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「俺、は……斬り合いがしたいんです。刀も抜けない状況で、あなたを斬っても楽しくない」

「そうか。そうだろうな」


 言葉を切った直澄は、ふ、と唇を綻ばせると、全身の力をだらりと抜いた。


「……ああ。やっぱり、そういう顔をしている方が、お前らしいな」


 直澄は、眩しいものでも見るように目を細めて、幻乃を見上げていた。


「俺、らしい?」

「斬り合いは楽しいだろう? 命の削り合いは心が躍るだろう? 今宵は、良い機会だと思ったのだがな。刀を交わして、血のにおいに溺れて、切り捨てた命になんて見向きもしない……自由で傲慢で冷酷な『狐』。お前には、我欲のままに生きる姿が何より似合う」


 愛を囁かれているのかと錯覚するくらい、甘い声だった。直澄の手が、幻乃の後頭部にそっと触れる。引き寄せられるがまま、幻乃は直澄の肩に額を押し付けた。


「――考えるな、幻乃。余計なことなど、何も気にしなくていい。お前は斬りたいだけ斬ればいいんだ」


 耳に吹き込まれた囁きは、乱れていた幻乃の心に、毒のように染み込んでいった。

 今や誰も肯定してくれない幻乃の生き方を、直澄だけは認めてくれる。ただひとり同じ享楽を共有できる強者が、それを許して、受け入れてくれる。

 理解した瞬間、わけも分からないまま、ぶわりと頬が熱くなった。


「……それ、は……どうなんでしょう。時代、が……許さない、のでは」

「俺が許すさ」


 後頭部を撫でていた手が、幻乃のうなじを優しく掴む。節くれだった指の感触を意識した瞬間、全身がぶるりと震えた。

 首という急所を掴まれているという事実に、体は間違いなく恐怖しているというのに、重なった肌の感触に、燻るような熱が増していく。

 その瞬間、幻乃は間違いようもなく、直澄に欲情していた。気まぐれだったのかもしれないし、気の迷いだったのかもしれない。熱に浮かされた頭が正気でなかったことだけは確かだろう。

 ゆっくりと顔を上げると、暗い熱が燻る瞳がこちらを見つめていた。先ほどまでは焦りをもたらすものでしかなかったはずなのに、今はその欲を含んだ視線が、不思議と心地良い。

 気づけば幻乃は、直澄の瞳に引き寄せられるように顔を傾けて、唇を重ねていた。嫌悪感など、まるで感じない。直澄が驚いたように目を見開くのは分かったけれど、止められない。


「口吸いはお嫌いですか?」


 薄い唇の感触を味わうように軽く吸って、熱に浮かされたような心地で直澄の唇を舐め上げる。わずかに強張った直澄の体を、逃がさないように幻乃は強く押さえつけた。


「……なぜ」

「なぜ、とは?」

「あれほど抵抗したくせに」

「気が変わりました。口説かれればその気にもなる。そういうものでしょう、閨ごとなんて。ああそれとも……寝技はお得意でないようでしたし、こちらも苦手でしたか? 顔に似合わず、おかわいらしくていらっしゃるんですね。直澄さん」


 嘲笑を向けてやれば、直澄は笑顔なのか怒りなのかも分からぬ獰猛な顔をして、短い唸り声を上げる。野生の狼のようなその声を笑う間もなく、ぐるりと強引に上下を入れ替えられた。

 視線が交わる。

 興奮しきった眼差しを笑ってやろうかとも思ったけれど、己とて人のことが言えるような状態ではなかった。

 動いたのは、果たしてどちらか先だったか。考えるより前に、噛み付くように唇を合わせていた。


 相手に主導権を握られる行為というのは、どうにも尻の座りが悪くてたまらない。けれどその不自由さは、思っていたほど悪いものではなかった。

 競うように相手の衣服に手をかけて、隔てるもののない肌をひたりと合わせる。ひやりとした手のひらが、確かめるかのように幻乃の筋肉の線を辿っていった。

 その指先が腹の傷跡にたどり着いた瞬間、幻乃が感じたものは、疑いようもない官能だった。背を反らせた拍子に顎が上がる。くすり、と直澄が嘲るように笑った。


「傷が好きか」

「そう、かもしれません。嫌だな、知りたくなかった」

「どうして?」


 低く甘く語りかけながらも、直澄は見せつけるように幻乃の傷跡に舌を這わせていく。くすぐったさの奥にあるぞくぞくとするような感覚が、快楽の萌芽なのだと一度気づいてしまえば、意識せずにはいられなくなった。


「あなたに斬られた傷で昂るなんて――」


 言い淀んだ言葉を、直澄は嫌味にも声に出す。


「屈辱的、か? それは、唆られるな」


 上機嫌に唇の端を上げたまま、直澄は幻乃の片足を無遠慮に押しのけた。我が物顔で人の体を割り開くその傲慢さが鼻につく。今からでももう一度組み敷いて、直澄の涼しい顔を歪めてやったらどれほど胸がすくことだろう。よほどそうしてやろうかとは思ったけれど、やめた。いくら顔が美しいとはいえ、好んでこの大男を抱く気はしない。

 とはいえ、受け身ならば良いという話でもないが。

 誰にも触れられたことのない場所を、香油を纏わせた指で探られる。内臓に触れられる不快感に堪えかねて顔を顰めると、直澄は不思議そうに首を傾げた。


「別に経験がないわけでもないだろう? お前は酒井俊一殿の、稚児だったのではないのか」

「はあ?」


 あまりにも馬鹿げた言葉が耳に届いたものだから、それまで浸っていた淫猥な空気も忘れて、幻乃は剣呑な唸り声を上げた。


「それは俺と俊一さま、両方への侮辱です。俊一さまは大層な愛妻家でいらっしゃいました。衆道でさえも奥方への裏切りだと言って手を出されなかった。俺だって、主人とそんなこと、したくないですよ。想像するのも気色悪い」

「お前は流れ者だと言っていた。体もまだ出来上がらぬうちから戦場に出ておいて、一度たりとも誰の慰み者になったこともないと?」

「逆に聞きたいですけど、俺より弱い者に、なぜ俺がわざわざ足を開かねばならないとお思いで?」


 小柄な体格のせいで、女日照りの者たちにそういった目で見られたことがないわけではないが、身の程知らずどもはすべて腕っぷしで叩きのめして後悔させてきたのが幻乃という人間だ。


「こんなこと、あなたが相手でなければ、やろうとも思わない」


 吐き捨てるように呟けば、直澄は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして動きを止めた。


「……そうか。すまなかった」

「え……」


 直澄が謝罪の言葉を口にしたのも衝撃的ではあったが、その表情は余計にわけが分からなかった。

 直澄は、薄がりでも分かるほどに目元を赤く染めていた。幻乃の見間違いでなければ、その顔に浮かんでいるのは似合いもしない照れの色だし、手で口元を覆ってこそいるが、緩んだ唇が隠しきれていない。

 怒っているんだか照れているんだかも分からない不思議な表情は、奇妙なほど直澄を幼く見せていた。普段は本人の不遜な態度のせいで忘れがちだけれど、そういえば直澄はいくつも幻乃より若かったのだと、彼我の年齢差を唐突に思い出す。


「いや、別にいいですけど……。……っ?」


 言葉は続かなかった。

 掠れた吐息をこぼしながら、今まで味わったことのない感覚に、幻乃はただ体を震わせる。慌てて手で口を覆おうとしたけれど、目ざとくそれを見咎めた直澄が、片手で幻乃の手を押さえ込んでしまう。


「悪くは、ないだろう? お前に教えてやれることがあるとは、思わなかったな」


 きつく目を閉じる。けれど、視界を閉ざしたところで、直澄の声を締め出せるわけがない。


「戦闘も謀略も色ごとも、いつだって余裕綽々で、嫌味な笑みを崩しもしない、名高い『狐』――お前の体を初めて暴くのは、俺か。……光栄だな」


 余裕という余裕を、一枚一枚、丁寧にはぎ取られていく気分だった。気持ちいいのか悪いのかすら、よく分からない。体を繋げた瞬間に感じたのは、ただ強烈な圧迫感だけだった。

 衆道を嗜んでいた周囲の者たちは、本当にこんなことをしていたのだろうか。とても正気とは思えない。自分で煽ったことながら、なんでこんなことをやろうと思ってしまったのだろう。己がどんな顔をしているのかなど、考える間もなかった。いつものような笑みを作れていなかったことだけはたしかだろう。不覚にも視界を潤ませた幻乃とは対照的に、直澄は恍惚と笑っていた。


「あのお前が、表情ひとつ取り繕えないとは。閨のお前は、こんな顔をするのか。……ああ、いいな、たまらない……!」


 直澄のその顔は、斬り合っているときとよく似た興奮の色を浮かべていた。


「あれだけ大口を叩いていたくせに、まぐわいもろくに知らなかったのか、幻乃? ……愛いことだな」

「……くそ、この……っ!」


 罵倒しようにも、おかしな声が漏れそうで悪態ひとつ返せやしない。自分が吐いた毒を、字面だけを変えてそっくりそのまま返される屈辱は、筆舌に尽くしがたいものがあった。

 気持ちが良くて、気持ちが悪い。事が済んで正気に返り、近付きすぎた距離に慄いたときには、すべてが遅かった。

 一度線を越えてしまえば戻れない。

 その夜が明けても、色付いた葉がすべて落ちても、幻乃と直澄は理由をつけては手を伸ばし、現実逃避のように快楽に身を浸すことをやめられなかった。

 宙ぶらりんの立場のまま、秋は瞬く間に過ぎていく。

 けれど、時代は維新と動乱の真っ最中。所詮はすべて、薄氷の上の日常だった。

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