9

 剥き出しの肌を、冬の空気が容赦なく苛んでいく。外はまだ闇が深く、夜明けにはほど遠い。

 寒いと思えば、服を着ていなかった。雪が降る夜に裸で寝るなど馬鹿げている。己はなんでまたそんな無謀なことをしたのだったか。寝惚けた頭で考えて、ああ、と思い出す。

 直澄のせいだ。

 護久と遭遇した後、幻乃は結局、城に呼び出されたお鶴や彦丸たちとともに襲撃の状況の聴取を受けた。ようやく解放されたと思ったのも束の間のこと、幻乃は直澄に首根っこをつかまれるようにして部屋へと放り込まれて、「暇なら刀の手入れでもしておけ」と襖を締め切られたのだった。


 ふらふらさせておくとろくなことをしないとでも思われたのだろう。幻乃とて好きで事件の現場に居合わせたわけでもないし、弟君に自分から関わりに行ったわけでもないというのに、信用のないことである。刀が血と脂で汚れているのもたしかではあったので、幻乃は直澄の言いつけ通り、普段の三倍以上の時間をかけて愛刀の手入れをした。冴え渡った空気の中で眺める刃文は、我ながら今までになく美しく仕上がったと思う。

 人を部屋に叩きこんだくせに、日が沈んでも直澄は戻ってこなかった。それをいいことに、幻乃は部屋の主を差し置いて、部屋の中央で早々に寝入っていたのだが、おそらくはそれが直澄の癪に触ったのだろう。夜中にようやく部屋に戻ってきた直澄は、寝こけている幻乃を見るなりたたき起こして、人の体で好き勝手遊んでくれたというわけだ。

 寝支度もしていなかったというのに、体を清める余裕もなく眠り込んでしまったらしい。そっと嘆息して、幻乃は身に染みついた習慣で、愛刀を手に取った。

 身を起こした拍子に、腰がじくりと痛みを伝えてくる。まだ何かが体のうちに埋め込まれているかのような感触に、眉を顰めたその時、蛇のように背後から這い寄った手が、幻乃の手首を素早く掴んだ。


「――どこへ行く? 幻乃」


 低く掠れた声は、先ほどまでの情交の色を濃く残した艶やかな響きを帯びていた。名を呼ばれるだけで、肌がぞわりと粟だつ。薄々自覚はあったが、すっかり己はこの男にいかれているらしい。


(だからと言って、何がどうなるわけでもないが)


 直澄は男で、幻乃も男。仮にどちらかが女であったとしても、血筋も知れない流れ者と、由緒正しい藩主の間に、何が起こるわけもない。

 どうせ今だけの戯れだ。


「直澄さん。すみません、起こしましたか」

「謝罪はいらない。どこへ行くのか、と聞いたんだ」


 今の今まで寝ていたとは思えない直澄の鋭い眼光に、幻乃はうっとりと目を細める。寝息だけを聞けば眠っていたようにも思えたけれど、考えてみれば、この獣のような男が他人の前でぐっすりと寝入るわけもなかった。

 昼こそ藩主らしく生真面目に振る舞っているが、直澄は夜には野生的な印象が強くなる。普段は凛々しく結えられている濡羽色の黒髪が、肩に無造作に流されているせいもあるだろう。


「別に、どこにも行きやしませんよ」


 少なくとも、今夜は。

 言わなかった言葉を察したわけでもないだろうが、手首を掴む手の力が不機嫌そうに強まった。


「体を清めようかと思っただけで――……っ」

「まだ足りない」


 最後まで言わせてもらうこともできないまま、腕を引かれて押し倒された。ごく自然に刀を手から遠ざけられて、あっという間に幻乃は寝台に引きずり込まれる。


「お前もそうだろう、幻乃」


 隠すもののない剥き出しの胸を、ゆっくりと舌で辿られる。隠しようもない官能の気配に、幻乃はたまらず体を揺らした。幻乃の胸から腹にかけては、塞がってなお存在感のある、大きな刀傷が刻まれている。ただでさえ敏感だった傷跡は、共寝のたびに直澄が執拗にいじるせいで、すっかり性感帯のひとつへと作り替えられていた。


「幻乃」


 乞うているのか、命じているのか。

 直澄の瞳の奥には、暗い熱が燻って見えた。刀を構えて向き合うときとまったく同じ、強い視線だ。幻乃を魅惑してやまないその眼差しに身を震わせながらも、焦らすように幻乃は身をよじる。


「怖いですねえ。獣のようなお方だ」

「どっちが? 昂っていたのは、お前の方だ。違うか」

「さて、どうでしょう。直澄さんは俺をちっとも戦いへ連れて行ってくださらないから、久しぶりの血に酔ってしまったのかもしれません」

「それだけで、そんなにも飢えたような顔をしていると?」

「直澄さんに触れるのは久しぶりだから、というのはどうでしょう」


 茶化す言葉の中に、ほんのわずかな本音を混ぜ込み笑う。

 閨の中ではふたりだけ。面倒なことすべてを忘れて、ただひとりの同類を隣に感じることができる。そっと手を伸ばして頬に触れれば、直澄は幻乃の手にすり寄るように首を傾けた。


「そういう趣向か?」

「そういう趣向です」


 音を立てて口付ける。途端に、殺伐としていた空気に、かすかな甘さが滲んだ。


「言い忘れていました。おかえりなさい、直澄さん。長旅お疲れさまでした」

「今さらか」

「申し訳ありません。刀に夢中だったもので」

「いつだってそうだろう」

「ええ。だって、刀だけがいつだって俺のそばにあるものですから。俺とあなたを繋いでくれたのだって、刀でしょう?」

「……そうだな」


 直澄が目を細める。疲れているだろうに、その表情には疲労ひとつ滲んでいない。けれど、どれだけ表情を取り繕っても、体はごまかせない。


「目の下に隈ができていますよ。ここのところ、随分と忙しくされていますね」


 そう囁きながら隈をなぞれば、くすぐったそうに直澄は目元に皺を寄せた。


「仕方がない。そうするだけの必要がある。世は未だ、落ち着いていない」

「戦力が必要なら、俺を使ってくださればいいのに。これでもそれなりに腕は立つ方だと自負していますよ?」

「知っている」

「光栄です。直澄さんに言われても、嫌味にしか聞こえませんけどね」


 伸ばされた指に指を絡ませ、甘えるように握り込む。

 甘い感情なんてかけらもないのに、想いを通わせた情人どうしのように身を寄せ合って、触れ合うだけの口付けを何度も交わす。互いに互いの何かを求めて目をぎらつかせながら、愛を交わす者たちの振る舞いをなぞって、ごっこ遊びに身を浸す。

 馬鹿馬鹿しい戯れだ。けれど、くだらなければくだらないほど、現実逃避にはちょうどいい。


(こんなくだらない関係を、結局冬になるまでずるずると続けてしまった)


 相手が直澄でなかったとしたら憤死しているか、とっくに首を落としているところだ。しようと思えば、直澄相手でもきっとできた。共寝をしている今、直澄が最も無防備になる瞬間を何度も幻乃は共有しているのだから。

 それでもそうしなかったのは、なぜなのか。考えても仕方のないことは、それ以上考えない。代わりに幻乃は、からかうように笑顔を作った。


「縁談が進んでいると聞きましたよ」

「誰から」

「さあ、誰だったかな。……それに、王政復古の大号令、でしたか。着々と時代も進んでいるようだ。時間が経つのは早いですね。季節も時代も繋がりも、移り変わりというものは、とかく目まぐるしいものです。俺だけが、置いていかれているような気分になりますよ」


 いつも通りに茶化して言ったつもりだったのに、直澄は訝しむように眉根を寄せた。それどころか、幻乃の頬を両手で包み込み、心までのぞき込もうとするかのように瞳をじっと見つめてくる。


「今日のお前は、おかしいな。どうした、幻乃」

「どうもしませんよ。そういう趣向だって、言ったでしょう? それだけです」


 目を逸らし、それ以上表情を見られることを避けるように、幻乃は直澄の頭を胸に抱え込んだ。


「ねえ直澄さん。どうして俺を生かしたんですか」

「またそれか?」


 くぐもった声が面白くて、幻乃はくすくすと笑った。直澄が身じろぎするたびに触れる、すべすべとした髪の感触が心地よい。


「いつまで経っても答えてくれないあなたが悪い。穀潰しを飼う悪趣味な藩主だと、噂になっていましたよ」

「悪趣味か。言い得て妙だな」

「おや。自覚はあるんですね」


 躍起になって逃げようとする直澄の後頭部を押さえつけ、戯れにつむじへ口付ける。くすぐったかったのか、肩を揺らした直澄は、堪えかねたように幻乃の腕を力づくで剥がした。


「やめろ」

「残念です。直澄さんの髪、好きなんですけどね。男に言うのもなんですが、お綺麗な髪じゃないですか。魅力的だと思いますよ」

「初めて言われた」

「それは、皆さん見る目がないようで」

「お前の口説き文句は面白みに欠けるな」

「面白く口説いて欲しかったんですか」

「結構だ」

「残念です」


 目元を緩ませる直澄は、どこか気の抜けた顔をしていた。眼光こそ普段通りに見えたけれど、そうは言っても一度寝入った後だから、気が緩んでいるのかもしれない。その顔を見て、つられて笑みを返す自分も、同じくらい気の抜けた顔をしているのだろう。

 虫唾が走った。

 生かされた恨みを忘れていないと己がこの口で言ったくせに、ふとした瞬間、疑わしくなる。


(俺は、斬れるだろうか)


 幻乃を昂らせるものは命をかけた斬り合いで、直澄はそのための極上の相手。

 それだけなのに、直澄のそばで暮らしていると、己を己たらしめるものを時折見失いそうになる。やれ新時代だ、やれ今後の身の振り方だとどれだけやかましく外野が騒ぎ立てたとしても、幻乃にとっての唯一不可侵の指針だけは、失くすわけにいかないのに。

 口を閉ざして、肌を合わせる。直澄は、幻乃の首元に顔を埋めたまま頭を上げなかった。言葉も交わさないまま、互いの肌の温度だけをぼんやりと感じて、どれくらい経っただろうか。ほとんど吐息のような声で、直澄は静かに言葉を紡いだ。


「復讐――と言ったらどうする」

「……え?」


 何の話だと考えて、それが先ほどの問いへの答えなのだと気づいた瞬間、目を見張る。普段であれば頑なに語ろうとはしないその理由の片鱗を、その夜初めて、直澄は不用意に覗かせた。

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