5

 ぱちぱちと残酷なほど軽やかな音を立てて、家屋が焼け落ちていく。

 静かだった。静かであるはずがないのに、炎の音以外が聞こえない。直澄の視界に映っていた限りでも、倒壊に巻き込まれた者は多くいた。現に、耳を澄ませば悲鳴とうめき声がかすかに聞こえてくる。ただ単に、他の音が聞こえないほどに、炎の燃え盛る音が大きいのだ。

 本来であれば、この場でもっとも静かであるはずがない男は、今は死んだように身じろぎひとつしていなかった。直澄が与えた傷のせいではないだろう。刀が幻乃の命に届いたあの一瞬、ほんの刹那の間感じたためらいが、剣先を鈍らせた。出血こそ酷いが、致命傷には至らなかったはずだ。城が倒壊する直前、咄嗟に押し倒したせいで、頭を打ちつけたのかもしれない。


 己が斬ったばかりの小柄な体を、直澄は自分の背に乗せるようにして右腕で支える。利き腕が埋まるのは好ましくはないが、幻乃の刺突を喰らった左腕はしびれが酷く、意識のない男ひとりを抱えられるほどの力は残っていなかった。

 殺し合いなら容赦はしない、といつか言われた記憶があった。幻乃は、有言実行の男だった。目の潰れた左を狙われると、どうしても一瞬、反応が遅れる。心臓こそ外せたけれど、左腕は死んだも同然だろう。


(お前の勝ちだ、幻乃)


 直澄は斬れなかった。最後の最後で、心がそれを拒絶した。城の倒壊さえなければ、二手目で仕留められていたのは自分の方だろう。

 出血の止まらぬ肩はすでに感覚がほとんどないし、辛うじて圧死は免れたとはいえ、焼け落ちてくる木片を受け止めた背は、火傷を負ったのか、焼けるように熱かった。前も後ろも分からぬ炎の中で、空気の流れだけを頼りに、直澄は燃える屋敷の下から慎重に這い出ていく。


「――は……っ」


 炎の届かぬ場所まで辛うじて進むと、直澄は、地面に投げ出すようにして幻乃の体を横たえた。煙の中で目を細めて、辺りの様子をざっと伺う。

 人影は見えなかった。代わりに城の裏側から、かすかな怒号が風に乗って聞こえてくる。歓喜の声が上がっているところからして、誰かが敵将の首を落としたのかもしれない。


「ひ……っ」


 怯えたような吐息が聞こえた。顔を上げれば、彦根藩のかみしも小紋を纏った男が、ひとりこちらを凝視しながら立っていた。見覚えのある顔だ。年若い武士は、たしか名を忠太といっただろうか。家族を失い、他藩からやってきたばかりなのだと会話をした覚えがある。

 忠太は、鬼か悪魔でも見るような顔をして、こちらに刀を向けていた。近くに落ちていた誰のものとも知れぬ刀を直澄が拾いあげると、「あ、お、お屋形、さま」とさらに怯えの色を深くする。


「……警告は一度だけだ。命が惜しいなら、退け」


 表情も声音も、取り繕うだけの余裕がなかった。冷淡に響いた直澄の声を受け止めて、忠太はぶるぶると震えながらも刀を握り直す。


「ち、父上は、人斬り狐に殺されました。お屋形さまだなんて、思いませんでした。今のあなたなら、俺だって……!」


 向かってくる青年を、舌打ちしながら斬り殺す。一太刀すらも受け止めることなく腹を斬られた忠太は、怯えと驚愕だけをその顔に浮かべて、あっけなく地面へと沈んでいった。

 藩主ではない直澄に向かい合う者は皆、怯えた顔をして死んでいく。一度たりとも恐怖を見せなかった者など、幻乃くらいだ。あの腹の底が見えない男は、昔も今も狂ったように斬り合いを求めては、血に塗れて笑うばかりだから。

 初めて幻乃に刃が届いた夜も、今夜も、幻乃は自分が斬られる瞬間でさえ満足げに微笑んでいた。そんな常に変わらず強くあり続ける幻乃に、直澄は焦がれ続けている。直澄が狐の面をつけるようになるずっと前――十年前の初陣で、酒井家のいけすかない従者であった幻乃に出会ったときから、ずっと。


――敗者にはな、理由を聞く権利なんてないんだよ!

 年若い狐顔の少年に、馬鹿にするようにそう声を掛けられた日のことを、忘れたときはない。


『ひっ! うああ! 爺! 爺……?』


 初めて連れて行かれた戦場は、地獄のようだった。数秒前まで生きていたはずの人間が、次々に恐ろしい断末魔を上げて倒れていく。早く父の役に立ちたいからと無理を押し通したことを、あの日ほど悔いた時はなかった。

 従者の腹からこぼれ落ちる臓腑を見つめて、少年だった直澄は恐怖に戦慄わなないていた。周囲の状況すらろくに見えておらず、指南役から教わった戦技もすっかりと忘れて、幼い直澄は呆けることしかできなかった。

 身を挺して自分を庇ってくれた老従者を呆然と見つめて、忍具の刺さった己の片目を馬鹿みたいに押さえながら、迫り来る敵を見上げることしかできなかった。


『ああ、子どもがいたのか。殺し損ねた』


 淡々と呟く声は、まだ若い。倒れていく従者の体の向こう側に、刀を振り上げる茶髪の少年の姿が見えた。幻乃との年の差なんてほんの数歳なのに、子どもだった当時は遥かに年上に見えたものだ。

 こちらを見下すように笑っているのに、目だけがぎらついたその表情。戦いを楽しみ、生を謳歌していることが一目で分かる。怯え竦むだけの直澄と比べて、その少年の心の在りようの、なんと強く美しいことだろう。


『戦場で泣く馬鹿は初めて見た。可哀想にな。弱い奴は誰かのお荷物になって泣き喚くことしかできないんだから、気の毒だ』


 直澄の左目に刺さったクナイに手を掛けて、少年は容赦なくそれを引き下ろす。目の前が真っ赤に染まるほどの激痛に、直澄は絶叫した。


『ほら、立て。その手の刀はお飾りか? 黙って死ぬのがお好みか?』


 あからさまな嘲笑に、怒りで頭がどうにかなりそうだった。逃げることも向かうこともできぬまま、直澄はその場で馬鹿みたいに刀を振りまわす。


『う、ううぅ!』

『あは……、そうだ! 死に物狂いで来れば少しは愉しめる。おいで』


 どれだけ刀を振っても、一太刀も届かなかった。軽々と受け流されては、戯れのように肌を刻まれる。彼我の間にどれだけの実力差があるのかさえも分からぬほど、その少年は強かった。

 数回それを繰り返して飽きたのか、唐突に少年は酷薄に唇を歪めて吐き捨てる。


『もういいや』


 小手を狙われ、刀が手から弾き飛ばされる。体勢を崩した直澄の目前には、目に負えぬほどの速さで凶刃が迫っていた。刃の向こう側で、少年が笑う。惜しむように目を細めて、楽しくてたまらないとばかりに、純粋に。

 その表情は、ぞっとするほど美しかった。魅入られたように少年を見上げながら、迫りくる死を真っ向から見つめたあの時、きっとそれまで生きてきた三条直澄は死んだのだろう。


『――おおおぉ! 三条、討ち取ったり!』


 しかし、少年の刀が直澄を真実殺す直前で、勝ち鬨を上げる声がびりびりと響き渡った。ぴくりと眉を顰めた少年は、手を止めると、周囲の状況を確かめるようにくるりと辺りを見渡す。身動きひとつできない直澄が状況を把握する前に、誰かが『狐!』と叫ぶ声が聞こえた。


『何してる。引き上げるぞ、狐』

『分かってますよ』


 暴れ足りないのか、刀についた血を乱暴に振り落としたその『狐』は、納刀しながら、馬鹿にするように直澄を見下した。


『命拾いしたな、ちび。がたがた震えて、みっともないったらありゃしない』


 言うだけ言って、くるりと背を向けた『狐』に、直澄は思わず声を掛ける。


『俺を殺さないのか……? どうして……?』

『……なんだ、初陣か? 覚えておくんだな。敗者にはな、理由を聞く権利なんてないんだよ!』


 腹を蹴り上げられて、蹲る。降ってきた声は、嘲笑なんて言葉では収まらないくらい、人を馬鹿にしきった声音だった。


『戦場に出ておいて刀もろくに振れないお子さまなんて、殺す価値もない。生き恥を抱えて逃げ帰れ、臆病者』


 今思えば、『狐』――幻乃は、本営から離れた場所にいた直澄のことを、三条家の長男だとは分かっていなかったのだろう。そうでなければ、いくらなんでもあそこまで傲岸不遜な口は叩くまい。幻乃は、およそ人間らしい良心を持ち合わせていない代わりに、立場や身分には妙にこだわるところのある男だから。

 直澄は幻乃に

 初陣で受けたその屈辱は、幼かった直澄の心に消えぬ傷を刻みつけた。艶やかな笑みで脳裏を焼いて、幻乃は直澄の左目と心に、生涯消えぬ傷を鮮やかに刻んでいったのだ。

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