8

 炎が弾ける音がした。家屋が焼ける音にしてはいささかのん気な、まるで焚き火か囲炉裏のような儚い音。

 自分がどこにいるのかも分からぬままに、前髪を払われる感触に目を開けた。視界に映った男の手を咄嗟に叩き落として、幻乃は痛む頭を抑えて身を起こす。

 そこは民家とも言えぬ狭い古小屋の中だった。辺りは暗く、人の声ひとつ聞こえない。窓からは薄らと積もった雪が見え、赤く頼りない光を散らす小さな囲炉裏いろりが、ぼんやりとぬるい熱を放っている。

 まかり間違っても、殺し合いをしていたはずの幻乃がいていい場所ではない。

 じくじくと痛む腹の傷は、浅くはないとはいえ、腸もこぼれない程度の深さでしかない。その傷さえもきっちりと手当てをされている上、与えた本人に寝顔を見守られている状況ときたら、笑えばいいのか喚けばいいのか、もはや分からなかった。

 直澄はどれだけ幻乃を馬鹿にすれば気が済むのだろう。

 体の芯から冷えわたる、最悪な気分で幻乃はうめく。


「……なぜ庇ったんです」

「さあ。体が勝手に動いていた」


 ふざけた返事に直澄を睨みつける。その時初めて、幻乃は直澄の首から下の無惨な様子に気がついた。上等な作りの着物は焼け焦げ、ところどころが破れている。手当てこそされているのものの、幻乃が刺した傷に加えて、ひどい火傷の跡があちこちに見て取れた。

 ――せっかく綺麗な背中だったのに。

 わけも分からず腹が立った。幻乃の視線の剣呑さに気付いたのか、直澄がそっと目を伏せる。その視線の動きにさえ怒りを煽られ、唸るように幻乃は吐き捨てた。


「殺せ」

「それは、俺が決めることだ。お前は殺さない」

「ならばその命、俺に寄越すがいい!」


 表情ひとつ変えない直澄に腹が立った。もはや口調を取り繕う余裕もない。

 恩人たちの町を焼き、世に争いを煽動してまで整えた、唯一無二の機会だった。この期に及んで殺してもらえなかった事実を、とても受け入れられない。吐きそうなほど、幻乃の心はぐちゃくちゃに乱れていた。

 目の前が真っ赤になるほどの怒りを、幻乃は抑えない。袴に仕込んだクナイを手に取り、まっすぐに直澄の首を狙う。

 けれど、直澄は幻乃の手首を掴むと、やすやすと寝台に縫いつけてしまう。幻乃にできることは、ただ直澄を睨みつけることだけだった。


「殺せ、人斬り狐……!」

「無理な話だ。俺はもう、お前を斬れない」


 淡々と告げられたその言葉に、斬り合いの最中の直澄の表情を思い出す。泣きそうな、無様な表情だった。あの時自分は、己の刃が直澄に届かなかったことに、どこかで安堵してはいなかっただろうか。自分が斬る立場にならずに済んだことを、良かったと思いやしなかったか。

 締め付けられるような胸の痛みには気付かぬふりをして、幻乃は挑発するように頬を歪めてみせる。


「戯れ事を。刀を向け合った以上、生きるか死ぬかだ。間はない!」

「お前がそう望むなら、斬ればいい。ただし、クナイではなく刀で。その方が早い。お前の忍具で斬られるのは、いい思い出がないものでな」

「……っ、ふざけるな。俺はあなたに負けたんだ。死ぬべきはあなたではなく、俺だ。殺せ!」


 幻乃が喚き散らしても、直澄は顔色ひとつ変えなかった。ただ疲れたようにため息をついて、静かに首を振る。


「なぜそうも死にたがる? どうしてお前は、ここまでのことをした? 敗者はお前だと言うのなら、答えろ。幻乃」

「……なぜ? なぜだって? あなたには分からないでしょうね。主を失い、仕える家も失くして、新時代とやらに居場所もない。ならばせめて剣士として華々しく死にたいと望むのは、そんなにもおかしなことですか⁉︎」

「これだけの人数を巻き込んでまで、、場を整える必要性を感じない」

「――今じゃなきゃダメなんだよ!」


 血走った目で幻乃は喚く。直澄が驚いたように目を見開く様に、ほんの少しだけ胸がすく思いがした。


「時代は変わる。いや、もう変わった! 刀はいずれ奪われて、必要悪だった人斬りはただの悪になる。そもそもそんな後ろ暗いこと、やる必要もなくなる! 人斬り狐だって、いなくなる。面を被ったあなたと向き合える機会は、今だけだった!」

「面を被ろうが被らまいが、俺は俺だろう」

「そのあなたは、刀を捨てるんだろうが!」

「……?」


 言えば言うほど、直澄は困惑を深めていく。幻乃自身でさえ、自分が何を伝えたくてこんなにも無様に喚いているのか、正直なところ分かっていなかった。


「俺を負かしたあなたが刀を捨てるなんて、許せない。堪えられない……! 俺は……、俺にはこれしかないんです。あなたと斬り合うのが一番楽しかった。あなただけが俺を分かってくれた。でも、刀がなければ、俺はあなたに向き合うことすらできません」


 声が震える。情けなくも滲んだ涙を、腹の傷の痛みのせいにして、幻乃は駄々をこねるように喚き続けた。


「藩が廃止されたって、皆あなたを慕っている。刀を捨てたあなたは奥方を迎えて、家庭を作って、人に囲まれて、穏やかな時代を生きていくんでしょう。俺は、そんな風に腐っていくあなたを見たくない……!」


 堪えきれなかった涙が一筋、眦から流れ落ちていく。引きつる頬をなんとか嘲笑の形に歪めて、幻乃は直澄を睨みつけた。


「愚か者でも気狂いでも、なんとでも言えばいい。緩やかに死んでいくあなたを見るくらいなら、あなたが一番強く美しい今、殺し合いたかったんです。直澄さん……!」

「――なぜ俺が刀を捨てなければならない?」


 血を吐くような幻乃の言葉に耳を傾けつつも、心底理解できないとばかりに、直澄は眉間に皺を寄せた。

 こちらを見つめる直澄の目があまりに澄んでいるものだから、幻乃もそれまでの勢いをなくして、「なぜって……」と口ごもるしかなかった。


「だって、維新は為りました。もう人斬りの必要はないでしょう」

「たかだか年号ひとつ変えるだけで、悪人すべてが法の下で裁かれるようになると、お前は本気で思うのか? 対立する意見を誰もが聞き入れ、皆が喜んで話し合うようになるとでも? そんな世界があるのなら、俺もお前も、後ろ暗い仕事などしてこなかっただろうよ。時代の枠が変わったところで、そこに生きる人間がそう簡単に変わるものか」

「だけど! 刀を持つ者は、きっと減っていく。それが時代の流れです」

「なぜ俺が大多数に合わせる必要がある?」

「な……!」


 あっけらかんと告げられた言葉の衝撃に、幻乃ははくはくと口を開閉する。幻乃を突き動かしていた理由が、ひとつずつ理路整然と封じられていく。それは直澄と切り結ぶとき、一手、また一手と取れる手段を封じられていくときの恐怖とよく似ていた。


「……あなたは藩主で、人斬り狐でしょう! 維新のために必要だから、誰より多く人を斬ってきた。新時代を迎えるためにやってきたのではないのですか!」

「強者と斬り合うには都合が良かったから引き受けていた。それだけだ。藩主の座とて、別に望んで手に入れたものではない。その立場にあったから、必要だと思うことをしていただけだ」


 つまらなさそうに語る直澄の声音に嘘は感じられなかった。元より、幻乃と違って直澄は必要のない言葉遊びを好むたちでもない。

 幻乃が怯んだことを感じ取ってか、直澄は皮肉げに唇の端を上げて、逃がさないとばかりに顔を近づけてくる。


「時代が刀を必要としなくなったとしても、俺が俺であるためには必要だ。お前だってそうだろう、幻乃。刀が必要でなくなることなんてない」

「それは……、そうですが……」

「俺は刀を捨てない。人斬りは裏に潜ることはあれど、不要になることはないだろう。どうとでもやりようはある。……それで? それ以外は? お前の理由を教えてみろ、幻乃。なぜ急に俺を殺そうとした。今まで寝首をかこうとしたことすらないくせに。それとも、なぜ死のうとしたのか、と聞いた方がいいか?」

「俺……、俺、は……」


 廃刀令の話を聞いたから。

 冬馬に誘いを持ちかけられたから。

 彦根藩に居づらくなったから。

 どれも正しいのに、どれも理由のすべてではない。

 救いを求めるように、幻乃はぎこちない動きで腕を持ち上げる。そのまま直澄の顔に手を伸ばし、自分がつけた頬の傷を確かめるように指でなぞった。幻乃は腹を切られたというのに、幻乃が直澄に与えられたのは頬と肩の傷だけだ。そう思うと猛烈に腹が立って、幻乃は手加減なしに直澄の傷に爪を突き立てた。


「……――っ」


 痛いのだろう。かすかに眉間に皺を寄せた直澄が、声にならない浅い息を漏らす。その表情がひどく官能的に見えたものだから、そんな状況ではないと分かっているのに、思わず目を奪われた。

 傷口から離そうとした幻乃の手を、直澄は自らの手を重ねることでその場に留めた。幻乃の手に頬をすり寄せた直澄は、何を考えているのかも分からぬ無表情のまま、目を細める。

 しばし無言で見つめ合い――やがて、直澄は穏やかに口を開いた。


「俺を恨んでいるか、幻乃」

「……生かしたことを言っているのなら、恨んでいますよ。ずっとね。二度も負かしておいて、よくも生かしてくれたものだ」

「そうだな。だがこれで、お前の主人への義理も果たした」

「え?」


 なんでもないことのように、直澄は続ける。


「半年前、お前が昏睡している間に、小浜藩から彦根藩への討ち入りを偽装した。報復という名目で、小浜藩を落とすためだ。先のことを考えると、被害は最小限に留める必要があった。争いは一昼夜続いた。酒井俊一殿の首を斬ったのは、俺だった」


 それは、今まで聞いてこなかった俊一の最期の話だった。興味はないと言ったのに、なぜ今さら語って聞かせるのか。幻乃が口を挟む間もなく、直澄は語り続ける。


「酒井俊一殿は、焼ける屋敷の中央で、堂々と座しておられた。これも時代の流れかと語り、最期まで微笑みを崩さぬ態度は、敵ながら立派なお姿だった。家族のことも藩のことも後に任せてあると言っておられたが、命を落とす寸前、思い出したように彼は笑った」


 淡々と語られる俊一の様子は、幻乃の記憶の中にある主人の姿そのものだった。端的な言葉だけで、どんな風に主人が最期を迎えたのか、ありありと想像できる。


「『あなたとの斬り合いに焦がれる狐を一匹、飼っておりましたよ』……」


 俊一の最期の言葉を語る直澄の声に、俊一の声が重なって聞こえるような気がした。

 ――散歩に出たきり、まだ帰ってきておりませんが、もしも生きているのなら、いずれ相見える機会もありましょう。その時は、どうか刀を合わせてやってはくださいませんか。見かけの割に狂暴なもので、野に放って人里を荒らさないかと、どうにも気掛かりなのです。

 死の間際だというのに、きっと普段通りの柔らかな笑顔を浮かべていたのだろう。風がそよぐような、低く優しい声を覚えている。『狐』と苦笑いする主人の声の響きを思い出し、幻乃は静かに目を伏せた。


「……人を獣扱いしないでくださいと、何度も申しましたのに」

「実際、獣だろう。お前の主人は、お前のことをよく理解していた。妬けるくらいにな。……もっとも、刀を合わせたところで、狐は人里を荒らしたが」


 力なく笑いながら、直澄は幻乃の上から体を退かす。何をする気かと見ていれば、壁に立て掛けてあった刀を鞘から抜き、刃の先端を手で持つと、くるりと刃を回して、無造作に柄を幻乃の眼前へと突きつけてきた。

 幻乃のものでも直澄のものでもない、見覚えのない刀だ。何人斬ったのか、刃こぼれは酷いし、血と油も刃にこびりついている。それでも、人ひとりの命を奪うには十分だろう。

 そっと跪いた直澄は、恭しくさえある動作で幻乃にそれを握らせると、凪いだ瞳で幻乃を見つめてきた。


「決着はついた。命が欲しくば、取っていけ。俺はお前の主人の仇で、お前のすべてを奪い、生き恥を晒すことを強いた敵だ。恨みを晴らしたければ、好きにしろ」

「は……?」


 あまりのことに、怒りさえ湧いてこなかった。斬り合いの決着というなら敗けたのは幻乃だし、無抵抗に首を差し出す直澄をなぜ斬らねばならないのか。たっぷり数秒もの間絶句して、幻乃はようやく口を開いた。


「あなたは、藩主でしょう。戦はどうなったんですか。同盟軍は。新政府は。俺が言うことではありませんが、直澄さんはこんなところで命を落としていい方ではないでしょうに。何を馬鹿げたことを言っているんですか?」

「三条直澄は死んだ。もう、藩主ではない」

「……はあ?」


 ならばお前は誰のつもりだとよっぽど詰ってやろうかと思ったけれど、直澄の顔には、こちらを揶揄っている気配もなければ、退く気配も窺えなかった。

 そこでようやく、幻乃は直澄が意味していることを察して、唇を戦慄かせる。


「まさか、三条家を捨てると言うんですか?」

「人斬りが藩主でいられるものか」

「どうとでもごまかせたでしょう、そんなもの。夜の暗がりでの見間違いなり、混乱させるために敵方がでっち上げた言い掛かりなり……藩主が白と言えば白になる。そんなこと、分からないあなたではないでしょう……!」

「罪もない民を手に掛けた。同盟軍も切り捨てた。潮時だ。……俺は、周囲の心も命も、どうでもいい。藩主の立場が俺にとって有益だから利用していた。重荷になるから、捨てる。それだけだ。元々、廃藩に合わせて消えようと思っていた。平和な世には、護久のような者こそ相応しい。過去の主人など、いたところで邪魔になるだけだ。多少消える時期が早まったところで問題はない。命も――」


 どうでもよさそうに言いながら、ぐ、と直澄は刃を己の首に押し当てた。


「もう、願いは叶った。生きることへの執着はない。お前が俺を斬ることを、妨げるものは何もない。やれ、幻乃」

「な……っ」


 刃が直澄の首の皮を割く。赤い血がじわりと滲む。慌てて刀を引こうとしたけれど、刃は動かなかった。


「離せ……!」

「なぜ?」

「離せと言っているんです!」


 柄だけを幻乃に握らせて、刃は自分の手で進めるなど、こんなもの、ほとんど自刃と変わりやしない。わけも分からないまま焦る幻乃とは裏腹に、何かを確かめるようにこちらを見てくる直澄の視線は、痛いくらいに真っ直ぐだった。


「お前を斬れないなら、せめてお前に斬られたい。幻乃」


 ゆるりと瞳を細めるその表情を目にしてしまえば、もう耐えられなかった。乱暴に舌打ちした幻乃は、肩を蹴り飛ばすようにして直澄を押し倒し、直澄の手から刀を払い落とす。


「ふざけるな……!」


 からん、と甲高い音を立てながら、刀が床に落ちていく。直澄の上に馬乗りになった幻乃は、肩で息をしながら、くしゃりと顔を歪めた。


「俺は……! 俺は斬れない! 斬りたくない!」


 気付いた時には、悲鳴じみた怒鳴り声を上げていた。

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