3
抑えきれない興奮に、幻乃の視界がきゅうと狭まる。
待ちに待ったこの瞬間を、逃してなるものか。このためだけに俊次を唆し、寝る間も惜しんで駆けずり回ってきたのだから。
しかし、意気揚々と斬りかかろうとした瞬間、「おい、幻乃!」と悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。
「聞いていないぞ、こんな……、このような化け物がいるなんて!」
視線を向ければ、青ざめた顔をした俊次が、大柄な体をみっともなく縮めながら、責めるように幻乃を指さしていた。時代に取り残されたこの男は、喚き散らすしか能がないらしい。怖いのなら初めから戦など起こすべきではなかったし、力を示したいと言うのなら、構えるべきは指ではなく刀である。
せっかくこんなにも素晴らしい夜だというのに、水を差された気分だった。
「おや、そうでしたか? それは失礼」
「し、失礼も何もあるか! 人斬り狐だと? 天下の人斬りの名くらい知っておるぞ! こんな化け物がここにいるなど、貴様はそんなこと、一言も言っていなかったではないか!」
「報告の必要を感じなかったもので。それに……仮にも藩主を名乗るなら、たったひとりがそうも恐ろしいなどと、情けないことをおっしゃらないでいただきたい」
もはや嘲笑を隠さず言い放てば、俊次は顔を真っ赤にしながら喚き散らした。
「貴様……謀ったな! 主君を危険に晒すとは何事だ!」
「何か誤解しておられるようだ。俺の主君は、昔も今も、
「な、な……! 幻乃、貴様ぁ!」
掴みかかろうとする俊次の腕をひらりと交わして、幻乃はため息をつく。
「戦は起きた。戦火もこの地に届いた。お会いしたかった方も引きずり出せた。もう、あなたに用はありません。今日までどうもお世話になりました。悪いことは言いませんから、永らえたければ城の裏手へ進んでください。焼け落ちる前に、どうぞお早く。先行している者がおりますから、ここよりは安全でしょう」
「こ、こ、この、無礼者が!」
激昂した俊次が刀を振りかぶるより早く、幻乃の真横を黒い風が吹き抜けていく。即座に気付いて刺突を逸らすが、一歩遅かった。
悲鳴が上がる。
「大した忠義だ」
呟く声とともに、鮮血が散った。
「何をしに出て行ったかと思えば、亡き主人への義理立てとはな」
「がっ、……あ!」
抉られた肩を押さえて、俊次は信じられないものを見るように目を見開いた。慌てて俊次を背に庇う側近たちに、幻乃は行け、と目だけで指し示す。苦々しい顔をしつつも、目配せの意図を汲み取った側近たちは、引きずるように俊次を城の方角へと連れて行く。
狐面越しにそれを見送って、人斬り狐は嘲るように笑う。
「気の毒に。無駄に苦しむだけだ。お前のせいで仕留め損ねた」
「まだ殺されては困ります。将の首が落ちれば終わってしまう」
「それも忠義か。酒井俊一殿への」
濃厚な殺意を含んだ視線を向けられれば、もう我慢なんてできなかった。ぶるりと体を震わせて、幻乃は強く刀の柄を握り込む。
「まさか。こんなもの、ただの私情です。俊一さまには、たしかにお世話になりましたけど、ね――!」
凍りついている周囲を横目に、幻乃は体を低く沈めて、一息に地を駆けた。体格で劣る以上、真っ向からの力比べでは勝ち目がない。速さと搦め手だけが、幻乃に残された勝ち筋だった。指の間に挟み込んだクナイを三本、人斬り狐に向かって投げつける。――と同時に、今の自分にできる最高の速度で、幻乃は刀を振るった。
きぃん、と耳が痛くなるような金属音が響く。受け止められた刀から、びりびりと手が痺れるほどの衝撃が伝わってきた。一合、二合と切り結ぶも、届かない。投げつけたクナイのうち、胴体を狙った二本は弾かれ、振り上げた刀は真正面から受け止められた。知ってはいたが、人斬り狐の見せたその技量に舌を巻く。
だが――。
「一本は、入りましたね」
ぴしりと音が響いて、狐の面が割れていく。ふたつに分かれた面の下から現れたのは、身震いするほど冷たい表情をした、
彦根藩の藩主・直澄その人が立っていた。
「な……! あれは、三条の……?」
「お屋形さまが、人斬り? そんな馬鹿な!」
外野が呆然と呟く声は、幻乃の耳にはもはや届かない。目の前の男から目を逸らすこともできなければ、外に一切の意識を向ける余裕さえなかったからだ。他所に意識を移した瞬間、斬られて終わる。それが分かるから、目を逸らせない。
表情という表情を消し去った直澄は、頬についた傷口から流れる血を拭って、つまらなさそうに呟いた。
「……散歩は楽しかったか、幻乃」
「ええ、ええ。こんなにも月の美しい夜ですから、もちろん。生きるにも死ぬにも、良い日です」
ねえ、人喰い狐殿。
笑い交じりに呼びかける。
「せっかくお顔を隠していらっしゃったのに、見られてしまいましたね。申し訳ございません」
心にもないことを言えば、人形のような無表情のまま、直澄は「構わないさ」と答えた。
「どの道、生きて帰す気はない」
直澄は、誰を、とは言わなかった。敵陣たる幕府軍だけではなく、味方であるはずの者たちさえ、その言葉に息を呑む。普段と打って変わった冷たい声を出す直澄が、本当に己の味方なのか、誰も彼もが疑心に駆られていることだろう。
人斬り狐はひとりで動く。男も女も、老いも若きも、出会えば生きては帰れない。これまで素性の知れなかった
緊迫した空気の中で、幻乃はひとり上機嫌に笑った。
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