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「さて、できるでしょうか? 人の口に門戸は立てられません。急げば、間に合うかもしれませんけどね。これでよそ見をやめて、俺だけを見てくださいますか?」


 飢えた獣のように、幻乃はじっと直澄を見つめた。

 燃え盛る屋敷を背にした直澄は、当主であるにも関わらず、歴史ある生家を惜しむ様子すら見られない。周りには死体の山が積み重なっているというのに、動揺も逡巡も、かけらたりとも滲んでいなかった。そんな威風堂々とした立ち姿は、波紋ひとつ立たぬ水面を見ているかのようだ。

 そして今、そんな強者の視線は、幻乃ただひとりに据えられている。

 これ以上の喜びがあるだろうか?

 この姿が見たかった。主人を害され、生き恥を晒すことを強いられたあの日から、ずっと幻乃は『人斬り狐』たる直澄に会いたくてたまらなかった。


「……お前は本当に度し難い。この状況でなお、望むのは斬り合いか」

「つれないあなたがいけないんです。あなたが藩主でなければよかったのに。こうでもしなければ、俺の身分ではあなたに手が届きません」

「酒井俊次殿を唆したのも、旧幕府軍と新政府軍の争いがこうも早く進むよう仕向けたのも、お前だな。誰かが糸を引かねば、こうまで争いが激化するはずもない」

「たかだか人ひとりに何ができましょう? 俺はただ尋ねただけです。『これでいいのか』とね。争う道を選んだのは俊次殿であり、剣士たちであり、鬱憤を溜め込んでいた皆さまです。これが人々の総意ですよ。皆さま、新時代の焚べ木となれて満足でしょう」


 互いに刀を構え、出方を読み合いながらも言葉を交わす。最後に言葉を交わしてから一月も経っていないというのに、随分と久しぶりに直澄と向き合ったような気がした。


「救いようがないほど愚かだな。再戦ならば、いずれ受けると言ったはずだ。待てもできなかったか?」

「生憎、主人から教わっていないのです」


 いつかも同じやり取りをした。竹刀が真剣に変わっただけだというのに、互いを取り巻く状況はまったく違う。季節も時代も、あるいは心も、変化というものは目まぐるしい。不意に懐かしくなって、幻乃はけたけたと声を上げて笑った。

 対する直澄は表情を変えぬまま頭を振って、呆れたように口を開く。


「いくらでもほかに、平和的なやりようはあっただろうに」

「平和的なやりよう? あなたの言葉とは思えませんね。時代を変えるために、何人を手にかけてきましたか? 罪悪感なんて、ありましたか? ……ありませんよね。必要だと思ったからやった。そうでしょう?」


 氷のような無表情のまま、直澄は肯定も否定もしなかった。それが答えだった。


「俺も同じですよ。戦場だけが俺の生きる場所で、刀だけが俺の隣に在るものだ。負けて生かされ囲われる……そんな生き恥を晒し続けるくらいなら、ふるき時代と沈む道を俺は選びます。これが一番、あなたと斬り合うために手っ取り早かったんですよ」

「酒井俊一殿が誇った懐刀が、なぜそうも死に急ぐ? お前にかかれば手に入らぬ情報はなく、道端の石ほどの障害すら残らないと謳われた、高名な『狐』。そのお前が選んだ道が、これか。……気が触れたのかと思うほど、お粗末な結末だ」


 それは皮肉か挑発か。どちらにせよ、効果は覿面てきめんだった。見せつけるように自らの刀を鞘に納めて、幻乃は居合いの構えを取る。


「お戯れを。いまや『狐』といえば、人々が思い浮かべるのは『人斬り狐』――あなたの名となりました。俺の気が触れているというのなら、それはあなたのせいでしょう。小浜で生きた『狐』は死んだ。あなたに殺されたんだ、三条直澄!」


 直澄は幻乃の叫びを受け止めると、二度の瞬きの後、堪えきれないとばかりに、目をぎらりと愉悦に輝かせた。


「そうか。そうだな。……これで最後かと思うと、とても残念だ。幻乃」


 直澄が刀を中段に構え直す。応えるように幻乃は、片足を引いて半身に構えた。


「あなたとは何度も死合ってきましたが、これが真実最後です、直澄さん」

「お望み通り、冥府に送ってやろう。今度こそ」


 笑みを浮かべ続けた幻乃は表情を消した。

 対照的に、それまで無表情だった直澄は、嬉しくてたまらないとばかりに獰猛に笑った。

 その瞬間、幻乃の世界にあるものは直澄だけで、直澄の世界に存在するものもまた、幻乃だけだった。

 先に地を蹴ったのは幻乃だった。研ぎ澄まされた感覚の世界で、一切の無駄なく抜刀する。

 直澄を睨みつけたまま、幻乃は居合い抜きの勢いのまま、直澄の心臓を狙って刺突に移行した。幻乃の刀は、直澄の刀よりも一手早く肉を切り裂いていく。

 しかし、直澄の左肩を鋭く抉った刃は、それ以上進まなかった。不思議に思ったときには、焼けつくような熱さを、胸に感じていた。


「ぁ――」


 たった一秒が、永遠のように長く感じられた。

 半年前、直澄に斬られてできた傷をそっくりそのままなぞるように、直澄の刃が食い込んでいく。赤い血肉がぱっくりとのぞく。


(お見事)


 清々しい気持ちで、幻乃は己が身を割く刃を受け入れる。

 この半年、療養の傍らで腕を磨いてきたけれど、とうとうこの人には届かなかった。悔しくはあったけれど、直澄に斬られて死ねるのなら、これ以上の幸せはない。

 口角が上がる。

 反対に、直澄は笑みを歪めた。高揚と悲しみが混ぜこぜになったような無様な顔。今にも叫び出しそうな揺れる瞳を見ていられなくなって、思わず手を伸ばす。しかし、届かなかった。

 肩を斬られる反動で、刀が手から離れていく。終わってしまうことが、惜しくてならなかった。


(ああ、未練だな)


 まだ斬り合っていたい。まだ終わらせたくない。まだこの人の視界に映っていたい。もっと語り合って、この人を知りたかった。

 けれどそんな贅沢は叶わない。だからせめて、と目を細める。

 最後の最後まで見つめ合ったまま、直澄の刃が己の命を刈り取っていく感触を、じっくりと堪能したかった。

 やがて、残酷で愛おしい一秒は、終わりを告げる。

 つくべき決着の結末としてではなく、轟音とともに倒れ込んでくる炎の塊と、文字通り全身を焼かれるような、熱風によって。


「城が――!」

「崩れるぞ! 離れろ!」


 動き出した時間の外で、喚く声が聞こえた。

 刻一刻と迫る炎が肌をあぶる。悲鳴のような音を上げて、天守閣を支えていた柱が崩れていく。焼け焦げた壁と屋根とが、視界いっぱいに近づいてくる。

 幻乃は、迫り来る炎の塊をただ見つめていた。


(……報いか)


 欲を言えば、直澄に命を捧げたかった。けれど、直澄の刃が幻乃を殺すより、焼けた屋敷に潰されて事切れる方がきっと早い。最後の最後に計算外ではあるが、これだけ多くの人々を巻き込んでおいて、自分だけが願いをすべて叶えようというのは、あまりにも強欲が過ぎたのだろう。

 勝負はついたのだ。それで良しとしよう。

 迫り来る死を受け入れて、幻乃はそっと目を伏せようとした。

 しかし、城が倒壊するまさにその瞬間、腹に叩きつけるような衝撃を受け、視界がぐるりと回る。


「……っ⁉︎ な――」


 直澄だった。刀を手放した直澄は、体当たりをするように幻乃の体を押しやって、全身を盾にするように覆い被さっていた。押し倒される過程で、後頭部をしたたかに地面に打ち付ける。何をしているのかと怒鳴る間もなく、くわんと頭が芯から揺れて、意識が急激に遠ざかっていった。

 轟音が響く。

 幻乃が最後に感じたものは、一切の手加減なく幻乃を抱きすくめてくる腕の感触と、炎に呑まれる熱さだけだった。

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