7
血を洗い流し、人前に出られる身なりを整えたところで、幻乃は佐和山城の本邸に足を踏み入れた。廊下には忙しなく人が行き来しており、直澄がいるのであろう広間には、ひっきりなしに家臣たちが出入りしている。
ここにいても邪魔になるだけだろうが、さりとて何が手伝えるわけでもない。宙ぶらりんの身の上ではあるが、直澄が幻乃を城に連れてきたのだって、民を無闇に怯えさせないためなのだろうと思えば、町に戻るわけにもいかなかった。
直澄は、あの場でこそ食客などと言って力技で場を鎮めてくれたけれど、半蔵と呼ばれた武士を筆頭として、忠実な家臣たちがそれで納得するはずもない。今までこそ胡散臭い居候で済んでいたけれど、人前で刀を振るい、小浜藩の者であることもバレた今、家臣たちにとって、幻乃はただの危険人物でしかないはずだ。現に、湯殿を出てからずっと、見張りらしき者がつけられている気配があった。
どうしたものかと思索に耽りかけたその時、どこからか声が聞こえてくる。
「おーい、そこな者」
こしょこしょと喋り掛けてくるのは、声変わり真っ盛りといった少年の掠れ声だ。振り向けば、わずかに開いた襖の向こう側から、利発そうな瞳が片方見えた。幻乃と目が合うと、少年はぱっと目を輝かせる。
「そう、お主だ、お主。狐顔の武士! 近う寄れ」
「……? はあ」
いやに古風な話し方をする子どもだな、と思いながらも、呼ばれるがまま幻乃は少年に近づいていく。背後の見張りの気配が焦ったように揺らいだが、彼らが行動を起こすより前に、少年はぱっと幻乃の手を掴んでしまった。
「のう。外では今、何が起きておるのだ? いつになく騒がしいではないか」
にこにこと機嫌よく微笑む少年の歳の頃は、十二、三といったところだろうか。顔つきには幼さが残っているが、もういくつか年を重ねればさぞや精悍な顔つきになるだろう、凛と整った容貌をしている。意欲に溢れた瞳とは裏腹に、日焼けの気配もない白い肌と、細すぎる手首が目についた。
護衛が複数人ついていることを見ると、かなり身分の高い者のようだ。
どう対応すべきかと悩んでいる間に、少年はさっと襖を開け放ち、幻乃を中に入れようと腕を引っ張ってくる。
「勿体ぶるでない。さ、中に来なさい。お主もそのままではまずかろう? 怠けていると思われてしまうぞ。話を聞かせておくれ」
「構いませんが……、よろしいのでしょうか?」
少年にというよりは、襖に張り付いている護衛に向けた言葉だった。しかし、幻乃の問いかけに気分を害したらしい少年は、ぶすくれたように唇を尖らせる。
「私が良いと言っているのだ。良いに決まっておろう」
逡巡する幻乃を急かすように、「無礼者。疾く
(護久――三条護久か。この方が……)
幻乃の記憶が正しければ、それは直澄の腹違いの弟の名だ。言われてみれば面影がある。どうりで子どもながらに涼やかな美貌を持つわけだと得心がいった。
「失礼いたします」
招かれるがまま室内に踏み込んで、膝をつく。ちらりと辺りを伺ってみれば、一目で部屋の主の勤勉さが見て取れる、書物に囲まれた机が目を惹いた。丁寧に整頓された手習いのあとが何枚も積まれており、さらにその毛筆も、子どもとは思えないほど美しい。
何より特徴的なのは、部屋を満たす香りだ。彦丸の調合部屋を思い起こさせるような、独特な生薬の香りに、幻乃は鼻をひくつかせる。見れば、部屋の片隅には大きな
幻乃の前にいそいそと姿勢よく座り込んだ護久は、子どもが玩具を自慢するがごとく、目を輝かせて語り出す。
「この匂いが気になるか? 彦爺に頼み込んでな、薬のことを教わっておるのだ。自分の薬ならもう自分で調合できるぞ」
「彦先生に、ですか? それは、敬服いたしました。自分も時折手伝いをさせていただいておりますが、不勉強ゆえ生薬の見分けもろくろくできず、よく怒られます」
「お主も怒鳴られた口か。彦爺は厳しいからな」
からからと笑った後で、「ああ」と思い出したように護久は首を傾げた。
「知っておろうが、私は護久。藩主直澄の弟だ。狐顔の剣士、名は何と言う?」
「間宮幻乃と申します」
「そうか、幻乃か。その髪は自前か? 目も、わざと細めておるのか?」
「恥ずかしながら、生まれたときから目も髪もこの通りでございます」
「ふうん。愛嬌があって、良いではないか。私は狐が好きなのだ。庭によく来るからな。見ていて飽きぬ」
「さ、左様でございますか」
ぽんぽんと止まらぬ言葉に圧倒される幻乃を、緊張しているとでも思ったのか、「普段通りに話してよいぞ」と護久は笑いかけてくる。
「姿勢も崩して構わない。堅苦しい」
その言い方が直澄とあまりによく似ているものだから、思わず吹き出しそうになった。
崩せとは言うが、周りを囲むものたちの険しい視線は「まさかそんな無礼なことはしないだろうな」と語っている。恐縮する体で頭を下げて、幻乃は礼を失さぬ程度に足だけを正座の形に置き換えた。
「のう、町で何かあったのか?」
身を乗り出して護久が問いかける。
「先ほどから、普段見かけぬ商人たちまで出入りしておろう。気になって気になって、勉強も手に付かぬわ」
正直に答えていいのか、はぐらかした方がいいのか、判断がつかなかった。周りの者が口を出す様子もないので、当たり障りのない範囲で情報を選んで、幻乃は説明する。
「他藩の者が、町で商人を襲いました。三条家御用達の商家を含めて被害者も多く、火も出たことで、皆さま総出で対処に当たっておられるようです」
「なんと……!」
絶句した護久は、しかしすぐに平静を取り戻すと、大人びた調子で顎に手を当てる。
「どうりで兄上も、帰ってくるなり忙しくしておられるはずだ。襲ってきたのは、佐幕派の陣営か? 越後屋を潰せば、一時的とはいえ武器の仕入れが止まるものな」
「お、仰る通りです。ご存知だったのですか?」
言ってもないことまですらすらと言い当てられて、驚嘆とともに見つめれば、照れたように護久は頬をかいた。
「知らぬ。が、歴史と情勢を知っていれば、次に何が起こるのかというのは、だいたい予想がつくものだ」
「お見それしました。護久さまは、知識も視野も、広くていらっしゃるのですね」
「よせよせ、褒めても何も出んぞ」
はにかみながらも、視線を下げた護久は、「兄上も少しは私を頼ってくださればいいのに」と寂しそうに独りごちる。大人びた話し方をする少年ではあったが、そのときばかりは、声音にも年相応の幼さが滲んでいた。兄に認めて欲しくて背伸びをしているのだとしたら、なんとも健気なことである。
「状況は分かった。引っ張り込んでおいてなんだが、お主にはやるべきことはないのか」
「いえ、俺は、その……」
この状況においては、何もしないことが仕事のようなものである。とはいえ、まさかそんなことをこの意欲あふれる少年に言うわけにもいかない。言葉に迷う幻乃を見て、護久は憐れむように「よい。人には事情があるものだものな」と訳知り顔で頷いた。
「怪我か病気か、そのあたりか? 私も、ふたりきりの兄弟なのだから兄上を手伝いたいと常々主張しているのだが、この体のせいでままならぬ。動きたくとも動けぬ歯痒さは、よく分かるとも」
言いながら、護久はひどく咳き込んだ。気道のあたりに持病でもあるのだろうか。弟君の容体は冬になると悪くなる、と青吹屋も言っていた。涙目でひゅうひゅうと苦しそうな呼吸をしながら、護久はそばに置いていた薬湯を、ゆっくりと喉に流し込む。
「お加減は大丈夫ですか」
「気にするな。冬はいつもこうだ」
「気道の具合が、よろしくないのですか」
「ああ。昼はまだ良いが、夜になるとどうにもな。……といっても、昔に比べれば改善はしてきたのだぞ。薬も自分で調合できるゆえ、周囲の手を煩わせることも少なくなったしな」
薬湯を飲んで落ち着いたのか、護久は指でさっと涙を拭うと、忌々しげに頭を振った。
「それでも、戦に立つどころか、剣術の稽古ひとつろくにできぬ体たらくではあるがな。己の体ながら、腹立たしいものよ。……まこと、ままならぬ」
心が望むことに体がついてこないというのは、どのような気持ちなのだろう。頭で理解していても心がそれを受け入れないことはよくあるけれど、護久の言う通り、人間とは本当にままならないものだ。かける言葉を探している間に、すっと襖が開く音が聞こえてきた。
「お前の仕事は戦場に立つことではないと前にも言ったろう、護久」
「兄上!」
開いた襖に肩を預けるようにして、直澄が部屋の中を覗いていた。
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