9

 自分が何を言ったのか気づいた時には、もう遅かった。口元を押さえたところで、一度外に出てしまった言葉が、今さら戻ってくるわけもない。ざっと血の気が引いていく。


「『斬れない』?」


 直澄の平坦な声が恐ろしかった。

 その目に軽蔑の色が浮かんでいたら。

 落胆が滲んでいたら。

 そう思うだけで恐ろしくて、目を見ることができなかった。ふらりと立ち上がった幻乃は、直澄から逃げるように数歩後ずさる。


「くそ……、くそ、くそ、くそっ!」


 自分で自分が口にしたことが信じられず、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱す。

 否定するための理由を必死で探す。

 自分はずっと、直澄との斬り合いを望んできたはずだ。誰より強いこの男の、事切れる瞬間の表情を夢想して、焦がれるようにその時を待ってきた。そのためだけに腕を磨いて、争いを扇動して、町を藩とを血で染めたのではなかったか。

 幻乃の愛するものは刀だけ。余計な情は、判断を誤らせるだけの不純物だ。

 自分が自分であるために、そう在りたいと思っていたし、そうでなければいけないとも思っていた。

 だって、直澄が賞賛し、復讐の対象としての執着を向け、再戦を望んだのはそういう男であり、それが間宮幻乃という人間なのだから。


「違う。違う違う違う! こんなはずじゃなかった! これじゃ俺は、何のために……!」


 腹の傷跡を掻きむしるように爪を立てる。一度目に受けた傷が癒えるまでの間に、すっかり染みついた仕草だ。直澄に斬られた傷をこうして確かめるたび、想いを募らせてきた。

 けれどそれは、こんな想いではなかったはずなのに。


「俺は……あなたと斬り合いたかった。それだけだ。ただ、それだけなんです……!」

「ああ」


 震える声でそう吐き出した幻乃を、直澄は否定しなかった。


「ただもう一度でいいから、本気で、命を掛けて、斬り合いたかった。あなたの前に、立ちたかった。後のことなど知りません。何人、何十人を巻き込んででも、あなたに俺を……俺だけを見て欲しかった……!」

「分かっている。……お前は本当に、どうしようもない」


 自嘲するように吐息だけで笑って、直澄はゆるりと頭を振った。


「……俺も、人のことを言えた義理ではないか」


 ゆっくりと身を起こした直澄が、一歩ずつ距離を詰めてくる。そのたび幻乃は、逃げ場などないのに、無意識のうちに後退っていた。

 狭い小屋で追い詰められるのなんてあっという間のことで、ついには扉に背が触れる。

 頑なに視線を上げない幻乃の顎に手を掛けて、直澄は強引に幻乃の顔を上向かせた。こちらの意思などお構いなしの傲慢な振る舞いに、反射的に顔を歪める。

 その瞬間、視線がぴたりと合わさった。

 普段通りの仏頂面のくせに、目だけがぎらぎらと愉悦に輝くその表情。たまらず舌打ちをして睨みつければ、直澄は心底おかしそうに口角を上げた。


「俺は斬れない。お前も斬れない。……馬鹿げた話だ。俺たちは、よく似ているな?」

「……最悪ですよ」


 息がかかりそうなほど近くで睨み合う。


「本当に、最悪だ……!」


 言うが早いか、幻乃は力任せに直澄の首を掴んで、噛み付くように口付ける。冷え切った唇は、煤と血に濡れた最悪な味がした。

 重ね合わせた唇のあわいに、粘膜の柔らかさを感じる。触れ合った舌に直澄の体温を感じた瞬間、理性が焼き切れた。両手で直澄の頭を抱え込み、幻乃は飢えたように直澄の血の味を貪る。

 血管が切れそうなほど興奮しているのは、幻乃だけではないらしい。直澄は頭蓋骨を握り潰す気なのかと思うほど強い力で幻乃の後頭部を引き寄せると、荒々しく背と腰をかき抱いてきた。


「幻乃……っ」


 何度も何度も角度を変えて、激しい口付けを繰り返す。呼吸の合間さえ見失うほど、夢中になっていた。興奮はおさまるばかりか一層煽られるばかりで、いつしか全力で走った後のように息が上がっていた。


「盛ってる余裕は……あるんですか」


 今この瞬間、すべてを忘れて、目の前の男とふたりで死ねるならそれも良い。

 熱に焼かれた頭に浮かぶ愚考を抑え込み、幻乃は問いかける。ここがまだ町中ならば、悠長に遊んでいる場合ではないはずだ。

 敵前逃亡に命令違反。味方殺しに友軍殺し。幻乃も直澄も、余罪をあげればきりがない。夜闇と混乱に乗じて身を隠さねば、逃げきれなくなる。

 獣のような目をした直澄は、幻乃の首元で荒い息を吐きながら、「夜明けまでは誰も来ない」と短く答えた。


「麓の旅小屋だ。夜に雪山を下りるものが他にいるとは思わない」


 押し殺した声で答えながらも、直澄は切羽詰まった様子で幻乃の袴を剥いでいく。待てないのだと、目と声と動作のすべてが物語っていた。喉の奥で笑っては見たけれど、幻乃だって同じだった。過ぎる興奮に手が震え、自分の服さえろくに脱げない有り様だ。


「雪山を歩いてきたんですか? その傷で? 馬鹿じゃないですか?」

「死ぬなら死ぬで構わないと……、そう思っていた。つい先刻までは」

「今は違うと?」


 剥き出しになった幻乃の肩を扉に押し付けながら、直澄は据わった目をこちらに向ける。


「惜しくなった。お前に手が届くのだと……そう思ったら……!」

「は……っ! なんですか、それ……っ」


 熱く湿った舌が首筋を舐め上げていく。身を震わせながらも歯を剥くように笑って、幻乃も直澄の袴を引きずり下ろした。

 目の前の男が欲しくて、どうにかなりそうだった。見上げれば自分の鏡のように、欲望にぎらつく瞳が一心に幻乃を見つめている。

 肌を重ねることにどれだけの意味があるのかなんて、分からない。けれど、言葉では間に合わないことだけは確かだった。体を這う手がまどろっこしく思えて、わざと肩の傷口を押すようにして直澄を押しのける。

 ずるずるともつれ込むように、ふたりして冷たい床に座り込んだ。体を高めるための行為さえじれったいと感じているのは、幻乃だけではないらしい。腿を撫で上げた直澄の手が、強引に幻乃の腿を割り開いていく。

 乾いた指で後孔に触れて初めて、濡らすためのものがないことに気が付いたのか、育ちに似合わぬ品のない舌打ちが聞こえてきた。見たこともないほど余裕を失っている直澄に吹き出しそうになりながら、幻乃は剥ぎ取られたばかりの袴を足で探り、見つけた軟膏を投げ渡す。

 まぐわいもろくに知らぬ童子かと揶揄ってやりたくなったけれど、開いた口から出たのは、直澄に負けず劣らず切羽詰まった声と、およそ正気とも思えぬ熱い吐息だけだった。


「さっさとしてくださいよ、この愚図……っ!」

「本当に、聞くに耐えない……! 俺にそんな口を聞くのはお前くらいだ。昔も、今も」

「気に入らないなら、塞いでみてはいかがです?」


 飽きずに口吸いを繰り返しては、互いの体をまさぐりあう。きしみとともに後孔へと埋め込まれた直澄の指が、性急にその場所を拡げようと忙しなく動いていた。

 解されるのを待つのすらもどかしい。軟膏が塗り込まれるや否や、幻乃は直澄のものを片手で掴み、急かすように自らの尻へと押し当てた。

 どちらのものかも分からない、荒い吐息が耳につく。飢えたような目をした直澄を見ると、余計に我慢が効かなくなった。

 背を支える直澄の手に体を預けながら、幻乃は逸る心を宥めて、ゆっくりと腰を降ろしていく。舌を出して誘えば、噛みつくような口付けを与えられた。わざと締め付けるたび、歪む直澄の表情がたまらない。


「いい顔、ですね」

「お前は……っ」


 引きつった顔をした直澄を、止める間もなかった。腰を強く掴まれたかと思えば、直澄はそのまま幻乃の体を抱え上げ、力任せに立ち上がる。


「うわっ」


 背を叩きつけられるように、体を壁に押し付けられる。慌てて直澄の首に手を回せば、直澄はその大きな手のひらで、幻乃の背と尻をしっかりと支えてくれた。


「馬、っ鹿じゃないんですか……っ、こんな……!」

「馬鹿で結構。お前は、自由にさせると……ろくなことをしない!」

「腕! 俺は、殺す気で刺したんですよ……!」

「十年前から背も伸びていないような狐一匹、片腕だけで事足りる!」

「はあ? ……くそっ」


 揺れる足が心許なくて、両足を直澄の体に絡めると、交わりが一気に深くなった。ぞわりと下肢に走った甘い感覚に、幻乃はたまらず声を上げる。

 主導権は完全に直澄の手にあって、幻乃にできることといえばただ、突き上げられるたびに走る快楽に啼くことだけだった。己の媚びた掠れ声を恥じる間もなく、耳元で直澄が、笑い声なのか喘ぎ声なのかも分からぬ甘やかな声をこぼすものだから、聞いているだけで達してしまいそうだった。


「幻、乃。幻乃……! 俺は、お前が欲しかった。きっと、ずっと、欲しかった」


 笑いたいのか泣きたいのかも分からぬような見るに耐えない顔をして、直澄は幻乃を見つめていた。その目で焦がれるように見られると、身も心も疼いてたまらなくなる。


 直澄の隻眼は潤んでいた。興奮のせいなのだろうと思ったけれど、瞬きをした次の瞬間、赤く染まった目の縁から、一筋の涙がこぼれ落ちていく。

 あ、と思った。

 こちらを刺すような鋭い視線。恥じることもせずに流される涙と、潰れて開かない左目。

 クナイを見せると反射のように緊張感を纏わせる、おかしな態度。まるで誰かの言葉をなぞるように投げかけられた、刺々しい言葉の数々。

 適当に遊んで逃してやろうと思ったのに、切っても切ってもしつこく追い縋ってきたあの執念。

 どれもこれも、覚えがある。


「あは……、はははは!」


 思い出した瞬間、笑いが止まらなくなる。

 恨まれているのも当然だった。


「ああ……戦場で泣く馬鹿なガキが、いましたね。あの日は虫の居所が悪くて、痛ぶってやった覚えがあります。……なるほど、たしかに十年前だ。立派に育ちすぎて、ちっとも気づきませんでした」


 直澄がかすかに目を見開いた。その瞳の淵から流れ落ちる涙を舌で舐め取って、幻乃は笑う。


「あのお子さまが、よくもここまで強くなったものだ。あの時殺し損ねて、本当に良かった……! そうは思いませんか、直澄さん」


 額を合わせて微笑みかければ、ぷつりと理性を切らしたかのように、直澄の瞳孔が広がる瞬間が見て取れた。

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