄さんも、あの場にいれば良かったのに。……ああ、いえ、藩主の『直澄さま』は、人斬りなんてしませんね。それじゃあ結局俺の独り占めだ」


 頬に触れる手の感触を追うように、幻乃は首を傾ける。くつくつと喉を鳴らして、上機嫌に直澄は笑った。


「……やっと、言葉が戻った」

「言葉?」


 おうむ返しに呟いて、崩れ掛けた己の言葉に気づいて舌打ちする。色々と一気に起こりすぎたせいだろう。気が緩んでいるらしい。


「失礼しました」

「いいや? お前に礼を尽くして欲しいとは元より思っていない。胡散臭い言葉回しは嫌いではないがな。……前の主に仕込まれた言葉など、疾く忘れてしまえ。幻乃」

「え」


 耳元で囁かれた言葉にどう応えるべきかと悩んでいる間に、さっと直澄は身を離す。一秒遅れて、湯殿の扉を控えめに叩く音が聞こえてきた。


「お話中、失礼いたします。直澄さま、早急にご判断を仰ぎたい用件がございまして――」

「ああ。すぐに行く」


 申し訳なさそうにかけられた声に快活に答えた直澄は、「着替えは外に置いておかせる」と幻乃に言いおくと、扉に足を向ける。


「ぁ……――」


 遠ざかる背に、無意識に手を伸ばしかけ――、寸でのところで我に帰って、伸ばした手を握り込んだ。

 直澄は藩主なのだ。どれほど近しく思えたとしても、たとえただひとり幻乃を理解してくれる男だとしても、幻乃とは根本から立ち位置が違う人なのだ。

 忘れるな、と自分に言い聞かせるように心中で呟いて、幻乃はきつく目を瞑った。

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