8

 中に座る幻乃を見て、直澄は一瞬だけ眉根をひそめる。しかし次の瞬間には、民に向けるものと同じ柔和な笑みを、弟に向けていた。

 ぱっと表情を明るくして立ち上がった護久は、ほとんど走るように直澄との距離を詰めていく。


「事件への対処はもうよろしいのですか? 護久にもお手伝いできることはありませぬか。同盟藩への文を書くのでも、怪我人の治療でも、お役に立てますよ。ああ、火が出たと聞きましたが、町の皆は大丈夫でしょうか?」


 子犬が主人に纏わりつくような勢いが、何とも微笑ましい。

 直澄と護久が並んで立つと、兄弟というよりもまるで親子のようだった。前藩主が戦死したのが十年前であることを思えば、十以上年の離れた兄は、護久にとって実質父代わりのようなものだろう。

 苦笑しながら、直澄は護久の肩をそっと押さえた。


「一度にいくつ言うつもりだ? そう興奮すると、また発作が起きる。少しは落ち着け」

「大丈夫。今日は調子が良いのです。だから――けほっ」

「ほらみろ、言わんことはない。薬はもう飲んだのか」

「飲みました。子ども扱いしないでください!」


 そうは言うが、文句を言う顔は子どもそのものである。護衛の武士たちも、心なしか頬が緩んでいた。


「町の皆の様子はどうなのですか」

「ひとまずは落ち着いた。事情はこれから皆に聞く必要があるだろうが、火も消えたし、怪我人の手当も済んだところだ。……なんだ、幻乃に聞いたのか?」


 抜け出そうとするだろうから知らせなかったのに、と言う直澄に、護久はバツが悪そうに目を泳がせる。


「誰彼構わず引き込むものではないぞ」

「それは……、悪かったと思っています。でも、手が空いていそうな者を選んだつもりです。私にも手伝えることはありませぬか、兄上。屋敷にお戻りになったばかりで、お疲れでしょう? 敵が商家を狙うのは、きっと序の口です。本命はこの後に――」

「護久」


 言い募る護久の言葉を、静かに、けれど有無を言わさぬ声音で、直澄は制止した。


「荒事は俺の仕事だ。お前の考えることではない」

「ですが! 私とて未熟とはいえ三条の男です。寝てばかりいられませぬ!」

「医術も政治も歴史も、お前の知識は俺よりも広く深い。刀など振るわなくとも、お前にはそのよく回る頭があるだろう。平和な世で役に立つのは、知識と知恵だ。力ではない」


 護久は唇をへの字に曲げる。頑是ない子どもに言い聞かせるように、直澄は膝を折って護久に目線を合わせた。


「これから訪れる新時代では、お前のような優しく賢い者が皆を導いていくことになる。今はそのために、体調を整えて、知識を蓄えろ。それまでの後片付けは、兄がする。分かってくれるな?」

「……分かりません。今も未来も、兄上がいてくださればいいではないですか。私はそれを手伝えれば、それで十分です」

「聞き分けのないことを言うな。俺は元々、中継ぎの藩主だ。義母上も、そう言っていただろう?」

「私はそれもどうかと思うのです。母が違っていても、兄上は兄上ではありませんか。上に立つ者としての知識も経験も人格も、すべて兼ね備えておられるというのに……。混乱を生むだけなら、妻を複数持つ制度自体、見直すべきではありませぬか」


 まっすぐな眼差しを直澄に向けて、護久は語る。雲間から差し込む陽光が、護久の大きな瞳をきらりと照らし出した。おかしいと思うことをおかしいと主張できるのも、様々な欲やしがらみに囚われることなく考えを巡らすことができるのも、青臭いけれど、まぶしいほどに純粋だ。直澄はそんな弟を慈しむように目を細めて、小さく笑う。


「そう思うならば、お前が変えればいい。皆の幸せのために何が必要で何が不必要かを考えて、新しい時代を作りなさい。……そのためにも今は、あたたかくして療養せねばな」

「……はい。分かっています」


 不承不承といった体で頷いて、護久は机の前に戻り、足を落ち着けた。

 かと思えば、幻乃を見るなりわざとらしく咳払いをする。よく知らぬ者の前で年相応の顔を晒したことを恥じるように、きりりと表情を引き締めた護久は、ゆっくりと幻乃の名を呼んだ。


「急に呼び寄せて悪かったの。見ぬ顔だから、最近になって来た者なのだろう? お主も事情はあるのだろうが、ここに住んでいる以上、彦根藩のためによく働くのだぞ」

「……。精進いたします」


 それ以外に、幻乃に何が言えただろう。護久はあまりにまっすぐすぎて、幻乃には目を合わせることもできなかった。頭を下げて直澄に続こうとしたそのとき、「そういえば」と護久が口を開く。


「幻乃の髪を見て思い出したのですが、兄上のお部屋にある狐の面は、どこで手に入れたものなのですか?」


 振り返らぬまま、直澄がぴたりと足を止める。


「……狐?」

「はい。狐です。この間手習いを見て頂いたときに、襖の間から見えた気がして」

「動物には目がないのだな、護久」

「私は狐が好きなのです。臥せっていると、庭に来る動物たちくらいしか癒しがありませんから。どこかの祭りで買ったものなのですか? それとも、剣舞か何かに使うので? 兄上も狐が好きだとは知りませんでした」

「……さて。見間違いではないのか」


 しらを切るように、直澄がわずかに声音を落とした。


「俺も、狐を好ましくは思うがな。毛皮を剥いで縊り殺してやりたいくらいには、かわいらしくて、憎らしいと思っているよ」


 肩越しに振り返った直澄の隻眼は、その瞬間、たしかに幻乃を見つめていた。

 思わず頬を引きつらせたのは、幻乃だけではない。眉根を寄せて、咎めるように護久は唇を尖らせている。


「それは好きと言えるのですか? 可哀想ですよ」

「優しいお前には、分からぬだろうな」

「ええ……? どういうことですか、兄上」

「さてな。さあ、そろそろ寝床に戻りなさい。熱が出ているのだろう? 目が潤んでいるぞ」


 その言葉に動揺したのは、護久の付き人たちの方だった。慌てた様子で護久を見つめる護衛たちの気も知らず、直澄はのんびりと懐から丸薬を取り出すと、襖のそばの付き人に手渡している。


「熱覚ましをもらってきたから、熱が上がりそうなら、我慢せずに飲みなさい」


 元々これを届けに来たのだと言う直澄を恨めしげに見つめて、護久は「はい」と小さく返事をした。


「熱が出てるって、どうして分かるんですか。誰にも言ってないのに」

「意地を張らずに言いなさい。急に倒れると周囲が困るから。……雪が降り出すと、護久は決まって熱を出すだろう? いつものことだ」


 その言葉に外を見れば、ひらり、ひらりと花びらのような大粒の雪が舞っていた。先ほどまでわずかに見えていた晴れ間も、重苦しい灰色の雲で覆われている。


「兄上には敵いませんね」


 嬉しそうにはにかむ護久にもう一度「よく休め」と声を掛けて、直澄は部屋をあとにした。

 護久に部屋から十分距離が離れたところで、ぼそりと幻乃は口を開く。


「嘘つきですね、直澄さん」


 直澄は振り向かない。堂々たる背中を眺めながら、幻乃はそっと言葉を続けた。


「狐の面をいつ被るのか、俺もお聞きしてみたいと思っていました。……ずっと」


 直澄の口角が、皮肉げに上げる。答える気はないのだと、その振る舞いのすべてが語っていた。

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