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 ぱき、と小枝を踏む音が聞こえた。新手かと顔を上げるが、そこに立っていたのは白髪の老人ひとり。藩医として戦線に同行していた彦丸だった。直澄が握る刀と、地面に積み上がった死体の山を交互に眺めて、彦丸は悲しげに頭を振る。


「……何ということを。彼らは、同盟軍ですぞ。知らぬわけもないでしょうに」

「他の者は」


 彦丸の言葉に答えぬまま問いかければ、彦丸は震える唇を動かし、短く答える。


「敵将の首は落ちました。今は皆であなた様を探しているところです」

「そうか」


 血の滴る刃を見つめながらも、彦丸はためらうことなく距離を詰めてきた。何をする気かと眉を顰めれば、孫を叱りつける祖父のように、彦丸は気丈に直澄を見上げてくる。


「儂は医師です。治す以外に、何もしやしません。分かったら、その物騒なものをお仕舞いください」


 無言で見返せば、焦燥感も露わに彦丸は辺りをきょろきょろと見回しながら、直澄を急かしてきた。


「他の者に見つからぬうちに、お早く。手当てできる場所まで先導いたします。いくら直澄さまでも、片手で意識のない男ひとり抱えるのは無理でございましょう。この無茶ばかりするお侍さんは、儂では抱えられませぬぞ」


 言われた通りに幻乃を担ぐと、彦丸は木々に紛れるように下町への道を歩いていった。行き着いた先にあったのは、一軒の小さな納屋だ。見覚えのない場所に記憶を探っていると、それに気付いたかのように「豆腐屋の倉庫です」と彦丸が小さな声で呟いた。


「この焼き討ちです。町人にも怪我人が多く出るだろうということで、薬を置いておくのに使わせてもらったのですよ。お鶴ちゃんが口を利いてくれました」

「準備の良いことだ」

「備えがあるに越したことはありませぬからな」


 幻乃を寝台に下ろすようにと指示した彦丸は、手早く薬と水、そして清潔な布を引っ張り出すと、傷の手当てに乗り出した。幻乃と直澄の傷を忙しなく交互に見つめる彦丸に、「幻乃を先に」と命じれば、眉を顰めつつも彦丸は当て布の半分を直澄に渡してきた。「ご自分の傷を押さえていてください」と鋭く言って、彦丸は手際よく幻乃の傷を閉じていく。

 一通り幻乃の手当てが終わると、彦丸は丁寧な手つきで直澄の肩の傷を洗うと、血止めの薬らしきものを塗り、布を巻きつけていった。ありがとう、といつもの癖で礼を言った後で、直澄はぽつりと問いかける。


「なぜ、他の者に知らせない?」


 事が露見すれば直澄はただの犯罪者であり、幻乃に至っては敵陣営の人間だ。助けたところで面倒事にしかならない。藩医としての義務感で手当てをするだけならばまだしも、わざわざ人目のつかぬ場所に連れてきてまで、なぜ匿おうとするのだろう。

 傷の手当てを続けながら、彦丸はむっすりと呟いた。


「……儂には何が正しいのか分かりませんゆえ。人斬りをしてまで新時代を作る必要があったのかも分かりませんし、こんな大規模な焼き討ちをしてまで、なぜ幻乃さんたちが戦を起こしたのかも分かりません。今はただ、分かることをしているまででございます。怪我人がいれば手当てをするのが儂の仕事ですから。それに――」


 口ごもった彦丸は、ちらりと複雑そうに幻乃を見た。


「幻乃さんはもともと目的があって潜入していたのか、そうでないのかも知りませんがね……文を、投げ込んで行きおったでしょう。この馬鹿者は」

「ああ……」


 焼き討ちの直前、彦丸から受けた報告を思い出す。曰く、彦丸とお鶴の家には、匿名の投げ文があったらしい。

 ――満月の夜には町も屋敷もすべて焼け落ちる。匿く避難されたし。

 癖のない毛筆で書かれた文とともに包まれていたのは、せめてもの詫びとでも言うような、一両小判。


「恩を感じていたのだろうよ」

「ならこんな馬鹿げたことをせんと、大人しく弟子になっておけばよかったというのに。なぜ刀だ殺し合いだと、物騒な方向にばかり行ってしまうのかね。馬鹿者ですよ。幻乃さんも、……直澄さまも……。幼い頃からお仕えしておきながら、今の今まで気づきもせず、お止めすることさえできませんでした。自分が情けのうございます」

「隠していたのは俺だ。彦爺が気に病むことは何もない」

「それでも、です」


 手当てを終えた彦丸は、終わりの合図というように軽く直澄の肩を叩くと、そっと距離を取った。


「……これからどうなさるおつもりですか」

「さて、どうしたものかな」

「当ては、あるのでしょう? 直澄さまは、そういうお方です。昔からかわいげがないくらい優秀で、弱みなんて見せてもくれずに、おひとりだけですべて手を回してしまわれる。臣下としては、複雑でしたからな」

「そうか」


 彦丸の目の中は、紛れもない慈愛があった。長年仕えてくれた相手を前に、口封じをするべきかどうかをこの状況でも考えている己は、やはりどこかがおかしいのだろう。黙ったまま目を伏せた直澄を見て、何かを察したように彦丸は背を向けた。


「儂は薬の調合を始めると、周りのことが目に入らなくなるのです。たとえば患者が姿を消したとしても、誰ぞにやむを得ない理由で襲われたとしても、気づかないでしょう。……何、もともとこの老体です。何を気に病むこともございませぬ。すべて直澄さまの、御心のままに」


 座したまま無防備に差し出された首を見て、直澄はそっと、刀の柄から手を放した。


「……。彦爺は、最近物忘れがひどかったろう。お前は何も見なかった。誰とも話さなかった。この小屋には、薬を取りに立ち寄っただけだ」

「仰せのままに」


 幻乃を背負い、扉に手を掛ける。どさりと何かが落ちる音に足元を見れば、ぱんぱんに薬の詰められた革袋が落ちていた。幻乃の懐に入れられていたらしい。拾い上げた後で、ちらりと彦丸に視線を送る。


「薬の調合は幻乃さんが覚えておるでしょう。傷が閉じるまでは、毎日塗ってください」

「……世話になった」

「どうか、ご健勝で。差し出がましいこととは思いますが、討ち死になされた、と……そういうことにされた方が、護久さまにとっては良いと思います。敬愛する兄君が冷酷な人斬りであったと知れば、苦しまれることでしょうから」

「護久は、優しい子だからな。……気に掛けてやってくれ」

「はい」


 会話はそれで途切れた。音もなく扉をくぐり、直澄は幻乃を背負ったまま、振り返らずに山を下る。

 雪の吹きすさぶ夜の山道を歩くなど、地元民でもしない馬鹿げた行為だ。

 ここで死ぬなら、それも良い。

 生きるとすれば、どうしようか。

 背に感じる体温を抱え直して、直澄は淡々と足を動かし続けた。

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