10

 揺らされるたびに響く腹の傷の痛みは、もはや快楽の一部でしかない。己を負かした強い男に好き勝手蹂躙される屈辱が、倒錯的な快感を幻乃に与えてくれた。同じだけ、同等の屈辱を直澄に与えてやりたくてたまらなくなる。この気の狂いそうなほどの快楽を分かち合うには、そうするしかないのだと、馬鹿になった頭がやかましく喚いていた。

 直澄の背に手加減なしに爪を立てながら、幻乃は衝動に抗わず、舌で直澄の頬の傷口を抉る。まだ血も乾いていない傷を舌先でねぶり、吸い付き、――やがて、幻乃の舌は、直澄の片目を奪った古傷へと辿り着いた。


「ずっと、覚えてたんですか」


 繋がっている場所から溶けてなくなってしまいそうな快楽の中で、息も絶え絶えに幻乃は呟く。


「……何?」

「目を潰されて、父を奪われて、あれから、十年?」


 言いながら、自分の言葉に際限なく興奮が高まっていくのを感じる。


「嫌味な狐面を被って、馬鹿みたいに強くなって、それで今は、こんな――」


 ひゅうひゅうと死にそうな喘鳴を上げながら、堪えきれずに幻乃は哄笑する。


「馬鹿ですね。本当に、馬鹿すぎる。死にたくなるのも納得しました。どんな気分なんですか? 恨んだ相手に惚れ込んで、味方だった者を裏切って、家を捨ててまでこんなことをしているっていうのは」

「……最悪だ!」


 本気で嫌そうに言うものだから、とうとう笑いが止まらなくなった。乱暴に突き上げられるのが気持ちよくて、食い殺されそうな目で睨まれるのが幸せでたまらない。


「俺も欲しい。あなたが、欲しい。直澄さん……!」


 がくがくと体を震わせて、幻乃は喉を晒しながら直澄の背をかき抱いた。死んでしまいそうな幸福感の中で絶頂を迎えて、うわごとのように直澄の名を呼びながら、幻乃はそっと目を閉じる。

 

 どうやら意識を飛ばしていたらしいと気づいたのは、直澄が幻乃を抱えたまま、床に座り込んでからのことだ。身を起こそうにも、甘い痺れが全身に走り続けていて、ろくに動けない。 


「死ぬ……」


 ぐてりと全身の体重を直澄に預けてもたれかかる。床にあぐらをかいた直澄は、繋がったまま軽々と幻乃を抱え直した。

 幾ばくかの冷静さを取り戻した頭で、本当に馬鹿だ、と幻乃は含み笑いをこぼす。

 自分も直澄も、何をしているのだろう。互いの体に巻かれた布にはおびただしい量の血が滲んでいるし、ただでさえ上等な状態とは言いがたかった着物は床の上でぐちゃぐちゃになっている。

 事後の気怠い空気に身を浸しながら、幻乃はぼんやりと口を開く。


「命が惜しくなった、と言いましたね。死ぬ気がないと言うのなら、直澄さんは、これからどうするおつもりですか」

「……戦が終わる前に都に向かう。乱れた世ならば、居場所をくらませるのは難しくない」

「なるほど、無謀だ。この雪の中を逃げ切るのもそうですが、戦乱の中をその体で通り抜けるのだって無理がある。逃げ切ったあとの拠点だって必要でしょう。……軍にでも入るおつもりですか?」

「他人の下につくのは性に合わない。手持ちの拠点に、別の名義で管理していたものがいくつかある。検問さえ抜けて中に入ってしまえば、どうとでもやりようはあるだろう」


 乱れた世には、行き場をなくした者が必ず溢れるものだから。

 当たり前のようにそう言い切れる豪胆さに、憧れずにはいられない。この先の見えない時代で、直澄には何が見えているというのだろう。何の根拠もないのに、聞いているだけで不思議となんとかなりそうな気がしてくる。藩主の直澄は死んだと言うけれど、上に立つ者としての生き方は、骨の髄まで染み付いているのだろう。

 それに引き換え、自分はどうだ。他人を巻き込み、不幸と争いを撒き散らした挙句に、本懐さえ果たせぬまま、標的に情を移してこのざまだ。ほとほと嫌になる。


「俺は……、どうしましょうかね。戦がまだ続くなら、どこかの私兵にでもなりましょうか」

「死ぬために?」

「斬るために。一番斬りたかったお方を、斬れなくなってしまったものでね。途方に暮れています」

「やるべきことがないのなら、ともに来るか。幻乃」


 耳元で吹き込まれた言葉が信じられなくて、硬直する。固まっている幻乃の頬を手で包んだ直澄は、ぐいと幻乃の顔を上げさせると、こつりと互いの額を合わせてきた。

 悪巧みをするような凶悪な顔。その瞳があまりに強い光を宿しているものだから、目が離せなくなる。震える心をさらけ出すように、幻乃は唇を戦慄かせた。


「……俺で、いいんですか」


 上擦る声がみっともない。期待を隠せていない、浅ましい幻乃の声を、しかし直澄は嬉しそうに受け止めた。


「お前がいい。言ったはずだ。生かした責任は取ると」


 思わず浮いた手を数秒宙に彷徨わせて、――迷った挙句に、幻乃は直澄の手に、そっと自らの手を重ね合わせた。


「安息とは無縁の人生を歩む覚悟があるのなら、俺とともに来い、幻乃。名を捨て、家を捨て、どれほど遠くに行こうとも、人の恨みはついて回るだろうがな。数えきれないほどの命を奪った報いを、きっといずれは受けることになる。まともな死に方はまずできないだろう。それでも、来るか?」

「それを俺に聞きますか? 人を騙して、扇動して、斬り殺すのが生業だった俺に?」


 間髪入れずに言い返し、幻乃は言質を取るように問いかけた。


「俺は、落とした首の数を金のために競ったこともあれば、自分の楽しみのために人を無意味に嬲ったこともあります。今回だって、自分の欲のためだけに戦場を作りました。およそまともな良心のない人間だということは、自覚しています」

「知っている」

「その俺を、本気で欲しがると言うんですね?」

「そう言っている」

「俺は……重い方だと思いますよ」

「奇遇だな、俺もそうだ」


 違いない、と笑った途端に、わけも分からず涙まで出てきた。切られた腹が痛くてたまらない。

 ひとしきり泣き笑いをしたあとで、幻乃は直澄を睨みつけて、挑発的に口角を上げた。


「いいですよ。ご一緒します。連れて行ってください。手始めに、どこまで生きて逃げられるか試しましょうか」

「そうだな。まずは、春を目指そうか」

「春?」


 思いがけない言葉に眉を顰める。幻乃の髪を指に巻きつけて遊びながら、直澄はなんてことないように頷いた。


「お前は三つの季節をここで過ごしたが、この地の最も美しい季節を見逃した。生きるにも死ぬにも、春以上の季節はない」

「春って……都なり関所なり、もっと具体的な目標が出てくるかと思えば……意外と夢想家なんですね」

「悪いか?」

「いいえ? 何でも良いですよ。どうせ、地獄まででもお付き合いすることになるんですから。ねえ、直澄さん」

「ああ」


 視線を交わしたその後で、幻乃は内緒話をするように、直澄の耳元へと唇を寄せた。そして、毒を吹き込むように低く囁く。


「忘れないでくださいね。俺を選んだのは直澄さんです。俺を捨てたら、その首斬り落としてやる。美しいあなたの死に顔を眺めれば、少しは心も癒されるでしょうから」

「……いいな。それはいい」


 うっとりと呟いた直澄は、喉を鳴らして笑いながら、幻乃を両腕で抱きしめた。


「これ以上ない口説き文句だ。いつかの下手な世辞より、よほど唆られる」

「どうかしてます」

「お互い様だろう? 俺も、お前が逃げたその時は、その腹を三度斬って、はらわたを引きずり出すとしようか。愛しい狐の死骸を愛でれば、傷心も少しは慰められよう」


 捻じ曲がった執心と、その言葉。どきりと胸が高鳴った。

 なるほど確かに、この上ない口説き文句だ。斬れないと投げ出された結末を、死の淵で味わえるなら悪くない。


「夜明けまで、でしたっけ。……まだ、時間はありますね」


 惹かれ合うように手を伸ばし、どちらともなく唇を合わせる。

 斬り合いよりも刺激的で、死線よりも愛しいもの。そんな存在と縁を結んでしまったのは、果たして幸か不幸かどちらだろう。

 熱のこもった目を至近距離で見つめ返して、幻乃は心のままに笑い声をあげた。

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